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通知箋から見た国民学校の授業科目


          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(9)

           ☆通知箋から見た国民学校の授業科目

 これまで述べてきたように、戦中戦後子ども時代を過ごした私たちはまともに授業が受けられなかった。もちろん、戦争の被害を直接受けた沖縄、広島、東京都心や満州移民などの子どもたちから見れば地方の農山村の子どもたちは比較にならないほど恵まれていた。しかし、それでもやはり大きな影響を受け、異常な経験をさせられた。東北の地方の小都市で育った私もやはりそうだった。まともに勉強することができなかった。
 そこで今度は戦中・戦後の授業、勉強という面から私の小中時代を見てみようと思う(これまで述べてきたことの繰り返しになるところもかなりあろうが、お許し願いたい)。

 私が国民学校初等科に入学したのは、尋常小学校から国民学校に名前が変わって(註)2年目、太平洋戦争が始まって4ヶ月目の1942(昭17)年の4月だった。
 この初等科にどんな教科・科目があり、私たちはどんなことを勉強したのだろうか。言うまでもなく、もうほとんど忘れている。
 でも、私の一・二年、三・四年の『通知箋』からある程度推測できそうである。

 通知箋、私たちはこれを通信簿と呼んでいたが(今は何と呼んでいるのだろうか、通知表と言うのだろうか)、そんなものをもらっていたのはもう七十年も前のこと、とっくになくなっていると思っていた。ところが数年前、たまたま末弟が生家の古い納戸を整理していて発見してくれた。紙はもう灰色に変わり、汚れもあったりするが、十分に判読できる。
 なつかしかった。そういえばこんな通知箋だった。私の成績もたしかにこの程度だった(当時は優、良上、良、良下、可の五段階評価だったはずである)。よくよく見たら、これは一年から六年までの共通の通知箋であり、1枚で2年間使用するようになっていた。こんなことを口で言ってもわからないと思うので、実際にどんなものだっか、実物のコピーを掲載させてもらう。ただし、成績の評価印はみっともないので、また先生の名前や印は個人情報なので、消させてもらった。

 ということで、スキャナで取り込んでみた。ところが、先日故障で取り替えたばかりの新しいプリンターのスキャナでは全部をうまく取り込めなかった(「私の技術では」なのかもしれないが)。だから、何とか当時の通知箋とは、また授業科目はこんなものだとわかる程度にしかならなかった。
 それを了解していただき、まずは見ていただきたい。

 資料①の一・二年の通知箋は2枚折り・4頁で、1頁目は表紙、2頁は一・二年の学期ごとの成績表、3頁は生徒個々の身體検査票、4頁目は山形縣國民學校兒童發育表となっているが、このうち3頁、4頁はうまくスキャンできなかったので掲載を省略させてもらった。

   資料① 国民学校一、二年(1942~43年)の通知箋

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 下記の資料②の三・四年の通知箋の場合、用紙は一・二年のときの半分弱の大きさになっている。敗色濃くなったなかでの資源不足・紙不足がそうさせたのだろう。それをやはり2枚折りにして4頁としている。そして、1頁目は表紙、2・3頁を三・四年の成績表、4頁目を身體検査票としている。

   資料② 国民学校三、四年(1944~45年)の通知箋

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 この二種類の通知箋は、初等科の一~六年、高等科の一~二年すべて共通で使用されたものと推測できる。それは、高学年になってから習うはずの教科目、高等科でしか習わない教科目も記載されていることからわかる。
 それから、この通知箋は山形県もしくは山形市共通で印刷され、使用されたものではなかろうか。この内容と当時の印刷事情からしてそう考えられる。

 さて、授業科目(教科及び科目)であるが、それをこの通知箋の成績表に記載されている上から順次紹介させていただく。旧漢字で書かれているのでそのまま書かせてもらうが、判読いただけるだろう。
 なお、この授業科目はすべて一年生の一学期から習うわけではない。授業開始時期・対象学年は科目によって異なっている。また、高等科になってから学ぶもの(つまり初等科=小学校では習わないもの)、女子しかあるいは男子しか習わないものがある。それは私の通知箋に成績の評価の印が押されているかどうか、つまり評価欄が空欄であるかどうかでわかる。空欄であれば授業はなかったと考えられるからである。それを科目の後ろの( )のなかに書いてみた。

************************
  教科及び科目
    國民科   修身   (一年3学期より開始)
          國語
          國史   (五年より開始のはず?<後述>)
          地理   (五年より開始のはず?<後述>)
    理數科   算數
          理科   (一年3学期より開始)
    軆練科   軆操   (一年3学期より開始)
          武道   (五年より開始、男子のみ)
    藝能科   音樂   (一年3学期より開始)
          習字   (一年2学期より開始)
          圖畫   (  同  上   )
          工作   (  同  上   )
          裁縫   (五年より開始、女子のみ)
          家事   (  同  上?<後述> )
    實業科         (高等科だけの科目)
    加設科目  職業指導 (高等科だけの科目)
************************

 これを見てまずなるほどと思うのは、一年の一学期は国語と算数のみの授業だったということである。字の読み書きと数の基礎をまずしっかり教えるため、学校生活に慣れるまで授業時間を短くしているためにこの2科目にしぼったものと思われる。
 と思ったのだが、違うかもしれない。もしかして、修身、軆操等の科目も一学期から若干の時間教えてはいたが、最初は採点等が難しいので、通知箋に評価を記入しないことになっていただけなのかもしれない。いずれなのかはっきり記憶していない。

 ところで、國史と地理の(五年より開始)の後ろに(のはず?)をなぜつけたのかだが、私の記憶では國史と地理は五年から始まることになっていたはずだからである。実際に四年のときの教科書の記憶も、習った記憶もない。しかるに四年の通知箋では成績評価してある。しかも國史と地理の真ん中に評価印が押してある。なぜなのだろうか。
 そこで早速インターネットで検索してみた。すぐにわかった(ネット・パソコン、何と便利なものだろう)、やはり國史と地理は五年から習うものだった。他方で、初等科四年にはこの通知箋に記載されていない『郷土の観察』という科目があった。しかし通知箋の教科名欄に余裕がなく、しかも四年の一年間しか必要ないので、この科目名を通知箋に記載しなかったのだろう。ところがそうすると、その成績評価の印を捺すところがない。そこで、國史と地理の真ん中に押印した、ということなのではなかろうか。
 でも、私には『郷土の観察』という授業を受けた記憶がまったくない。後に述べるように、ちょうどこの授業を受けるべき四年生のときは疎開騒ぎ、校舎接収、教科書の墨塗り等々で、「郷土の観察」などやる余裕がなかったのではなかろうか。いや、若干でも授業はやったのかもしれない、そうでなかったら評価印を押すわけはない、ただ、あのどさくさで私の記憶がなくなってしまっただけなのかもしれない。

 それから、裁縫・家事は(五年より開始、女子のみ)と思っていてここにそう書いたが、それは私の思い込みであり、家内に聞くと家事は高等科になってからで、初等科は裁縫だけ五年から開始だったようである。

 今高等科の話が出たが、初等科の教科・科目は高等科でもすべて同じであり、これに「實業科」が加わり、農業・工業・商業・水産の中から一科目選択となっていたようである。また、三・四年の通知箋には「加設科目」として「職業指導」が記載されているが、これも高等科の科目である(この科目は一・二年の通知箋に記載されていないが、その理由はよくわからない)。
 なお、武道は男子のみと言ったが、高等科の女子生徒は授業で薙刀を習っていた。この薙刀が体操の授業の一部としてなされたのか、それとも高等科に入ってから女子に武道という授業科目があり、その一つとして薙刀をやっていたのか、私にはわからない。
 それから、この通知箋には書かれていないが、高等科では外国語などの必要な科目を設けることができたらしい。実際にやったのかどうか、これもわからない。

 この教科、科目を見て面白いと思う(もちろんこれは今だからであって当時は何とも思わなかったのだが)のは、「國民科」だ。これはナチスドイツの「国民科」をモデルにしたものとのことだが、國民学校令施行規則によると「國体ノ精華ヲ明ニシ國民精神ヲ涵養シ皇國ノ使命ヲ自覺セシムル」ための科目として位置づけられていた。他の教科もその目的は基本的に同じで、「理數科」は国運の進展に貢献し得るような理知的能力を高めるため、「軆練科」はお国のために献身奉公できるような心身に鍛えるため、「藝能科」は「國民的情操ヲ醇化」し、国民生活を充実する力を育成するためのものだった。
 そして教育勅語の言う「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」る次代の皇国民、少国民をつくることが国民学校の目的とされていた。

 それまでの尋常小学校がこの国民学校になった年の12月に太平洋戦争がはじまり、その翌年の四月に私は入学したわけであるが、教育の超国家主義的・侵略主義的色彩はますます強化され、アジア諸国を日本の支配のもとにおくのは正しいことであり、その正義に歯向かう外国人を殺戮するのは賞賛されるべきこと、そのために身命をささげることは使命であること等々をこのカリキュラムのもとに私たちは叩き込まれた。
 その一方で、その戦争のためにまともな授業の時間が少しずつ減らされ、さらには戦災や疎開で学校にいけない月日すら体験させられることになったのである。

(註)
 11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(1段落)、
 17年9月4日掲載・本稿第九部「☆多人数学級だった私たちの小学校」(最終段落・付記)参照



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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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