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戦後混乱期の子どもたち(5)

  


                    ☆新制中学への通学と叩き売り

 国民学校は小学校という名前に変わった。また、私の一年上の学年から学制が六・三・三・四制に変わり、私たちは新制中学に行くことになった。問題は校舎である。小学校の卒業生全員を三年間教育するとなると校舎はかなり必要になる。だからといってすべて建てる余裕などない。そこで私の入った中学などは山形城にあった旧陸軍第百三十二連隊の兵舎を校舎にさせられた。米軍に接収されていたが、前の年に返還され、一部が引き揚げ者の宿舎などになり、残りの旧兵舎に中学校がおかれることになったのである。しかも二つの中学校が隣り合わせに設置された。今なら考えられない何とも奇妙な状況がつくられたが、当時はこれもやむを得ないものとして大人も子どもも受け入れた。
 私の中学校は四つの小学校の卒業生で構成された。一学年十五組約七百人、合計二千人を超す生徒のいるマンモス中学だった(隣のもう一つの中学校もそれに近かった)。これまた今なら信じられない生徒数である。
 一九四八(昭和二十三)年春、私たち新入生は、新しく作られたばかりの、まだ乾燥しきっていないニスがべたべた手にくっつくような椅子を一人一つずつ持たされ、小学校から何もないがらんとした旧兵舎まで運ばされた(机も運んだはずなのだが、記憶していない)。
 廊下を挟んで教室があるので向かい隣の教室の声がよく聞こえる。窓にはガラスがなく、金網にパラフィン(だと思う)が吹き付けられた代用ガラスが貼り付けられていた。講堂兼体育館は床がない。陸軍兵舎時代は馬小屋だったという。体操をすると黄土色の土ぼこりが舞い上がった。
 校舎や施設ばかりではない。教師も不足していた。裁縫の先生が国語を教えたり、体操の先生が英語を教えたりで、あんちょこ(子どもたち向けの教科書の安直な解説書)を教科書の中に隠し持って教えている先生もいた。教師用解説書もなかったのだろう。ともかくめちゃくちゃだった。
 それでも新鮮だった。『新しい憲法の話』の教科書を使った授業では、戦争放棄、基本的人権、三権分立等々、これからの新しい国の姿が生き生きと教えられた。小学校ではなかった新しい授業をさまざまな先生が一生懸命教えていた。とくに師範学校(現在の教育学部)を卒業したばかりの若い教師たちは本当に熱心に新しい教育の在り方を模索していた。私のクラス担任もそうで、その彼にあこがれて同級生の何人かが後に教師になっている。
 また楽しかった。農村部から繁華街までの同級生ができたので、遊び回る場所が増え、さまざまな雑知識も増えた。戦前は入れなかった城跡や兵舎跡を探検したり、桜の咲いたお濠の土手を散歩したりするのも楽しかった。
 同級生は男女ともに仲の良い友だちになった。戦前は小学校高学年になると男女別学になったが、四七年からすべて共学になったからである。
 もちろん、「男女七歳にして席を同じうせず」はまだ強く生きていたし、またお互いにてれくさかった。だから最初は両方ともそっぽを向いていたし、何かあると悪口を言い合って対立した。一学期の中頃だったろうか、担任の先生から男の学級委員の私と女子の学級委員が呼ばれ、君たち二人が先頭に立って仲良くしろ、そしてクラスみんなを仲良くさせろといわれた。それで二人は徹底して仲良くした。そして仲間を誘って男女いっしょに遊んだ。最初はなかなか入ってこなかったが、そのうち平気になり、いっしょにしゃべったり、みんなで野球をしたり、「馬乗り」までするようになった。他のクラスの連中はそれをみんな珍しがり(うらやましがりだと思うのだが)、昼休みに野球をしていると窓から身を乗り出して見ていた。そのうち、他のクラスでも男女いっしょに遊ぶようになった。やはり男子も女子も仲良くしたかったのだ。

 なお、今「馬乗り」と言ったが、知らない人もいるかもしれないので、若干説明しておきたい。
 子どもたちが二チームに分かれ、片方が馬になり、もう片方が乗り手になる。馬になるチームの親一人が壁に背を向けて立ち、別の一人がその股ぐらに頭を突っ込み、またその後ろに他のメンバー全員が同じ姿勢で前の人の股ぐらに頭を突っ込んで長くつながる。それができあがったら、乗り手のチームが跳び箱に乗るようにしてその並んだ馬に順次飛び乗る。その重さで馬が潰れたら馬チームが負けでもう一度馬になる。もしも全員馬に乗れなかったら、あるいは落ちてしまったら、乗り手チームが負けとなり、今度はこちらが馬となる。全員うまく馬に乗ったら、馬チームの親と乗り手がじゃんけんをし、負けた方が次ぎに馬になる。こういう遊びなのだが、冬になると寒さしのぎによくやった遊びだった。
 ただしこれは男の遊び、それを女もやり、男女かまわず股ぐらに頭を突っ込むのだから、それを見た他のクラスの連中が驚くのは当たり前だった。でも当時はみんな身体が小さく、本当に子どもだったから、やっている私たちは特に何にも感じなかった。先生も苦笑いして怪我しないよう気をつけてやるようにと言う程度だった。さすがに二年の冬にはこんな遊びはしなくなっていたが。

 通学時間はものすごく長くなった。小学校は家の目の前、五分もかからないで行けたが、今度は三十分以上かかる。このこと自体は大変なのだが、通学途上見られるものが増えたので楽しみでもあった。途中に山形駅があったので、帰りにその構内に入り込み、列車の入れ替えを見たり、国鉄に勤めている父をもつ同級生からD51やC51の名前を教えてもらったりしながら同じ方向に家のある同級生みんなでぞろぞろ帰った。ここは近道なのだが、そのうち構内通行は危ないからと禁止された。山形駅前を通ることになったが、今度は帰り道にみんなでそこの闇市を眺めながら帰るようになった。

 全国どこでも同じだが、戦災を受けなかった山形市内にも戦後各所に闇市ができた。焼け跡はないので、強制疎開させられた住宅の跡地や道路わきに露店ができた。そこには生きるための熱気があふれていた。
 駅前の道路にも露店がずらっと並んだ。そこに叩き売りの店が二~三ヶ所あった。そこでは日替わりあるいは週替わりで、石けん、売れ残りの雑誌、薬などなど、若干いかがわしいものまで含めて売られていた。叩き売りの口上は『男はつらいよ』の寅さんのせりふとほとんど同じである。映画を見たときには本当になつかしかった。ただ、寅さんが言わないせりふもある。たとえば寅さんのいつもの口上に加えて次のようにいっていた。
  「‐‐‐‐‐‐さあ、まけた、まけた、
   まけて悪いは相撲とけんか、はって悪いは親父の頭、
   まけた数はワンツースリー四つ五つ六つ七つ八つの八点、
   ええい、やけのやんぱちだ、
   男は度胸で女は愛嬌、漬物らっきょに坊主はお経、
   さあ、もう一つおまけだ、
   これが有名な○○○の石けん、
   普通のお店で買えば○○円はとられる品物‐‐‐‐‐‐」
 カルメ焼きの店もあった。砂糖を水に溶かして煮立て、何か白い粉を入れると丸くふくれてくる、その白い粉とできあがったカルメ焼きを売るのだが、生まれて初めて見るので、あきずにみんなで見ていた。でも一週間くらいたったらつまらなくなって見るのはやめた。そろそろ砂糖が出回り始めたころだった。
 その他、蛇に指をかませて血止めの薬を売るとか、学生服を着て算数の本を売るとかの路上での立ち売り屋もいた。
 ともかく面白かった。だから、中学校の帰り道、友だちといっしょに毎日のようにうろうろと見て歩いた。それで叩き売りの口上などはほとんど覚えてしまった。当然、売人の顔も覚えた。面白いことにさっきまで売人をしていたものが客になっている。逆に客だったのが売人になっている。つまりさくらだ。そのさくらのやり方もいろいろある。こんなことを見ているとあきない。それで毎日じっと店の前で聞く。客があまりいないときはわれわれが聞いていても何もいわない。客寄せの役割をわれわれに果たさせるのである。やがて客が寄ってくると、子どもは帰った帰ったと追い立てられる。

 その頃、K叔父の戦死の公報が届いた。祖父母や父はK叔父よりも年上なので逆縁だからと、甥の私が遺族代表として親戚の人といっしょに市役所に遺骨を受け取りに行った。渡された白木の箱にはもちろん骨などは入っていなかった。本当に軽かった。戦後五年もしてからの知らせだった。もう一人の叔父Tの戦死は戦後すぐにあり、K叔父もだめだろうと半ばあきらめてはいたもののやはり祖父母にはショックだったようだ。
 しかし二人の叔父は祖父母に遺族年金を遺してくれた。それは長生きした祖母の小遣いとなった。それが死んだ二人の親孝行だったのだろう。
 一九四四年から四七年にかけて、つまり戦中から戦後にかけての四年の間に私の家族と近い親戚で計六人が死んだ。これまで書いた母、妹、叔父二人に加えて、子どものいない分家の養女になっていた叔母と義理の伯父が死んでいる。
 祖父は、うち続く不幸に何かあるのではないかと考え、近くの占い師に家相を見てもらった。そしたら庭にある柿の木が悪いという。屋根より背が高いので、家に影をもたらす、それが不幸のもとだと言うのである。祖父はそれを信じて柿の木を切った。その木は、子どもの私では抱えきれない太い幹まわりで、秋になるとたくさんの実をつけた。お湯や渋で渋抜きをした甘い実を、あるいは干し柿を私たちに食べさせてくれたものだった。
 いうまでもなく柿の木が不幸の犯人ではない。戦争と戦後の混乱がなければ、それにともなう薬を始めとする物資の不足がなければ、そして医学がもっと進歩していれば避けられたであろう死が、私の家族を襲ったのである。そして私の好きだった柿の木までも犠牲にしてしまった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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