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高度成長と山村の修学旅行




          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(14)

            ☆高度成長・車社会化と山村の修学旅行

 前回述べたような状況が大きく変わるのは1960年前後、高度経済成長の展開以降だった。都市の就業機会の拡大による次三男人口の流出、出稼ぎ・日雇い兼業の拡大、農畜産物需要の拡大、戦後民主化の延長としての農山村振興政策の展開、社会資本の整備は山村にも影響を及ぼしはじめ、その成果としての畜産、果樹、高冷地野菜、菌茸栽培等の山村での導入・拡大は、かつてのような貧困からの脱却、新たな山村の発展を展望させた(註1)のである。『山びこ学校』の山元村(1957年上山市に合併)やAR君の住むT村(1954年の昭和の大合併で山形市に合併)でも同様だったと聞いている。
 そして1970年代には、道路交通網・通信網の整備と自動車社会の到来が農山村にも波及し、自家用の乗用車や軽トラックが普及し、かつてのような交通格差などの社会的格差を縮小させた(註1)。
 こうしたなかで自家用車で観光や海水浴などに行けるようになった。めったに乗れなかった列車やバスにも乗れるようになった。山形盆地の子どもたちも海などは珍しくなくなり、かつてのような井の中の蛙から脱却した。山村もその恩恵を受けた。
 しかし、その恩恵をもっとも受けたのは大人であり、農山村の子どもたちの主要な移動手段は相変わらず徒歩だった。車は大人の農林作業や兼業先への通勤のための手段だったからである。
 以前よりもバスが通るようになったとはいえそれは主要道路でしかなく、本数も少ない。しかもそのうち自家用車が増えたからと本数は減らされ、廃線にすらなる。
 もちろん自転車がある。かつてと違って安く買えるようになった。実際に平地の農村の子どもたちはヘルメットをかぶってそれで通学したり、遠くに遊びに行ったりすることもできた。しかし山村となるとそうは行かなかった。未舗装のきつい坂道がたくさんあり、国道、県道は自動車の能力に合わせて整備しているために自転車にとって傾斜はきわめてきつい。
 当然そうなると子どもたちの見る範囲、遊ぶ範囲は徒歩圏内、車社会以前と同じことになる。

 ちょっと山形盆地から話がずれるが、これまで何度か登場してもらった岩手県北上山地中央部の山村・葛巻町出身のNK君に彼の小中時代・1980年代前半のころの話を聞いてみた。ご両親の幼い時代までは徒歩で学校に通っており、かなりの時間がかかったと思うのだが、車社会に生まれたNK君たちは何で通ったかと。そしたら、バス路線がないのでみんな歩いて通ったという。小学校までは約1時間(近道=車の通れない道を通ると45分、たまにカモシカに遭遇するオプション付き)、中学校まで2時間半、親の時代と同じように歩いて通った。なお、中学に入ったとき自転車通学にチャレンジしてみた。1時間で着いた。しかし、二つの峠道を越えるのがきわめて大変(私も車で通ったことがあるが、車に乗っててもわかるほどの大変な急坂の峠道だった)、とくにライトを点ければならない夕方は発電機の重さが疲れを増長させた、「『けたぐり式オープンカー』(註2)愛用の先生(=私のこと)ならこのペダルの重さはご存知かと思いますが」と彼は笑うのだが、結局3日間で自転車通学はやめたという。
 これが山村だった。自転車すらなかなか使えなかった。
 子どもたちだけで遠くに出歩くなどはできず、親の都合のいいときに車で町に買い物や親戚の家に連れて行ってもらったり、観光にでかけたりする程度だった。もちろん、それでも昔の子どもから見れば歩かずに遠くまで行けるようになった、その点で車社会の恩恵を受けているといえるが。

 しかし、車社会化と一億総「中流」化は、修学旅行の姿を大きく変えた。それは山村・農村・都市を問わなかった。
 貸し切りバスが学校まで迎えに来て目的地まで直接、あるいは国鉄や私鉄の駅まで連れて行ってくれるようになったのである。
 それでより遠隔地への修学旅行が可能となった。好奇心の旺盛な子どもたち、いつも地域のなかに閉じ込められている子どもたちにとってこれは喜ばしいことだった。
 同時に、私たちのころのようにぞろぞろリュックを背負って歩かなくともよくなった。バスが運んでくれるし、荷物を預かってくれるからだ。
 白いズックを履いて、リュックを背負って、行列をして歩くあの子どもたちの姿、見なくなってからもう半世紀にもなる。年をとったせいだろう、あの姿がなつかしく思い出される。

 さて、話をまた山形に戻そう。前に述べたように山形県は庄内、最上、村山、置賜の四地域に区分されているが、県の東北部に位置する最上地方は豪雪と常習冷害地帯として有名であり、さらに林野の多さもその特徴としていた。その最上地方の話である。
 前節まで何度も登場してもらったAR君、彼は山形市内にある私たちの母校の高校の教員を長く勤めたのだが、こんな話をしてくれた。
 「1988(昭63)年に入学した女子生徒4~5人が話をしていた。私も彼女たちの中に入っておしゃべりを聞き始めた。彼女たちの話はちょうど小中学校の修学旅行の話になっていた。
 ある子が、最上地方の山間部の中学校出身の生徒に聞いた。
 『修学旅行はどこへ行ったの』
 その子の答え、
 『山形市』
 それを聞いてみんなびっくりした。
 『山形のどこへ行ったの』
 『県庁とか霞城公園とか文翔館など……』
 山形市やその周辺出身の生徒にとっては山形市に修学旅行に来ることなど考えられないのである。地元の神様はありがたくないのと同じなのだろう。道案内の目印になっても見学するに値するとは日常考えたこともないのである。それほど毎日目にしている場所であることか。まさに意表を突かれたと言ってよいと思う。
 生育歴、生活環境、学習環境などによって知識や理解度、価値観が違うことをまざまざと見たと思った。いいとか悪いとか、軽く見下げるとかバカにするとかそういうことではない。ヘエーと思いつつも『山形に修学旅行!』という現実をむしろ感動をもって認識した、とでも言うべきだろうか」

 教え子たちの話に対するこのAR君の論評、もっともだと思うところが多いのだが、それはさておくとしよう、私がわからなかったのはこの最上の子の山形修学旅行が小学校のときなのか、中学校のときなのかということだった。小学校ならわかるが、あの時代に中学のときバスで片道2時間くらいの山形が目的地ということはないだろうと思ったからである。そこでAR君に確かめてみたら、どっちだったかはっきり記憶していないと言う。
 そこで、やはり高校の同級で前にも登場してもらったIZ君に電話で聞いてみた。彼は山形市生まれだが最上地方の小学校の教員を長く勤め、今も最上に住んでいるからである。
 電話してみたら手術で入院して退院したばかりとのこと、お互い年をとったものと愚痴り合ってから、そのころの最上地方の修学旅行の行き先について聞いてみた。そしたら、80年代には小学六年が一泊二日の仙台・松島、中学三年が二泊三日の東京・日光だった、もっと古い時代なら小学校で山形というのもわかるが、当時はもうそんな時代ではなかったはずだという。
 といっても、AR君の話も事実である。
 そこで二人の結論は、かなり山間部の小学校で山形市が目的地というところがあったかもしれないということになった。そういえば、70年代に最上の山深い地域の小学校の教員をしていた私の弟からそこの修学旅行は山形だと聞いたことがあった(註3)。
 それでもそれは例外的、当時の山村は山形の都市部や平地農村と同じような修学旅行ができるようになってきていたのである。AR君もその結論に異論はなかった。

 こうした変化は、さきほど述べた岩手の山村・葛巻でも同じだった。
 前出のNK君によると、1983年の小六の修学旅行は一泊二日で行き先は仙台市(デパートと動物園)と松島、宿泊は塩釜の旅館だったはず、往路は盛岡までバス、盛岡から仙台が前年開業して一年も経っていない東北新幹線、車窓に映る景色の流れが早すぎてまるで作り物(ジオラマ)のように見えた、帰りはバスで東北高速道を帰ったとのこと、まさに最新の交通手段を利用した旅行だった。
 86年の中三の修学旅行は二泊三日で東京と日光、宿泊は東京と鬼怒川温泉、葛巻―盛岡間がバス、盛岡―大宮間が新幹線、大宮―都内―日光がバスだった、東京では後楽園遊園地、東京タワー、神宮球場でプロ野球観戦、上野動物園、日光東照宮だったという。
 このことは、岩手の山村も平地の農村や都市部の修学旅行と変わりがなくなってきた、かつてのような地域格差はなくなってきたということを示すものであろう。

 前節で述べた旧山元村や旧T村の小学校の修学旅行はどう変わったのか、これはわからない。きっと同じような変化をしたであろう。
 いい世の中になったもんだ、とも思えるのだが、実はその変化の過程の裏でさらなる地域格差が深く静かに進行しつつあった。

(註)
1.そのころの状況については本稿の下記掲載記事を参照されたい。
  11年6月3日掲載・本稿第二部「☆三種の神器、格差の縮小、中流意識」(1、2段落)
2.『けたぐり式オープンカー』=自転車の私の愛用については下記の本稿掲載記事を見ていたたぎたい。
  12年5月25日掲載・本稿第四部「☆自家用車不可欠の時代へ」(1段落)参照
3.この地域のことについては本稿の下記掲載記事を参照していただきたいが、残念ながら修学旅行のことを弟に確かめるわけにはいかない、若くして死んでしまったからである。
  11年6月27日掲載・本稿第二部「☆過疎化の相対的な未進展」(1、2段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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