Entries

戦中戦後の男女共学と私たち




          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(5)

         ☆戦中戦後の男女共学と私たちの小中学校

 わが国の江戸時代における庶民の識字率は世界でも突出して高かったと言われているが、それを支えた私設教育機関の寺子屋は男女共学だったとのことである。
 ところが、明治に設立された尋常小学校は、低学年のときは男女共学だが、高学年になると男女別学だった。
 「男尊女卑」、「男女七歳にして席を同じうせず」という江戸時代の支配階級のイデオロギーが明治の新しい支配階級のもとで再編され、それが教育の面ではこうした形をとって発現したのであろう。 
 私の入学した国民学校(=小学校)も同じで、一、二年生は共学だが、三年生以降は男女別学だった。だから入学当初は男女が同じ学級で、同じカリキュラムで勉強した。
 といっても「席は同じうせず」だった。木製・二人掛けの机だったが、そこに男女二人を座らせることはなかった。教室内の机の配置も男女完全に半分に別れていた。男子は全員窓側、女子は全員廊下側と二つに分けられ、背の低いものから高いものへと順に前から後ろに座らされていた。
 こんな状況だから、男女がいっしょに遊んだり、しゃべったりはあまりしなかった。家に帰れば近所の子どもたち男女を問わずいっしょに遊んでいるのにである。もしもクラスの女の子と仲良くしゃべったりすればみんなから冷やかされ、いじめの材料にすらされるからだ。だからみんな知らん顔だった。

 三年からはそれぞれ男女別にクラスが分けられ、学習内容も一部違うようになる。たとえば女子には男子にない裁縫・料理、行儀作法、薙刀などの授業科目があった。
 この男女別学は小学校卒業後も同じで、旧制中学(五年制)は男子は男子だけの中学校、女子は女学校と完全に別学であり、旧制中学に行かない子どもは二年制の高等科(註1)に行くが、これも別学だった。

 この三年から男女別学になるというのは文部省の方針で全国共通であり、これが私たちの本来たどるべき道筋だった。
 といっても、全国一律に男女別学にするわけには行かなかった。生徒数や地理的条件、市町村の財政事情等が地域によってかなり異なるからである。
 たとえば、隣村のAR君(本章の最初で登場してもらった)のT村小学校(註2)の場合がそうである。一、二年が赤組・白組の男女共学2クラスだったが、三年から男組、共組(=男女共学の組)、女組の3クラスとなったという。
 なぜクラスの数が増えたのか理由はよくわからないとAR君は言うが、2クラスの合計人数が定数の120人をかなり超えていたためではないかと推測される。
 しかし、それに対応して1クラス増やすと、クラスの数は3の奇数となってしまう。すると男女を二つに分けること、つまり男女別学のクラス編成ができない。だからといって男2と女2のクラス計4クラスにするとそれぞれのクラスの生徒の数がこれまでの半分となり、一方教員の数は倍の4人、教室も倍にしなければならなくなる。そこでその折衷としてなのだう、男組、共組(=男女共学の組)、女組の3クラスとしたのではなかろうか。共組=男女共学は政府の方針とは異なるのだが、学区内の子どもの数、教員の数等々、地域の事情を考えないわけにはいかず、一律に強制するわけにはいかなかったのだろう。
 もう一つ事例をあげれば、私が疎開で一学期だけ通った山寺村の荒谷分教場は四年まで男女共学の1クラスだった(本校に通うようになる五年からは別学となるが)。また、山形市の西北部のある山村ではクラスを大字単位に編成していたという話を聞いたことがある。通学条件からだったようだが、これを聞いたときにはこういうことにあまり関心を持っていなかったので、へえーと思っただけで、どこの村でどういうようにどういう理由で分けたのか等々聞き漏らしてしまった、今になって後悔している。

 さて、また私の通った小学校の話に戻るが、実は私たちも本来なされるべき三年からの男女別学がなされなかった。
 4クラスあったのだが、そのクラス替えがなく、一~二年のクラスがそのまま三年に持ち上がったので、男女いっしょが継続されたのである。私の上の学年は三年になるときクラス替えをして男は男のクラス、女は女のクラスと別学になったのにである。
 その理由はわからない。その理由を説明されたのかどうかも覚えていない。激動の時期であまりにもいろんなことがあったために忘れてしまったのだろうか。と思ったときに、その激動の時期であることにその理由があったのではないかと考えるようになった。

 私が小学三年になったのは1944(昭19)年春、敗戦の色が濃くなっており、東京は絶えず空襲を受けるようになっていた。それに対応して当時の政府は東京等大都市の学童を強制的に全国各地に疎開させることにした。しかし、疎開しようにも農村部に縁故もなくて疎開できない子どももいる。そのような子どもたちを学校ぐるみ集団で疎開させることにした。これを集団疎開と言うが、私たちの小学校は東京の豊島区の小学校の集団疎開の学童五年と六年の計2クラスを受け入れることになり、その教室の確保が必要となった。他方で、縁故疎開の学童の受け入れも増え、既存の各クラスの生徒数も増えてきた。こうした時期にクラス替えなどする物理的時間的ゆとりがなかった。そのために私たちのクラス替えがなかった。こういうことなのではなかろうか。それしか理由が考えられない。そしてそれを教育行政も認めないわけにはいかなかったのだろう。

 翌45(昭20)年、四年になったら、学校の校舎は軍需工場として接収されることになって二部授業をしなければならなくなり、さらに私たちも全員疎開しなければならなくなった。当然クラス替えなどやっているゆとりはないし、これからどうなるかわからないときにやってもしかたがないからなのだろう、またそのままになってしまった。
 そして疎開、私はさきほど述べた荒谷の分教場で男女共学となる。
その八月末、敗戦でみんな疎開先から戻ってきた。そしてまた前と同じクラスで授業が再開された。そのとたん、校舎は米軍に接収、大混乱のなかでクラス替えどころではない。今まで通りの男女共学のクラスで移転した校舎で二部授業を受け、やがて平常の授業が受けられるようになった。

 こうして何とか落ち着いたからなのだろう、五年の新学期、政府の方針である男女別学がようやく実現した。私にとっては初めてのクラス替え(疎開のときは別にして)、初めての男子だけのクラスを体験することになった。それで何か共学のときと変わったとかよかったとかの記憶は一切ない。前にも述べたようにそもそも教室内では男女は没交渉、まったく関心を持たないで過ごしたので、4年間もの男女共学・同じクラスではなくなったこと、初めて男子だけになったことに特別な感慨を持たなかったのだろう。また、教科書すらない大混乱の時期(私の家庭でもさまざまなことのあった年)だったのでそれどころではなかったからかもしれない。

 これでようやく本来の姿(?)に戻って男子だけになったのだが、六年になったらまたクラス替えがあり、しかも男女共学になってしまった。47年に制定された教育基本法で「教育は原則として男女共学で行われることが本来の在り方である」とされたからである。
 こうして私の男女別学はこの小学五年の一年間だけで終わってしまった。
 さて、しばらくぶりで(といってもわずか一年なのだが)いっしょになった男子と女子、何か恥ずかしかった。前と同じでお互い口もきかなかった。
 そしたら席替えのとき、席の列を男女交互にすると担任のTK先生がいう。男女双方から不満の声があがったが(みんな内心はうれしかったと思うのだが)先生は強行した。しかしそれで仲良くなるなどということはなかった。鉛筆や消しゴムの貸し借りなどで隣の席の女の子と話すことはあったが、みんないっしょに話すことも遊ぶこともなかった。休み時間に男子が部屋の中にいると女子は廊下、女子が部屋の中でしゃべっていると男子は廊下もしくは屋外とお互いに避け合い、まったく別行動だった。
 これは中学に入っても同じだった。

 中学も当然男女共学、ただし座席の順序は小学校のときと違って男女交互に苗字のアイウエオ順となった。これまでとのあまりの違いにみんなどまどったが、中学とはそういうところなのだろうと思って誰も文句は言わなかった。しかし、男女がいっしょに話をしたり、遊んだりは一切しなかった。それどころか学級会などになると男女双方悪口の言い合いである。男はこういう乱暴をする、やめてもらいたい、女の子こそこういうことをしているではないか等々、あらを探して言い合いをする。学級会と言ってもその実は男女の言い合いの会である。
 師範学校を出たばかりの理想に燃えていた担任のFM先生は、それを心配して何とか仲良くさせようと学級委員だった私と女子生徒の二人を呼び出し、先頭に立って仲良くするように命じた。やむを得ずそうした結果、クラス全員本当に仲良くなり、いっしょにしゃべり、遊ぶようになった。そしてそれが他のクラスにも波及することになるのだが(註4)、要するに男女ともに仲良くしたかったのである。ただ恥ずかしかっただけ、てれくさかっただけ、それを悪口やいじめで表現していただけだった。
 しかし、そこまで仲良くなっても体育の時間のフォークダンスは嫌がった。とくに男がいやがった。そもそも踊りなどというものは女々しいこと、しかも女の子の手をにぎるなどという恥ずかしいこと、こんなことやっていられないというわけである。しかし実は内心みんな手をにぎってみたかった。でもみんなに冷やかされるのがいやだった。誰か先頭に立ってやればみんなやったのかもしれないが、それだけは私も先頭に立てなかった。運動神経のない私のこと、なかなか踊りが覚えられず、しかも下手で恥をかくだけだったろうからである。

 高校も男女共学だった。しかし二年のとき県内の制度が変わり、私の高校は男子中心となったが、女子も1割程度いて、その半分がたまたま私のクラスに配置された。三年のときもそうだった。だから高校は私の場合3年間共学だった。
 大学も男女共学だった。そもそも私の入った東北大学は日本で最初に女性の入学を認めた大学だったのだが、当時は女性の入学者はきわめて少なく、1割程度しかいなかった。それでも、同じカリキュラムでいっしょに教室で講義を受け、実験室で実験しており、その点ではやはり男女共学だった。

 こうして見ると、私の場合、男女別学は六・三・三・四の16年間のうちわずか1年だけだった。まさに私は男女共学の申し子、先頭を切ってきたといえるかもしれない。だからといってとくに何をしたわけでもない、たまたまそういう巡り合わせになっただけなのだが。
 さて、話は高校・大学まで飛んでしまったが、またもとに戻そう。

(註)
1.高等科については下記の本稿掲載記事を参照されたい。なお、一般に高等科は卒業した小学校に設置されていた、つまり六年までの初等科と併存していた。しかし、合併前の旧山形市では旧市内の高等科の男子生徒は全員山形市高等小学校(1940年から山形市男子国民学校と改称)に通い、女子は卒業した小学校で高等科の授業を受けることになっており、完全に別学だった。
  17年9月4日掲載・本稿第九部「☆多人数学級だった私たちの小学校」(付記)
2.T村の地理的概況については下記の本稿掲載記事に書いているが、その前後の章節にAR君の小中学校生活についていろいろ書いているので、参照されたい。
  17年7月24日掲載・本稿第九部「☆隣りのT村の近距離『修学旅行』」(1段落)、
  17年7月31日掲載・本稿第九部「☆交通僻地の山村と修学旅行」(1段落)
3.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(1~2段落)


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR