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多人数学級だった私たちの小学校

         

         私の体験した敗戦前後の小中学校教育(1)

 私の子どものころのことについては本稿の第一部、第六部をはじめ各所でいろいろな側面から書いてきたが、前章の修学旅行の話のような私の通った戦中・戦後の小中学校の話(註1)をもう少し補足的に書いてみたい。書き落としていることが、また後で思い出したことが多々あるからだ。
 ただしその部分だけをぽつりぽつり書いても全体像が浮かばない危険性がある。そして、前に書いたことと合わせて読んでもらうことが必要となる場合もある。だからといって、そのたびにまた前に戻って読んでいただくのも恐縮である。そこで、一部ではあるが重複して書かせていただいた。繰り返しになって申し訳ないが、ご了解いただきたい。
 なお、私の入学したころは小学校の名称が「尋常小学校」から「国民学校初等科」に変わったばかりであり、戦後になって「小学校」になるのだが、若い方々が国民学校を一々小学校に置き換えて読む手間を省くために、どうしても国民学校という名称を使わなければならないとき以外すべて「小学校」と呼ばせてもらうことにする。この点もご了解願いたい。

          ☆多人数学級だった私たちの小学校

 今もそうなのだろうが、私の小中学校時代も入学記念や卒業記念をはじめとするクラス全員の写真を写真屋さんに学校に来てもらって毎年一回撮ってもらったものだった。いつごろからそれが始まったのかわからないが、今のようにまた今のようなカメラのない時代、私のころは学校で撮る写真といえばこの集合写真しかなかった。戦中戦後の物資不足の時代などは、この学校の集合写真しか撮ってもらったことがないという子どももいたのではなかろうか。
 学校の正面玄関で、講堂の式壇をバックにして、教室の黒板を背にして、フラッシュを浴びながら大騒ぎしながら写真屋さんに撮ってもらったものだった(註2)。
 ところが、私の小学校時代のクラスの集合写真は小学二年のときのものしか手元に残っていない。中学以降のものは残っているのにである。なぜなのだろうか。
 そこで考えてみた、まず、本当に毎年撮ったのだろうかと。
 よくよく考えてみれば小学四年と五年は撮った記憶がない。四年は敗戦の年、疎開騒ぎ、アメリカ占領軍の校舎接収、二部授業等々の混乱で撮るゆとりなどなかったのではなかろうか。五年のときは借家住まいの校舎での授業、教科書もないような戦後の混乱と物資不足、インフレ等々で写真屋さんを呼んで写真を撮るなど考えもできなかったのではなかろうか。
 いや、もしかすると私が忘れているだけ、もしかしたら撮ったのかもしれないが、わからない。ともかく残っていない。
 でも、一、二、三、六年のとき集合写真を撮ったことは覚えている。とすれば、それが残っていていいはずである。ところが、二年のしかない。
 一、三年の紛失は、空襲による焼却を避けるために家具一切を防空壕の中に入れ、あるいは母の実家の小屋に牛車で運び、さらには捨てる等々の整理をする(註3)さいに行方不明になったということではないだろうか。六年の紛失は理由がわからない。個人のアルバムなど持てない頃、机の中にでも入れておくしかなく、私の整理が悪くてどこかにまぎれこみ、なくなってしまったのだろう。
 それではなぜ二年のが残っていたのか。これはよくわからない。私の中学のとき、押し入れの中から私の幼いころの写真をいくつか発見したのだが、偶然そのなかにあったのである(註4)。
 1943(昭22)年、今から70年以上も前に撮ったのだからもうセピア色になっているが、画像は鮮明だ。
 この写真を見てまず感じるのは、みんな背丈が小さいことだ。今の幼稚園の年長さんくらいではなかろうか。
 男は全員クリクリの丸坊主、五つボタンの制服、女は全員おかっぱ頭、セーラー服である。でも、その服はお下がりが多いからだろう、みんなよれよれ、バラバラ、春に撮ったはずなのに冬の黒い制服もあれば夏の白いあるいは国防色の制服もある。
 顔はほとんど全員覚えている、しかし名前はなかなか思い出せない。四年間もいっしょのクラスだったのにである。いつだったろうか、私がまだ現役のころ、試しに名前を言ってみたときはほとんどの名前を言えたのにかかわらずである。あのとき、きちんとメモしておけばよかったのにと後悔している。それでも何人覚えているだろうと数え始めたときふと感じた、こんなに人数が多かったっけかと。
 何と男子が31名、女子29名、合計60人も同じクラスにいたのである。

 グランドに集合するとき、あるいは行進をするとき、級長をさせられていた私が整列をさせて番号点呼の号令をかけ、人数を確認する(註5)。そして「二年二組、男子総員△△名、異常なし」と受け持ちの先生のところに走って行って報告する(欠席者がいると「異常なし」の代わりに「何名欠席」といったはずである、なお女子については副級長=女子が確認していた)のだが、そのときの男子総員が31名だったのだ。当時はそんなものだと思ってとくに何も考えず、やがて忘れてしまっていたのだが、改めて驚いた、こんなに人数がいたんだっけかと。
 一学年四クラスあったのだが、他のクラスもほぼ同じ人数のはずである、私のクラスだけ多くするわけはないのだから。
 こんなに多くて教室を狭く感じなかったろうか。でもそんなことを感じたことがない。そういえば教室の最後尾の席と壁との隙間が狭くて歩くのが大変だったような気がするが、そんなものだと思っていたのでとくに何も感じなかったのかもしけない。
 みんなみんな小さくて貧弱な体格、机やいすも小さくて済む、それで教室が狭いなどと感じなかったのかもしれない。

 それにしても何でこんなに人数が多かったのだろうか。
 疎開学童を迎え入れたからだろうか。しかし、当時はまだ疎開は始まっていなかったはずである。実際に写真のなかには東京などから疎開してきた児童はいない。だから疎開のせいではない。
 前に述べたような学区内での宅地化の進展、人口増加等で当初予定したよりも生徒数が多くなり、教室数が足りなくなったという特殊事情からなのだろうか。
 しかしそれは解決できる。理科室とか音楽室、作法室とかの特別室が普通の学校より充実していてゆとりがあり、それを教室に変えれば各学年一クラスずつ増やせ、50人学級にはできたはずである。だから教室数の不足という物理的な理由からではない。

 男の先生が召集されていなくなったこと、つまり教員不足が原因なのだろうか。
 全校生徒がグランドに整列し、校長が出征する先生の紹介と激励の挨拶、応召する先生が国防色(カーキ色)の国民服を着て答礼の挨拶をするという壮行式が何度か開かれ、若い男の先生がいなくなっていた。こんな状況のもとでクラスの数を増やして(つまり先生の数を増やして)生徒の人数を減らすなどできるわけはない。
 しかも そうした事情は私の小学校だけではない、他の小学校だって同じはずだ。
 そうなると、他の小学校でも一クラスの人数は今と違ってかなり多かったのではなかろうか(もちろん、町村によって子どもの数が少ないところもあるので一クラスの人数が少ない学校もあったのだが、このことについては後に述べる)。

 そこで、前章の修学旅行の話のところで取り上げた隣村で農山村のT村小学校(註6)の場合をその卒業生で私と高校同期のAR君に聞いてみると、同じく小学二年の記念写真を見て数えてみたら紅組・白組の二クラスで 一クラス60名だったという。
 他県の話になるが、私の家内の卒業した宮城県南の小さな町の小学校の同じ年の記念写真を見てみると、一クラス60名前後(註7)だった。ただし、敗戦の翌年には68名に増えている。これは疎開者や引揚者の子どもの受け入れという異常事態によるものだったろうが。
 このように戦中戦後の特殊事情もないわけではないが、いずれにしても多かった。しかもそれは地域の特殊事情からではなさそうだ。都市部、小さな町、農山村にかかわらず多いのである。以前からそうだったのだろうか。
 そこで調べてみた。そしたら何と、私たちの年代の場合、国民学校令(勅令)施行令で「一学級ノ児童数ハ六十人以下」とされているので、私たちのクラスの60人前後は当たり前、決して特別多いわけではなかったのである。

 なお、それ以前、1890(明23)年から1940(昭15)年は小学一年から四年までは70人程度を標準としながら最高で100人程度まで、小学五年以上は60人程度を標準としながら最高80人までとなっていたので、私たち国民学校入学者はそれ以前の子どもたちより恵まれていたといえよう。
 さらにこの基準は戦後の47(昭22)年から実施された学制改革にともない変更され、 小・中学校では50人以下とされた。しかし、私の場合その恩恵を受けることはなかった。46、47年つまり私の小学五、六年のときの人数は写真がないので確かめることはできないが、クラスの数は以前と同じ四つだったし、生徒の数がその間大きく減少する事情もとくになかったので、クラスの人数は以前とほぼ同じだったと考えられるからである。
 でも48年、中学一年のときには一クラス45人となり、ようやく学制改革の恩恵を受けることになる。といっても、本当にその恩恵のためなのか、たまたま生徒総数とクラス数の割り算の結果そうなっただけなのか、わからない。全国的に言うと50人以上学級がかなり多かったようであり、50年代には「すし詰め学級」や二部授業(註8)が社会的に大きな問題となっているからである。

 そうなのである、私たちはまさに「すし詰め学級」で教育を受けたのだった(私たち以前はもっとすごかったのだが)。それでも私たちはそんなものだ、これが当たり前のことなのだと思って小学校6年間を過ごした。

(付記)義務教育の変化
 これまで小学校とか国民学校、中学校とかいろいろ書いてきたが、時代によってその名称や内実がいろいろ変わってきたので、参考までに義務教育制度が明治以降これまでいかに変化してきたのかをここで簡単に紹介しておく。
 明治の初めは小学一年から四年までが義務教育であり、それを受ける学校を「尋常小学校」、その後4年間(小学五年から今の中学二年まで)学ぶ学校を「高等小学校」と呼んでいた。
 1907(明40)年に尋常小学校は一年から六年まで義務教育を受けるところ、高等小学校はそれを卒業した者が二年間学ぶところとした。
 1940(昭15)年から施行された国民学校令で小学校は国民学校と名前を変え、小学一年から六年までを国民学校初等科、その上の二年を国民学校高等科と呼ばせるようになった。
 なお、当時(旧制)の中学校・女学校は小学校六年を卒業して(初等教育を受けて)入学試験に合格したものが5年間中等教育を受ける学校だった。
 この仕組みは 1946(昭21)年の学制改革で「六・三・三・四制」の学校体系に変更され、義務教育は9年間(小学校六年・中学校三年)に延長されることになり、現在に至っている(註9)。
 私や家内たちは、ちょうどこうした学制の変化期に国民学校初等科に入学し、さらに新制中学・新制高校入学を体験した。まさに激動の時期に学んだということができよう。

(註)
1.私の小中学校生活については本稿の下記掲載記事に簡単にまとめて書いているが、その補足ということでこれから書いていくので、参照していただければ幸いである。
  11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」、
  11年2月11日掲載・本稿第一部「☆暑く静かだった敗戦の日」
2.14年1月6日掲載・本稿第六部「☆戦前から戦後の写真事情」(4段落)参照
3.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」参照
4.私の赤ん坊のころの写真や敗戦一年前にK叔父と撮った写真などが残っているが、これは戦死してしまったK叔父(私を本当にかわいがってくれた)のアルバムに貼ってあったものだった。私の中学のときにそのアルバムが押し入れに残っていたのを発見し、そこから剥がして私のアルバム(母方のH叔父から買ってもらったものだが生まれて初めての自分のアルバムだった)に移したものである。なお、K叔父、H叔父のことについては、本稿の下記掲載記事をはじめ何度も触れている。
  10年12月26日掲載・本稿第一部「☆北海道へ、満州へ」(2、3段落)、
  11年2月14日掲載・本稿第一部「☆『里の秋』」、
  14年1月6日掲載・本稿第六部「☆戦前から戦後の写真事情」(4段落)
5.12年8月27日掲載・本稿第四部「☆整列、行進、神社参拝」(1段落)参照
6.17年7月24日掲載・本稿第九部「☆隣りのT村の近距離『修学旅行』」(1段落)、
  17.年7月31日掲載・本稿第九部「☆交通僻地の山村と修学旅行」(1段落)参照

7.写真の右上角が破れていてその部分の人数がわからない。正確に数えられるのは55人だが、後4~5人はいたのではないかと思われる。
8.私たちの二部授業は占領軍の校舎接収という特殊事情からだったが、1950年代は児童数の増加+教師・教室不足からくる学級当たり生徒数の多さのため、生徒が教室に入りきらず午前と午後に分けて授業するというものだった。
9.この付記を書く際には、正確さを期すためにYahoo!で検索した下記の論文をはじめさまざまな論考を参照させていただいた。
  植竹丘『義務教育標準法の成立と地方への影響』 (「日本教育行政学会年報」No.33、2007年)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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