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国民学校時代の叱責と処罰




          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(3)

            ☆国民学校時代の叱責と処罰

 先生の言うこと・命令に従わない場合、戦中の国民学校の生徒たちはどんな叱り方をされ、どんな罰を与えられたのか、私が実際に体験したあるいは見聞きしたことを次に述べてみたい。

 まず、みんなの前で大きな声で叱られる。これはしょっちゅうだったが、たまに「職員室に来い」と言われて、職員室で改めて叱られ、説教される。これはみんないやがった。職員室まで行くために休憩・遊び時間が少なくなるし、職員室内で多くの先生にじろじろ見られ、名前まで知られてしまうからだ。
 それから、「立ってなさい」と命令され、「座ってよし」と言われるまで自分の机のわきで立たされる。これは何度か私も体験したが、もっといやなのは「前で立ってろ」と言われて前に出され、みんなの方を向いて黒板のわきに立たされることだ。みんなの注視の的になり、何とも恥ずかしい。
 さらにいやなのは「廊下に出て立ってろ」だ。友だちといっしょに立たされるならまだいいが、シンと静まり返った廊下に一人立たされているのは何とも寂しい。授業を受けさせられなくて勉強が遅れるのが残念だなどとは当時のことだから考えないのだが、退屈でしかたがなく、立ってるのも疲れる。こっそり座ったりなどして見つかったりすればさらに罰が厳しくなるので、そんなことをするわけにもいかない。早く部屋に戻りたい。ところが、たまに休み時間になっても立たされたままの場合もある。これはいやだった。みんなと遊べない上に、廊下を通るよそのクラスの生徒や上級生、下級生から立たされているのをじろじろ見られるからだ。これはものすごく恥ずかしい。しかも彼らから立たされていたことが親や近所の人に漏れて、家に帰って親から怒られ、近所の人から笑われるかもしれない、これがいやだった。
 なお、水を入れたバケツを持って廊下に立たせるという罰もあったという話を戦後かなり経ってから本や映画等で見聞きしたことがあるが、私にはこの記憶はなく、他の学年やクラスでなされていたという話を聞いた記憶もない。
 それから席替えの罰がある。この罰は、とくに休み時間が終わって先生が教室に来ても夢中でおしゃべりを続けていたり、起立礼が終わってもついついさっきの話の残りを隣りの席の子どもとやってしまったりするときに、よくやられた。隣り合う席にいるからおしゃべりを続けたのたろう、だから一時離してやるというわけである。そして、たとえば先生が目の前で見張ってやるということで一番前の空いている席に座らされる。あるいは女生徒の席の空いているところに座らせる(後で述べるが当時は男女の席は完全に半分に分けられていた)。これは男にとっては恥である。でも、いやだいやだといいながらもこれは半分うれしい。とくに好きな女の子のわきになど座らされるとわくわくする。でもそれがまたみんなの冷やかしの対象になり、やはり困るのだが。なお、この罰はだいたい一時間で終わり、次の時間になるともとに戻るのが許される。
 罰掃除、これはいやだった。そもそも私は掃除当番が嫌いだった。家での庭・土間の掃除、縁側の雑巾掛けは毎日の私の仕事、それをまた学校でやらされるのだから、しかも早く帰って遊びたいのに遅くなってしまうのだから、本当にいやだったのである。でも順番ならやむを得ない、ところがそこにまた罰で掃除当番が増えるのだからたまったものではなかった。だからといってサボればまた怒られて掃除が増えるだけ、ぶすぶす文句を言いながらやることになる。
 同じようにいやなのが、居残り勉強だ。ようやく勉強から解放されてほっとするときにまた残されて勉強させられる、遊ぶ時間は少なくなる、友だちと約束していた時間まで帰れない。みんな帰っていなくなってシンと静まりかえった学校からとぼとぼ帰るのは何ともさびしかった。
 罰宿題、宿題を忘れたときなどにさせられるが、これは居残りよりもよかった。早く帰ってみんなと遊べるからだ。でも夕方になるといつもより多くなった宿題を思い出し、いやな気持ちになる。
 それから校庭のグランドを走らされるという罰があった。やった悪いことの内容に応じて校庭一周とか三周とか走らされるのである。これもいやだが、もっともいやなのは雪の積もった校庭を裸足で走らされることだ。前に述べたように裸足で雪の中を走るのは罰としてだけでなく戦勝祈願の学校行事としてやらされており(註1)、これも辛かったが、やはり罰となるとなお辛かった。一度だけクラスの男子全員雪の中を一周走らされたことがあるのだが、誰かが悪いことをした(それが何だったか思い出せない)ときに全員の共同責任ということでだった。
 ところで、このグランド何周という罰は「体罰」なのだろうか。体操の授業でもやっていること、身体の訓練にもなるのだが。でも、子どもにとってはやはりいやなこと、罰として与えられるものだったし、体操の時間にやらされても疲れるのでいやなこと、しかもこれを時間外にやらされるものだからだ。でも体罰とは受け取らなかったと思う。痛みを伴わないからだ。もちろん、これがグランド5周とか10周になったら別だろうが。
 それから、当時普通だった丸坊主の頭を平手でピシャッと叩く、げんこつでコツンと軽く叩く、授業中にボーっとしてよそ見をしていたりすると先生がこっそり寄ってきてよくやられたものだが、それほど痛くないので、やられた方は首をすくめる程度、みんなはそれを見て大笑い、これも体罰などと深刻には考えなかった。
 なお、罰としてつねられたり、おでこを中指ではじかれたり、蹴とばされたり、投げ飛ばされたり、チョークや黒板拭きなどを投げつけられたりするのは私は経験したことがない。大きくなってからそうしたことをやられたことがあるとよその学校の卒業生から聞いたことがあるが。
 私たちにとって一番いやだったのはビンタ=ほっぺたの平手打ちだった。痛いのでみんないやがったが、当時ビンタは懲罰の一つとして当然視されていたので、私たちもそんなものだと思っていた。ただし理屈に合わないで怒られて叩かれたとき、これはみんなで憤慨した。でも抗議することなどできず、みんなで後で悪口を言う程度だった。
 拳固で殴打はやられたこと、見たことはないが、上級生が奉安殿の近くで立小便をしてやられたという話は聞いたことがある。勅語奉読とか奉安殿とか、皇室にかかわることで不敬と称されることをやった場合はとくに罰が厳しかった(註2)。

 女生徒も叩かれた。もちろん男よりは少ないが。
 家内も一度だけ叩かれたことがあるという。敗戦の年の夏、前に述べた勤労奉仕(註3)で開墾に行ったときのことである、開墾する場所が班ごとに指示されたので、家内の班の生徒たちは早速鍬をふるって土を起こし始めた。そこに担任ではない若い先生が来て、そこは場所が違うと怒りはじめ、間違ったのは班長の責任だと家内の頬を思いっきり平手で叩いたというのである。理由も聞かずに、しかも自分たちの指示が間違ったのに、親からも叩かれたことがないのに、なぜ殴られなければならないのか、痛いのも痛かったが、口惜しくてしかたがなかったと、今でも家内は私に口説く。よほど頭に来たようである。

 男の先生はもちろんのこと女の先生も叩いた。もちろん男の先生から叩かれた話の方が多かったが。
 私たちのクラスは四年まで女の先生が担任だったせいかあまりやられたことはない。それでもすごく悪いことをするとやはり叩かれた。
 このことで思い出すことがある。

 三年のときのことである、休憩時間になり、教室を出て廊下を歩いていたとき、私たちのかなり前の方を担任のSA先生(教員なりたての若い女性)が歩いていた。そのすぐ後ろを数人の上級生がぞろぞろ歩いていた。そのなかの一人(かなりのワルで知られていた)が先生の真後ろに行き、先生のお尻に手で触るふりをした。雰囲気でそれに気が付いたのだろう、先生はグイッと後ろを振り向き、「こらっ、何をする」とすさまじい大きな声で、真っ赤な顔になって怒った。その直前、犯人はすっと後ろに逃げてしまっていた。ちょうどその犯人の前にいた男の子(これも上級生、いたずらっ子の一人だった)の顔が先生のすぐ前に出ることになった。先生は「お前か」と言ってものすごい勢いでその生徒の顔を叩いた。その生徒はびっくり、「おれじゃない、おれじゃない」と言う。「それなら誰だ」と行っても本人もまわりのみんなも一瞬のこと、ことの成り行きに唖然としていて、その瞬間は誰も犯人の顔と名前を思い出せない。私もである。先生もどうしようもない、これ以上騒ぎ立てたらかえって恥ずかしい思いをすると思ったのだろうか、怒りながら職員室に帰って行き、それで終わりとなった。
 間違って叩かれた子どもはかわいそう、まさに冤罪である。しかし、本当に一瞬のこと、彼も含めてみんな言葉が出ず、そのうちみんなぞろぞろその場を去って行った。私も用事を足しに歩き出した。その後どうなったのかまったくわからない。
 いずれにせよ、私は先生に同情的である。子ども心にも先生の気持ちがわかったからだ。
 教員免許取りたての本当に若い独身の女性だった先生、屈辱には耐えられなかったのであろう。今でいうならセクハラ、相手は痴漢であり、若い女性の潔癖感、身を守る気持ちが無意識のうちにそうさせたのである。相手が子どもであれ許せなかったのであろう。教員でなくったってそうするのではなかろうか。もちろん、先生として馬鹿にされたくない、誇りをまもりたいということもあったろうが、先生の権威で罰を与えようとしたわけではない、と私は考えてしまう。だから私はSA先生を責める気は一切なかった。

(註)
1.12年8月27日掲載・本稿第四部「☆整列、行進、神社参拝」(2段落)参照
2.12年8月20日掲載・本稿第四部「☆宮城遙拝・勅語奉読」(1段落)、
  17年7月31日掲載・本稿第九部「☆交通僻地の山村と修学旅行」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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