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近年の山びこ学校と旧T村、修学旅行



          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(15)(16)

             ☆近年の山びこ学校と旧T村

 高度経済成長とともに本格化した農林産物輸入、石油依存社会への転換は山村の就業機会を縮小させ、その労働力を都市に急激に流出させた。
 こうした状況から脱却すべく山村の人たちはさまざま努力した。
 しかし、農林業で、それを基軸にした産業でその生活を維持することはきわめて難しかった。それで、これまでも繰り返し本稿の各所で述べてきたように、若者は都市に流出し、過疎化が進んだ。当然子どもはいなくなり、学校がなくなる。山々は荒れ、農地は荒れたことを論じることはできても、修学旅行を論じることはできなくなってきた。

 山元村(現・上山市)も同様だった。
 農林業の衰退は避けることができず、兼業によって補おうにも地元での就業機会は少なく、就業機会の比較的多い山形市中心部まで通おうとしても山間に散在する集落から国道までのアクセスが悪く、冬期間の除雪も大変である等々インフラも未整備であることから難しい。そんなことから若者の地域外流出が進んで高齢世帯が多くなり、子どもの数は激減するに至ったのである。
 そして09年、山元中学校=山びこ学校はとうとう閉校となった。
 過疎化によるこの閉校を山びこ学校の卒業生はどう受け止めたのだろうか。かつて卒業生代表で答辞を読んだ佐藤藤三郎さん、どんな感慨をもったのだろうか。しかし聞くに聞けなくなっている。80年代にいろいろお付き合いいただいたのだが、私が網走に勤めた頃から、どちらからともなく音信不通となってしまったからである。
 ついでに、山元小学校六年の時の修学旅行先がどこだったのか、もしかするとAR君のT村小と同じ白岩発電所ではなかったか、これも藤三郎さんに聞きたいのだが。

 それでは、AR君のT村、とくにその山間部はその後どうなったか。
 あの白岩旅行から数年後、昭和の大合併でAR君の小学校管内は山形市となった。と言っても、その農山村の姿はこれまでとまったく変わらなかった。
 それが大きく変わるのは68年、旧T村の山麓を通る山形バイパスが完成し、やがてそれが国道一三号線となってからだった。平坦部の田畑のほとんどは市街地化し、山の麓には大学の校舎までできるに至ったのである。もうかつての田園地帯の雰囲気はまったくなくなってしまった。
 一方山間部は、道路も徐々に整備されてバスも通るようになり、車で市内に通勤することも可能になった。また、71年には乳牛育成のための市営放牧場がつくられて観光にも活用されるようになり、夏には市街地から眺められる花火大会が開催されるなど、かつての寒村の面影が薄れてきた。さらに86年には山形市営の有料道路西蔵王高原ライン(註2)が集落の真ん中を通り、90年代には市営野草園や西蔵王公園が開設される等、観光地として知られるようになっている。
 しかし、それは聞いた話だけである。私は西蔵王高原ラインができたばかりのころ、だからもう30丸年も前ということになるが、その道路を通ってみたことがあるだけ、その後どのようにここの地域が変わったのか見てはいない。
 いずれにせよ農林業は衰退、しかし山形市近郊であり、各種観光施設もあるために過疎化がそれほど進展していないのではなかろうか。でも少子化は進み、この地域から通う子どもたちも少なくなっているのではなかろうか。彼らが通う小学校はかつてのT村小学校ではなくて山形市立となり、また中学は旧市内の小学校といっしょになるなど、まさに町の小中学校となってしまったのだが、今はどうやって通っているのだろうか。その辺のことを今度AR君と会った時に聞こうかと思っている。

 山元村とT村、山形市に近いかどうかでこれだけ大きく違うのであるが、私たちの修学旅行の時からすでに70年、変わるのは当たり前、それにしても大きく変わったものだ。

            ☆私の知るその後の修学旅行

 私の小中時代以降、世の中の変化に応じて子どもたちの修学旅行がどう変わったかについてはこれまでとくに関心を持たないできた。私の勤める大学に修学旅行などない(註3)し、自分の子どもや孫の修学旅行のとき以外話題にもならなかったからである。それでも、調査や会議等で各地を回っているときに修学旅行の子どもたちに出会うことがあり、そのときにどこからどういう乗り物で来たのだろうかなどを考えながらなつかしく見たものだった。
 そのなかで印象に残ったのは、中学校の生徒がグループに分かれて自主的に行きたいところに行くという修学旅行のスタイルを京都で見たときだった。先生に付き添われてぞろぞろ行列して歩く時代ではなくなったのである。
 それから長崎の平和公園で会った修学旅行生たちが、きっと事前学習をしてきたのだろう、真剣に学ぼうとしていたことだ。単なる物見遊山ではないこういう修学旅行があっていい、こうした機会を増やしてもらいたいものである。
 那覇空港に行くと修学旅行生で空港がごった返しているのをよく見かけた(註4)が、もう飛行機で修学旅行をする時代になったのかと何か感無量だった。きっと沖縄戦や米軍基地の話などを聞いたと思うのだが、ぜひとも平和学習の一環として沖縄への修学旅行をやってもらいたいものだ。
 また、農山村に泊まり込んで体験学習をする修学旅行をしている都市の学校があることを新聞記事で見たことがあったが、これも推奨したい。
 90年代半ばころではなかろうか、空港の国際線乗り場で修学旅行の生徒たちを見かけた。私学の生徒だったが、飛行機で海外に修学旅行、まさに隔世の感、というより違和感を持ったものだった(私も時代遅れの人間になったのかもしれない)。

 先日山形の生家に行ったとき、末弟に最近の小学校の修学旅行について聞いたら、新幹線で東京・日光が多いという。かつての中三の東京行きが小六になったのである。高速交通時代になったのだからこれもありだろう。なお、子どもたちにfは新幹線が人気なのだそうである。どこかに出かけるときはみんな車で、新幹線に乗る機会があまりないからなのだそうだ。いやはや世の中変わったものである。
 列車が、鉄道がまた子どもたちのあこがれの的になる、私には非常にうれしい。できれば廃線寸前の鉄道めぐりの修学旅行なども企画し、過疎地帯の勉強などもしてもらいたいのだが。また、いわゆる観光地巡りばかりでなく農山村や震災の被害地での体験学習旅行なども考えてもらいたいものだ。

 それにしても修学旅行も変わったものだ。
 変わったといえば、近年の格差社会の進展、新たな貧困の生成、自己責任論の喧伝のなかでまたもや修学旅行に行けない子どもたちが増えているということだ。これまでそんなことのない社会にしようとみんな努力してきたはずなのだが、悲しい世の中になってきたものだ。何とかして欲しいのだが、これからどうなることやら。

 ついでに言わせてもらえば、遠足も変わったものだ。
 前にも述べたが、私たちにとって遠足とは歩いて目的地に行くもの、泊まらないでその日のうちに帰ってくるものだった。そして遠足の目的には足を鍛えるなど鍛錬にもあった(戦中だからということもあったかもしれないが)。それが車社会になってから移動手段は足ではなく貸し切りバスになってしまった。ほとんど歩かなくなったのである。そのかわりに前より遠くまで行けるようになったが。このように遠足は日帰りで遠くに行ってくることだけになってしまった。これで「遠『足』」というのだろうか。交通事故等を考えれば道路をぞろぞろ並んで歩くのは心配だし、できるだけ遠くのものを見せたいという気持ちもわかるのだが、何かさびしい。
 小さな背中にリュックを背負い、水筒を肩に斜めにかけ、運動帽をかぶり、ちょっとだけよそ行きの服装をさせてもらって白いズックをはき、行列をつくって楽しそうに歩いている子どもたちの姿、自分の遠足のころを思い出して懐かしく見ていたものだったが、見なくなってからもう何年になるだろうか。

(註)
1.このことについては下記の本稿掲載記事で詳しく述べている。
  11年7月1・4・11・13・15・18・20・22・25・27日掲載:
  本稿第二部『山間畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き』(1)~(10)
2.現在は無料となり、山形自動車道山形蔵王インターチェンジから蔵王温泉方面へ向かう道路として利用されている。
3.後に勤めた農大には教員の同行するゼミ学生の研修旅行があり、それが修学旅行といえるかもしれないが、質が違うことはいうまでもない。ただ団体旅行、師弟の旅行であることは同じ、それでそのころは旅先などで修学旅行の子どもたちを見るとついつい関心をもって見たものだった。なお、私たちの研修旅行がどのようなものかについては下記の本稿掲載記事を見ていただければおわかりいただけると思う。
  12年12月10日掲載・本稿第五部「☆日本の風土と風力、水力」(3段落)
  13年1月10日掲載・本稿第五部「☆植物工場と資源環境問題」(5段落)、
  13年7月2日掲載・本稿第六部「☆短期周遊型旅行、団体旅行」(6段落)
4.このとき修学旅行の付き添いの教師の変化、そのあり方についてしみじみ考えさせられたのだが、このことについては前記の(註3)であげた参照記事のなかの本稿第六部13年7月2日掲載記事に書いているので読んでいただきたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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