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戦前・戦中の先生と生徒の関係



       私の体験した敗戦前後の小中学校教育(2)

        ☆戦前・戦中の先生と生徒の関係

 学校に入るのがうれしかった、楽しみだった。新しい友達ができる、新しいことを知ることができる、まさに未知の世界、わくわくしたものだった。前にも述べたが国民学校一年生の音楽の教科書『ウタノホン』の最初に「ガクカウ」という歌が載っていたが、それは私たちに楽しい学校生活を予測させるものだった。
  「ミンナデ ベンキャウ ウレシイナ
   コクミン ガクカウ イチネンセイ
   ゲンキデ タイサウ イチ、ニッ、サン、
   コクミン ガクカウ イチネンセイ」(註1)
  しかし実際に入ってみるとそんな甘いものではなかった。楽しいことばかりではなかった。「ベンキャウ」や「タイサウ」もそんなに「ウレシイ」ものではなかった。幼年時代にあった自由は厳しく制限され、いじめっ子などいやな友だちもいた。

 もちろん幼いころも完全に自由ではない。大人による厳しいしつけがあった。でも、自由に近くの子どもたちとあるいは兄弟であるいは一人で遊びまわり、動きまわり、しゃべりたいときにしゃべりあっていた。それが学校では一定時間抑制されるのである。
 近所にもいじめっ子はいたし、喧嘩もした。しかしそれは年長者が、あるいは近所の大人が注意してくれ、またすぐ仲良くなった。ところが教室のなかはすべて同じ年代、大人は先生一人、しかも先生は授業の間しかいないので、簡単には解決されない。
 その上、学校に行くそもそもの目的である読み・書き・そろばんを覚えるのも楽ではない。個々人の能力や性格に応じた教育ではなく、集団教育だからなおのことだ。ましてや多人数教育では、先生がきめ細かく子どもの個性を生かしながらその能力を伸ばしていくなどということはなされず、ついていけない子どもはおいていかれてしまう。こうしたなかで学校に行くのは、勉強するのは、楽しみではなく苦痛になってくる。
 しかもあのころの勉強は大変だった。国語を例に取れば今の漢字の「学校」は「學校」、ふりがなは「ガッコウ」ではなくて「ガクカウ」、「体操」は「軆操」で、「タイサウ」と仮名を打たなければならず、こうした旧漢字を読み、書き、覚えなければならないのだ。
 だからといって、わからないことがあってもわかるまで聞いたりすることもできない。先生と気軽に話をし、相談をしたりすることなどできない。何しろ60分の1、みんなが「その他大勢」なのだ。おいてけぼりにされる危険性は多々ある。そうなれば授業はおもしろくなくなる。退屈して騒ぎたくもなる。すると怒られる、罰を与えられる。
 そして学校はあまり行きたくないところになる。

 子どもも大変だったが、先生も大変だったろう。
 知力・体力も未発達で、人生体験も社会経験も少なく、しかも生まれ育ちも、持って生まれた能力も違う幼い子どもたちを60人もいっしょに教え、社会生活を営む上で最低限必要な基礎的な知識、能力を全員に持たせるなどきわめて難しいことはいうまでもない。
 よくもまああのころの先生方、これだけの生徒を掌握し、教えたものだと感心する。まず60人もの生徒の名前を覚えるのが大変だ。私のように名前を覚えるのが下手な人間ならなおのこと、とてもでないが私には絶対に勤まらない。
 しかもまだ聞き分けのない子ども全員をまとめて静かに自分の話を聞かせる、あることに集中させて一斉に行動させるのも大変だ。今のように就学以前に幼稚園に通うなどできなかった時代(都市部の金持ちしかできなかった)、同年代の子どもによる集団活動を覚える機会のない時代だったからなおのことである。先生の言うことをきかない子、きまりを守らない子、集中しない子、悪さをする奴も当然出てくる。
 さらに当時は自分の名前をカタカナで何とか書けるようになって学校に行くのが精いっぱいの時代、まったく何もわからない子どもたちに字の読み方・書き方、加減乗除から図工・体育や集団行動のしかた(軍隊式だから厳しかった)まで教えるというのも大変だ。
 それに加えてさきほど述べたように教える内容が大変だ。後でも述べるが、東京からの遠隔地とくに農山村では日常使わない「標準語」なるもので教育し、覚えさせなければならないことも容易ではない。
 こんな状況のなかで、子ども一人一人の個性を生かし、伸ばせるような教育など非常に難しい。子どもがみんな本当に理解したかどうかなど考えながら教えるなどということもなかなかできない。年間予定されている教科内容を終わらせることすら大変なのだ。
 当然先生はいらいらするし、怒りたくもなったろうと思う。そして懲罰等による強制で言うことを聞かせたくもなったろう。
 その気持ちはよくわかる。私も先生が怒りたくなるようなことを何度もしたからだ。
 私の場合はとくに忘れ物だ。前にも書いたが宿題は忘れる、明日持って来いと言われた物差しや習字の道具等を忘れる(註2)。これは先生も困る。授業がうまく進められないからだ。
 授業中のおしゃべりやいたずらがある。私の場合は休み時間中のおしゃべりを先生が来てもついつい続けてしまうことが多々あった。
 ぼんやり別のことを考えて先生の言うことを聞いていない、集中していないなどはしょっちゅうだった(でも居眠りだけはなぜかしたことがない、友だちで居眠りをしたという話も聞いたことがない)。
 講堂で直立不動で勅語奉読を聞かなければならないときに動いたり、わき見をしたり、整列・行進(当時は軍隊式だから厳しかった)のときに列を乱したり、しゃべったりする。
 休み時間や放課後にけんかをする、弱いものいじめをする、危ない遊びをする、教室や机を汚す、窓ガラスを割る、掃除当番をさぼる、何日までに持ってくるようにと言われた保護者会費を三日も四日も忘れる(私などはその常習犯だった)等々、数えればきりがない。
 当然注意はする、説得もする。しかしなかなか言うことをきかない。いらいらしてしまう。怒りたくもなる。怒らないわけにいかないこともある。放置しておいたら授業が成り立たなくなったり、子どもたちが危険にさらされたりする場合すらあるからだ。
 それで罰を与えてわからせようとすることになる。体罰もあった。「もあった」というよりそれは普通だった。そしてそれは敗戦前(私の小学四年まで)とくにひどかった。しかもそれは黙認された。それどころか当然視された。私たち子どもも先生とはそもそも叱ったり、罰したりする人なのだと何の疑問も持たなかった(註3)。

 先生は偉かった。子どもにとって先生は大人であるばかりでなく、農山村などではめったに見られない背広や詰襟を着て東京の言葉でいろいろ教えてくれる特別な存在だった。親にとって先生は、子どもに教えてくれる上にお上から高給をもらうお役人=支配層の一員でもあり、こうした偉い先生の言うことをきちんと聞けと子どもは親から言い聞かされていた。さらに学校でも、教室では授業の前と終わりに「起立」、「礼」の号令のもとに直立不動で先生に頭を下げ、校外で先生に会ったら立ち止まってきちんと頭を下げるように、先生の言うことにはすべてしたがうようにと一年に入ったらすぐに教えられ、やがて「長幼の序」とか「三歩下がって師の影を踏まず」などの封建制の規範となった儒教思想を修身の授業で教えられる等、先生は特別な存在であり、だから先生の命令には従わなければならないものであり、従わないものは厳しく叱責され、罰せられて当然と思わされてきた。子どもにとって先生は偉いもの、近づきがたいもの、怖いものだったのである。
 60人などという多人数教育でも教師が何とかやれたのは、こうしたことが背景にあったのではなかろうか。

 誰かがいたずらなど何か悪いことをする。するとみんなで歌ってはやしたてたものだった。
   「わーるいな わーるいな
   〇〇ちゃんが △△した
   しぇんしぇいさ(先生に) おしぇでける(教えてやる)」(註4)
 実際にそんなことをされたら大変、生徒にとって教師は怖い巡査と同じ「取り締まる」役目も持つ人なので、青くなる。もちろんみんなそんな告げ口はめったにしないし、冷やかすだけなのだが、ともかく先生は怖かった。
 その雰囲気は戦時体制に入る中でますます強まってきた。

 二年のときだったか、三年になったときだったか、用事があって職員室に入るとき、次のようにしなければならなくなった。
 職員室の入口の前で帽子を脱いでから扉をたたき、
 「何年何組 □□△△ 入ります」
 こう声をかけて戸を開ける。中に一歩入って戸を閉め、一礼する。そして直立不動の姿勢で改めて言う、
 「何年何組 □□△△ 〇〇先生に用事があってまいりました」。
 誰か近くの先生が「よーし」というと用事のある先生のところに行く。用件が終わるとまた入口の前で先生方の方を向き、一礼して
 「帰ります」
 と言って戸を開け、きちんと閉めて(後ろ向きなどで閉めたりしてはだめ)から立ち去る。
 これは軍隊で上官の部屋などに部下が出入りするときの決まりなのだそうで、こうした軍隊の生活様式が学校てもさまざま取り入れられるようになった。上官の命令一下部下が行動する軍隊のように生徒も先生の命令一下行動するように、軍隊に入ったらすぐに適応して戦えるように、軍隊形式を子どものころから慣れさせようということなのだろう。こうしたなかで『軍人勅諭』(註5)でいうところの「上官の命令は朕(=天皇陛下)の命令と心得よ」が小学校では「先生の命令は朕の命令と心得よ」というようになってくる。だから、もしも生徒が先生のいうことを聞かなければ軍隊のようにきびしく怒られ、罰を与えられる、反論はもちろん許されない。こうして生徒は先生の支配下におかれる存在となる。そして教師は生徒に対して絶対の存在として君臨するようになってくる。
 当然のことながら、子どもたちが気安く先生に言葉をかけたり、相談したりする雰囲気などまったくなくなってくる。多人数教育のなかではそもそもそうした状況にはなかったのだが。
 先生にはこれは楽だったのではなかろうか。説得してやらせるより命令で有無を言わせずやらせる、時間も手間もかからないからだ。しかし、何も考えさせずにやらされるたけ、それが子どもの成長にとって本当にいいことなのかどうかは問題があるが。
 戦中はそんな学校生活、先生と生徒の関係だった、と私は記憶している。

(註)
1.最初の二行については下記の本稿掲載記事で述べたところであるが、後に触れる仮名遣いの問題でもこの歌詞を使いたいので重複して述べたものである。
  11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(1段落)
2.14年6月23日掲載・本稿第六部「☆忘れ物、落し物、探し物の不安」(2段落)参照
3.そのことについては下記の本稿掲載記事でも簡単に触れている。
  11年2月3日掲載・本稿第一部「☆子どもの社会」(2段落)
4.この旋律を楽譜に起こしたいのだが、パソコンの不具合でできなくなっている。治り次第追記したいと思っている。
5.明治天皇の名前で政府が陸海軍人に下した訓示。このことについては本稿の下記掲載記事で述べている。
  14年9月1日掲載・本稿第七部「☆聞き書き・日本の軍隊」(2~4段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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