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交通僻地の山村と修学旅行




          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(12)

              ☆交通僻地の山村と修学旅行

 AR君の集落から見た西側の平坦な田畑のひろがる風景、これを前節の最初で述べたが、その逆の東側には蔵王連峰の峨峨たる山々が迫っており、その最先端に前々回触れた標高1320㍍の瀧山(りゆうざん)が壁のようにそびえている。この瀧山と麓のAR君の集落や小中学校のある平地との中間に盆地状の小さい平地があり、いくつかの集落がある。ここの標高は約500㍍、山間高冷地で、当然雪も多い。
 私の生家から見るとこの山間集落はちょうど瀧山(りゆうざん)の中腹にあることになるが、そこはくぼんでいるようになっていて、家々は見えない。でもそこに集落があることは大人から聞いており、春先に野焼きの煙があがるなどで人が住んでいるのだと改めて感じたりしたものだった。
 私がこの地域に最初に行ったのは小学三年、1944(昭19)年の初夏だった。聖戦完遂・食糧増産のためにその地域の原野開墾を手伝う勤労奉仕で三年生全員先生に引き連れられて出かけたのである。

 ちょっと脱線するが、今言った「勤労奉仕」についてちょっと説明しておきたい。
 勤労奉仕とはお国のために無償で労力を提供することを言うのだが、日中戦争がはじまったころの1938年からそれを何日間か実施するよう小中学生に義務付けられた。さらに44年からは戦争激化による工場や農村の労働力不足を補うための勤労奉仕に国民学校初等科(現在の小学校)以上の生徒が通年動員されるようになった(これを「勤労動員」と言った)。そして勤労動員させられた中学生・女学生と小学校高等科の生徒(今でいうと中学生と高校二年生までの全員)は、授業などまったくなしで軍需工場や開墾などで働かされ、なかには軍需工場空襲などで犠牲になったものもかなりいた。私の場合は初等科の生徒(=小学生)だったので勤労動員はなかったが、勤労奉仕は学校行事としてさせられた(註1)。その一つがこの開墾であり、前に述べた疎開先の山寺での線路の敷石の補修(註2)だった。家内の場合は桑の根の掘り取り(桑畑を普通畑にして麦など食糧を生産するため)の勤労奉仕を本来なら夏休みの8月15日にもさせられており、その昼休みに農家の庭先で敗戦の詔勅のラジオ放送を直立不動で聞かされた、内容はさっぱりわからなかった(註3)とのことである。

 話を戻そう、その勤労奉仕の日、朝何時だったか忘れたが、普通の始業時間より1時間くらい早かったと思う、自分の家のあるいは近所から借りた鍬やシャベルを肩に担ぎ、お握りを包んだ風呂敷を腰の回りに巻いて学校に集まり、整列して出発した。最初は千歳山の遠足(註4)などで知っている平坦な道だが、やがて知らない道に入り、徐々に坂道となった。1時間も過ぎると急な上りとなり、家々はなくなる。30分くらい経つと少し緩やかとなり、家々も見えてくる。ともかく初めてのところ、どこをどう通ったのかわからないが、S沼(これまで見たことのない大きな沼だった)のあたりから細い山道に入って原野(今考えてみれば集落の草刈り場だったのかもしれない)に到着した。3時間近くかかったのではなかろうか。
 一休みしてから指定された場所を鍬やシャベルで掘り起すよう命じられた。若干人手が入ったような跡があったが、それは形ばかり、すすきなどの草の根でしっかり締まった原野の土をしかも子どもの力で耕すなど容易ではなかった。1時間半もしたら昼飯、休憩してまた再開、終わりは2時半ころではなかったろうか。実質2時間半くらいしか働かなかったのではなかろうか。暗くなると悪いからと出発である。帰りは下りで楽だったが、それでも往復と開墾とでくたくただった。
 いずれにせよこの勤労奉仕であまり開墾が進んだとも思われない。若干でも畑らしくなった、お国の役に立ったなどという実感はまったくなしで帰ったものだった。
 こんな思い出があるのだが、まともな山間地の集落を見るのはそのとき初めて、もしかするとこの辺の人が生家に山菜を売りに来るのかななどと後で考えたものだったが、ここの集落の子どもたちが平坦部にある村の中心部や小学校まで歩いて通うのは大変だろうななどと考えるようになったのはさらに後だった。

 AR君はこのT村の平坦部の集落に住んでいるのだが、彼に聞くと、小学校からもっとも遠い集落の子どもたちは通学に片道1時間15分くらいかかったのではないかとのことである。当然のことながらバスなど通っておらず(バスが通ったのは1950年代になって初めて、それも途中の集落までだった)、当時は歩くしかなかった。
 このことで思い出すことがあるとAR君は言う。
 あるとき、集落の一番上に家のある同級生が友だちから「家から学校までどのくらい遠いの?」と聞かれた。そしたら彼はこう答えた、「走って1里だよ」と。それをそばで聞いていたAR君は「走っても歩いても1里は1里だろうに」と思っておかしかったが、彼はきっと遠いことを強調するつもりだったのだろう、「歩けば1里半もある」と言いたかったのではなかろうかと後になって考えるようになった。当時は一般に一里歩くのに1時間と言われていたので、「走って1時間かかる=歩けば1時間半くらいかかる=1里半の距離がある」と言いたかったのだろうと。
 このようにともかく遠かった。しかも山間部、登り下りが激しかった。当然のことながら冬には豪雪とくる。いうまでもなく冬期間の通学は無理である。だから12月から3月までの冬期間はこの集落に分教場を置き、小学一、二年の子どもはそこで授業を受けることになっており、地元の教員有資格者が教えていた、しかし三年からは豪雪の中でも片道1時間半もかけて本校舎に通ったという。

 このような山間僻地(「僻地」という言葉はあまり好きではないが、ここでは交通不便な地域という意味で使わせてもらう)の子どもたちが、修学旅行で列車に乗るために山形駅まで歩いていくとなると大変である。もっとも遠い家から直線距離で約7㌔(実際の道路を通れば10㌔近くになるのではなかろうか)、標高差は約400㍍、歩いたら2時間以上はかかる。子どもの足ではもっと時間がかかるだろう(AR君のように平坦部の学校の近くに家があれば、山形駅まで約3㌔、当時の子どもならそれくらい歩くのは当たり前、だから問題はないのだが)。 
 これでは汽車に乗って遠くまで修学旅行をするのはきわめて大変だ。今と違って本数は少ない、スピードはおそいから、どうしても朝早い汽車に乗らなければならない。当然帰りは夕方到着となる。となると山間地の集落の子どもは朝暗いうちに起きて駅に向かい、夜は暗くなってから家に到着となる。朝はまだいい、暗いうちに出ても徐々に明るくなるからだ。しかし帰りの夜となるとそうはいかない。暗くなるだけである。しかも登りと来るから時間は行きの時の倍近くかかる。ましてやまだ脚力のない小学生などは時間がかかる。当然すぐに真っ暗になってしまう。しかし懐中電灯などあるわけない。当時は街灯など農山村にないころ、まばらな家々のしかも数少ない暗い電灯の灯りでは、いくら慣れた道とはいえ歩けない。しかもいろんな面から危険である。
 親など家族の誰かが迎えに来ればいいかもしれない。しかしそうすると半日は働けない。雪のない短い期間で1年間の生活費を稼がなければならないときに、そんなことをしている暇はない。農林業はみんなそうなのだが、とくに山間高冷地では1日、2日の作業の遅れで収穫皆無になる恐れがあるのだ。とてもではないがそんなことで時間をとるわけにはいかない。傾斜地での厳しい労働の上に子どもの送迎などでまた仕事を増やすわけにもいかない。
 それなら学校の先生方が家まで送っていけばいいではないか。しかし山間部の東、北、南の広い範囲に散らばっている家々に、ましてや真っ暗な中、子どもを送り届けるなどというのは至難の業である。
 こうした事情を学校側も考えざるを得ない。そうすると、他の小学校、たとえば私たちのような駅に近い平坦地の小学校のように、湯野浜旅行というわけにはいかない。
 それで、すぐ近くの(といっても当時のT村からは、ましてや子どもにとっては別世界のように遠かったとAR君はいうのだが)白岩旅行ということになったのではなかろうか。
 子どもたちはみんな自分たちだけでその日のうちに帰宅したとAR君はいうが、白岩旅行だからそういう時間帯に帰ることができたのだろう。
 つまり私たちの修学旅行とAR君たちのT村の修学旅行の差異は、交通の便の良し悪しによって、交通僻地の山間地をかかえていたかどうかによって、その後の車社会では考えられないくらいの当時の都会と農村、とくに山村との地域格差によって引き起こされたものということができよう。

 でも、とまた疑問がわいてしまう、中学生になったら、少々の無理はきくのではなかろうか。
 実際に中学二年には私たちと同じように松島日帰り旅行をしている。つまり朝暗いうちに起きて出かけ、夜遅く家に帰っている。
 それができるなら、中学三年の東京への修学旅行は、ちょっと無理すれば、私たちと同じようにできるはずである。ところが、AR君の中三の修学旅行は福島で、宿泊なしだったという。これはどうしてなのだろうか。
 私たち4人の小中学校とAR君の小中学校の修学旅行の相違の原因は山間僻地=交通不便な地域を抱えているかどうかにあると考えたのだが、もう一つ経済的な原因もあったのではなかろうか。

 そんなことをいろいろと考えているうち、ふと思い出したのは『山びこ学校』の修学旅行の話だ。と言っても若い方にはわからないかもしれないので、次回はその説明から始め、原因を考えてみることにしよう。

(註)
1.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(4段落)参照
2.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」(2段落)参照
3.11年2月11日掲載・本稿第一部「☆暑く静かだった敗戦の日」(2段落)参照
4.16年10月24日掲載・本稿第八部「☆山菜『採り』・『盗り』」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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