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授業進展度と「言葉」の地域差




          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(7)

         ☆授業進展度と「言葉」の地域差―中央と地方―

 私たちの小学校時代の教科書は「国定教科書」だった。ご承知のように、国定教科書とは政府が全国の学校で一律に使用させる教科書であり、戦前の私たちはその教科書で国家権力の意図する忠君愛国、軍国主義思想を叩き込まれ、日本を戦争の加害者・被害者としてしまったわけだが、国定教科書にはたった一つだけいいことがあった。
 日本全国どこの小学校でも同じ教科書だったので、国内のどこに転校しても前の学校で使っていた教科書をそのまま使え、教科書を買い替えなくともよかったことである。そして習っていることも全国どこでも同じなので、違和感なくすぐに授業についていけた。当時はそれが当たり前だったので何も感じなかったのだが、疎開した時にその利便さをしみじみ感じたものだった。
 もちろん、一学年で教わるべき基本的なことは決まっているので、教科書が違っても本来は問題がない。しかし、習う順序は教科書により違う。たとえばある漢字の出てくるのが遅い教科書もあれば早い教科書もある。そうなると転校した自分は何の漢字をすでに学んでいて何を学んでいないのか、教科書が違うので比較して探すのが大変だ。一度教わったことを二度教わるのはかまわないが、一度も習わないのでは困る。しかし、同じ教科書ならどこまで習ったかを比較でき、足りないところがわかるので、その回復を図るのは比較的容易である。こんな利点もある。
 さらにその後感じたのは、出身地・学年を問わず教科書に関する同じ思い出を共有できることだった(学年に関しては国定教科書の改訂がなければの話だが、めったに改訂されなかった)。たとえば音楽の教科書で習った歌すべて共通しているので、北海道出身から沖縄出身までみんなでなつかしいとそれぞれの思い出話をしながらいっしょに歌える。これがいい。
 だからといって「国定教科書」に戻るべきだなどとはまったく思わない。今の検定教科書でさえ国家権力の意図するままに書き変えられようとしており、ましてや今の政権のもとで国定教科書になどなったらとんでもないことになるだろうからである。
 それを前提にして言うのだが、全国共通の教科書のもう一つの利点は授業の進展度合いを全国どこの学校とも比較できること、年次間の比較ができることであろう。それを実感したのは、戦時中の疎開騒ぎのころだった。

 言うまでもなく、各学年の教科書の内容はその学年のうちにすべて学び終わるべきものである。そう思っていたのだが、小学一年のとき、教科書の最後の方は習わないで終わった。このことは授業が予定通りに進まなかった、遅れたことを示すものであり、当然その遅れを二年になった時の最初にでも取り返すのだろう、つまり一年の教科書のやらなかったところを二年の新学期にでもやるのだろうと思っていた。しかし、そうはしなかった。新学期は、一年の教科書はすでに習い終わっているものとして、二年の新しい教科書で授業に入っていった。
 二年のときもそうだった。期末に授業の遅れを取り戻すための特別なことをするでもなく、そのままだった。三年のときも同じだった。毎年のようにそうなので、そんなものなのだろう、教科書は全部習い終わるのは理想であって、終わらないのが当たり前なのだろうと思っていた。

 二年生の半ばころから、東京からの疎開学童がぽつりぽつりとクラスの一員として入ってくるようになった。さきほど述べたように教科書はすべて東京であろうと山形であろうと同じ、先生や私たちが特に何も言わなくともすぐに授業に入り込んでいった。
 あるとき、その疎開の子たちが私にこんなことを言った、今習っているところはとっくに僕たちは習い終わっている、東京の学校ではその7、8ページ先のところを習っていたと。それも一人だけではない、学校がそれぞれ違うのに、みんながそうだった。これなら東京は私たちと違って教科書を年度内にすべて終わらせることができるだろう。さすが東京は進んでいる、私たちのところのような地方・田舎とは違うと当時は感心したものだった。

 なぜこんなに違うのだろうか。東京の子どもはみんな頭がよいからなのだろうか。でも疎開してきた子どもを見れば必ずしもそうではない。成績がいいやつもいるが、よくないやつもいる。
 先生たちが優秀なのだろうか。私の三年のときに私たちの学校に集団疎開をしてきた子どもたちを引き連れていっしょにきた先生方を見ても特別優れているとは感じられない。
 ただ私たち山形と違うのは、子どもたちにしても先生方にしても使う言葉が東京弁だということだ。つまり教科書で使っているいわゆる標準語なのである。彼らの話している言葉がほぼそのまま教科書で使われている。もちろん教科書で使っている言葉は文章語であり、口頭語とは若干違ってはいるが、その意味はほぼ理解できるだろうし、書くのも自分たちのふだん使っている言葉だから書きやすいはずである。特別努力しなくともできる。
 ところが私たちはそうはいかない。国語の教科書に書いてある「ぼく」・「わたくし」、こんな言葉は学校に行く前には使ったことがないのだが、それは私たちが小さいころから使ってきた山形語の「おれ」に翻訳して理解しなければならない。作文を書くとき、先生に話すときには日常使用している「おまえ」は「きみ」・「あなた」に、「むずる」を「曲がる」、「んだっす」を「そうです」に翻訳しなければなければならない。困るのは「こわい」だ、山形では「疲れた」という意味なのだが、これをそのまま作文に使うと「怖い」と間違われてしまって意味が通じなくなってしまう。今のはほんの一例、ほとんどの言葉に翻訳が必要なのである。
 しかも共通語は使ったことがないどころか聞いたこともない。小学校に入って先生から初めて聞く子どもすらいた。共通語をしやべるラジオは普及しておらず、テレビはもちろん当時なく、交通不便の時代で東京の人との交流もほとんどなかったからである。だから共通語はまさに異国語だった。
 そうなればまずその共通語を覚えなければならない。聞いて、読んで自分が理解できるように、話して、書いて相手に理解してもらえるようにならなければならない。
 当然それには時間がかかる。何しろ私たちは二か国語を理解し、使い分け、使いこなしながら教科書の内容を理解し、先生と会話し、答案や作文を書いていかなければならないのだから。
 となると、そんな苦労のない東京での授業の進み方は、地方の私たちよりも早くなるはずである。
 そうだ、言葉のせいなのだ、私たちの日常使う言葉と教科書言葉のギャップが遅れの原因なのだ。東京の日常語は共通語=教科書語、地方の日常語は地方語≠-教科書語、この差、中央と地方の差のせいなのだ。

 とするなら、こうした地方の遅れが出てこないようにするためには、地方の子どもたちをいかに早く地方語から脱却させ、東京の子どものように「標準語」を日常的に話せるようにするかが課題となる。
 こういうこともあったのだろう、「方言札(ふだ)」なるものが地方の学校にあったというのは。

 戦後10年くらい過ぎたころではなかったろうか、小学生だった末弟が突然自分のことを「ボク」と言うようになった。どうしたのかと思って聞くと、学校で「オレ」と言うとそれは山形弁だ、汚い言葉を使うなと怒られるというのである。私は頭にきた、何で「オレ」が汚くて「ボク」がきれいなのか、山形では昔からみんなが日常的に使ってきた言葉なのだ、なぜそれを禁止するのかと。日本の共通語は「ボク」なので、山形以外の人にはボクを使えというだけならまだわかるが、地域の日常語をなぜ禁止するのかと。
 しかし、そういう「標準語」の強制=方言の「矯正」は明治の初めからあったようで、たまたま私が体験しなかったということらしい。その矯正のために使われた一つの道具が「方言札(ふだ)」だったと言う。学校でいわゆる方言=地域の言葉を使うと罰として首から方言札と書かれた木の看板をかけさせられ、次に方言を使う子どもが現れるまで見せしめのためにこれを首にかけていなければならなかったというのである。こういう話を聞いたのはかなり後だった。山形県南の農村生まれの井上ひさしの著作(この書名が思い出せない)にもたしかその方言札の話が出てきており、山形にもあったのかと驚いたものだったが、とくに沖縄と東北でそれがひどかったとのことである。
 いうまでもなく言葉は文化である。とすれば地域の言葉は地域の文化である。その地域の言葉を卑下し、禁止することは、地域の文化、伝統の否定である。それで何が文化国家の建設なのか、何でこんなことまでするのだろうかなどと憤慨したのだが、同時に考えたのは、本当に言葉の問題が授業の遅れや学力の低さの原因なのだろうかということだった。たしかにそれがないわけではないけれど、もっと別の問題もあるのではなかろうかと。
 そう考えたとき、ふと思い出したのは、敗戦直前に私が疎開した純農村部の小学校でのことだった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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