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敗戦直後の叱責と処罰



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(4)

           ☆敗戦直後の小中学校での叱責と処罰

 私の四年生の夏、戦争は終わった。その後怒られた記憶はあまりない。体罰を受けたという話もあまり聞いていない。それは次のような理由からではなかったろうか。
 まず、先生方の気持ちを襲った敗戦の虚脱感であり、これまでの異常ともいえる軍国主義教育、死ねと行って子どもたちを戦場に送り出したことなどに対する反省からだったのではなかろうか。
 それから、敗戦前後の異常な状況、疎開から校舎移動そして二部授業等々のあまりの激動、私たちはそれについていくだけでせいいっぱい、何もかも新しい経験ばかり、私たち子どもにとって毎日毎日が新鮮で、退屈して騒いだり、おしゃべりしたり、けんかしたりなどして怒られることなどあまりなかったこともあったのではなかろうか。
 さらに、戦後の混乱のなかで怒られる材料が少なくなったからではないかとも考えられる。たとえば、五年のときなど教科書すらなかったのだから、教科書やノート、習字道具などを忘れたということで怒られることはなくなったし、たとえば図画の宿題を出そうにも画用紙もクレヨンもないのだから出せないのでそれを忘れて怒られることもなく、衣類不足のなかで服装の乱れで怒られることもないのである(註1)。
 もちろん、まったく怒られなかったわけではない。その怒られたなかで私には忘れられないことがある。前にも述べたことで重複するが、簡単に述べるのでお許し願いたい。

 その一つは、敗戦の年の冬、隣の学校の教室で二部授業をしていたころのことである、授業の始まる前、担任のSK先生(中年女性)が一人の生徒をみんなの前に呼び出した。彼がアメリカ占領軍の施設に忍び入り、ごみ捨て場をあさって捕まったというのである。しばらくぶりで聞くすさまじい大きな声で先生は彼を怒った、「それでもお前は日本人か、恥を知れ」と。この言葉は強烈で、いまだに頭に残っている(註2)。

 もう一つ、六年生になったばかりのころのことである。一年生のころから同級生を暴力で支配してきたガキ大将がクラス替えで同じクラスになった。彼がまたクラスでみんなをいじめるようになったら困るということでみんなで相談し、私が代表で彼とけんかし、それをみんなが助けて彼をやっつけることにした。そしてグランドで学校中大騒ぎになるようなけんかをし、何人かの先生が駆け付けてきて職員室に引っ張っていかれて教頭から事情を聴かれ、説教された。そのとき固い床に正座させられた(かなり足が痛かった)ことが罰だったのだろうか、あれだけの騒ぎを起こしたのだからこの程度はやむをえないとは思うが、それ以上の罰はナシだった(註3)。なお、この事件のころは新学期が始まったばかりで担任の先生がまだ赴任しておらず、したがって担任からどうされたということはなかった。

 さらにもう一つ、これも同じく六年の冬のことである。米軍払い下げの食材でつくられた本当にまずくて食えない給食(シチューまがいの汁)を私を含む十人近くの同級生が便所バケツに捨て、見つからないようにこっそり外に持ち出し、グランドの雪の中に埋めて捨てたときのことである。何で知られたのか、誰か告げ口したのかわからないが、それが担任のTK先生に見つかってしまった。先生はすさまじく怒った。そして雪に埋もれた給食を便所バケツに戻させ、それを食べろ、そしたら許すと言う。しかしそんなもの食えるわけはない。それではその代わりの罰だとして私たちは一列に並ばされた。先生は一人ずつほっぺたを平手で思いっきり殴った。そのときの先生の顔は初めて見る怖い顔だった。痛かった、すさまじく痛かった。私は鼻血が出た。でも、私は先生を恨むことはできなかった。戦後一年半経ってようやく南方の島の戦地から引き揚げてきた先生は最初私たちの教室に来た時に骨と皮ばかりという感じだった。戦場でかなり飢えに苦しんだのではなかろうか。そして飢えて死んでいく戦友を何人も見送ったのではなかろうか。その大事な食料をまずいからと言って捨てる、先生としては許せなかったのだろう。それが何となくわかった。だから私はその体罰を受け入れた(註4)。
 これが私にとっての体罰の最後の体験となった。といってもあの給食はどうしても好きにはなれず、給食の時間は苦痛の時間でしかなく、だから給食は私にとっては体罰であり、それがその後も続いたといえるのかもしれない(といっても、学校給食は中学ではなかったので、私たちの給食はその後二か月くらいで終わり、これで無罪放免、本当に助かったのだが)。
 TK先生が怒ったのは、そして体罰を与えたのは、その一度だけだった。本当にいい先生だった。

 48(昭23)年入学した新制中学、前々節で述べたようにクラスの生徒数は45人、かなり少なくなった。といってもみんなの身体は食糧難時代といえどもそれなりに大きくなっており、机は前のような二人掛けではなく一人掛けになって列が増え、一方教室は旧陸軍の兵舎の跡の利用、教室の後ろは一人が歩ける程度しか空いておらず、やはり狭く感じたものだった。多人数教育はまだ続いていたのである(それどころか全国的にはさらに問題が激化しつつあったのだが、このことについてはまた後で述べる)。そういう点では戦前戦中とあまり変わらなかったのだが、先生の生徒に対する厳しい叱責や処罰は少なくなっていて戦中の高等科とはかなり違っていた。軍隊式の一糸乱れぬ行動とか年齢や地位身分による半封建的な支配従属関係等々が戦後の民主化により学校内からなくなり、子どもの人権などに関する先生の意識改革も進んだからなのだろう。
 もちろん先生はやはり怖かった。中学でも叱責はあった。処罰もあったようである。しかし、体罰については見たことも聞いたこともなかった。私が知らなかっただけなのかもしれないが。何しろ一学年15クラスのマンモス校、うわさも伝わるうちに消えて私たちの耳に届かなかっただけなのかもしれない。しかし少なくとも私たちのクラスでは、担任からはもちろん各教科の担当の先生からも怒られたり、体罰を受けたりしたことはない。それほど模範的な生徒の集まったクラスだったとは思わないのだが。
 実際にこんなこともあった、新任の女性の数学の先生(私の近くに住むしかも母の従姉妹だったのだが)の授業が最初あまりにも下手(師範卒ではなく女子高専卒だったからだろう)で、みんなが先生の授業を聞かずにおしゃべりするようになった(今なら授業崩壊というのだろう)。どうしようもなくなって頼んだのだろう、授業開始と同時に怖いと評判の体育の先生が入ってきて教室の後ろに立ち、私たちを監視し始めたのである。そこでみんな怖くなり、同時に自分たちが悪いことをしているのだと改めて気が付き(今でも申し訳なかったと思っている)、それからはその監視なしでもきちんと授業を聞くようになった。そのうち慣れたせいか先生の授業は本当に上手になった。当然みんな集中して聞くようになった。
 こんな程度の生徒なのに、一、二年のときの私たちの担任FM先生は私たちを怒らなかった。私たちとの最初の顔合わせの時間に、私は絶対みんなを怒らないと宣言したのである。ところが、一度だけその約束を破った。入学して一ヶ月くらいしてではなかったろうか、大掃除のとき先生の言うことを聞かずにさぼっておしゃべりしていた同級生の一人を大きな声で怒鳴りつけたのである。みんなびっくりして先生の方を見た。とたんにはっと気が付いたらしい先生はその場にいた私たちみんなに深々と頭を下げた。そして、絶対に怒らないと約束したのに申訳ない、自分が情けない、これから二度と怒らないから許してくれと誤った。あれはショックだった。
 それから本当に二度と怒らなかった。忍耐強かった、そして説得した、その説得がうまくいかないと自分を責めて涙をこぼした。これも私たちにはショックだった。それからの私たちは無理難題を言ったりすることはなく先生の言うことを理解しようと努めるようになった。このFM先生のことについてはまた後に述べたいと思っている。
 こういう先生のもとで学んでいたからなのか、それとも私の耳に入らなかったせいなのかわからないが、校内での体罰の話を聞いたことがなかった。そしてそれは、戦前とくに戦中に横行した軍隊式教育に対する先生方自らの反省から来たのだろうと思っていた。
 ところが、バブル時代の終わりごろ、90年代になったころからだったろうか、その体罰が大きな社会問題となって報じられるようになった。体罰事故死が相次ぎ、訴訟も増えたのである。
 そのとき、明治以降学校での体罰は禁止されてきたこと、戦後の1947(昭22)年制定された学校教育法で改めて禁止されたことを初めて知った。しかし体罰は黙認され、一貫してなされてきたということらしい(註5)。その体罰がまた復活したのである。それを聞いたとき、戦前への逆行なのか、なぜこんな風になったのかとショックだった。
 やはりそのころからではなかったろうか、学校でのいじめが大きな問題となってきた。そしてそれは今も続いている。
 私は専門家でないのでその原因や対策について語れないのだが、そうしたニュースを聞くたびに苦しい、悲しい、いらだたしい思いで胸がいっぱいになった。

 ちょうど同じ頃ではなかったろうか、モンスターペアレンツなるものが話題を呼ぶようになった。かつての一般庶民には考えられなかったことだった。
 先日、東京の某有名私大の教授をしている後輩がモンスターペアレンツ対策係にさせられて大変だと嘆いていたが、大学よお前もかとあきれ果ててしまった。困った世の中になったものである。
 また現代への口説き言になってしまったが、話をもう一度私の小中学時代に戻そう。

(註)
1.14年6月23日掲載・本稿第六部「☆忘れ物、落し物、探し物の不安」(1、2段落)参照
2.11年2月18日掲載・本稿第一部「☆ゲブミーチューインガム」(6段落)参照
3.13年10月7日掲載・本稿第六部「☆『弱きを助け』はいずこへ」(3段落)参照
4.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(4段落)参照
5.その点では軍隊と同じで、軍隊でも体罰は禁止されていた。しかし黙認され、リンチとしてすさまじい体罰が横行していた。このことについては本稿の下記掲載記事で触れている。
  14年9月1日掲載・本稿第七部「☆聞き書き・日本の軍隊」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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