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戦後混乱期の農村(1)

  


            ☆農地改革と岩手の山村

 戦後、民主化政策の重要な柱の一つとして農地改革が展開され、農地のほとんどは耕作農家のものになった。それで農家は収量の半分にもなる高い小作料を払う必要がなくなった。戦前の貧困の根源の一つがこれでなくなった。小作農でなくなった農民は、地主に頭を下げて従属する必要はなくなり、人間としての尊厳を保持できるようにもなった。
 ただし、自作農だった私の生家はあまり大きな影響を受けなかった。三十歳半ばだった父が農地委員会(註)の自作農代表の委員に選挙されたことが影響といえば影響だった。農繁期でも委員会があると市役所に行かざるを得ず、祖父などは「この忙しいのに」と不満たらたらだったが、農閑期などは連日のように市役所に行っていた。会議が夜遅くまでかかると、父といっしょに事務局の市職員も家に来た。通勤列車がなくなるので、私の家に泊まっていくのである。
 委員会では父は小作農側に立ち、地主側とかなり激しくやりあったらしく、何人かの地主からは後々まで恨まれたようである。なお、先に触れた山形の農民詩人真壁仁さんも同じ農地委員で、父らといっしょに活躍している。

 農地改革が日本農業に大きな影響を及ぼしたことをとくに実感したのは、岩手県葛巻町の調査に行ったときであった。
 六〇年代後半に北上山系開発調査の一環で、葛巻町を訪ねた。山間高冷地で稲作は無理だし、畑は平坦地が少なく、区画は零細で分散している。そうなると今後の町の農業の方向は酪農の発展ということになろう。ということで、酪農家を訪ねてそれを確かめる調査をしようと、役場の人に案内してもらった。
 調査に入った農家の方は当時としては大規模経営の部類に入る五~六頭の乳牛を飼育していた。聞いてみると畑の経営面積は五十㌃にも満たず、自給用程度でしかない。これで酪農などできるわけはないが、裏山の約五㌶を採草放牧地として利用していた。かなりの急傾斜で、よく草地造成したと感心するほどであったが、きれいに利用されており、景観としても見事だった。この裏山があったから酪農が可能となったのであるが、詳しく話を聞いてみると、この土地はそもそもは山林で、畑とともに地主から借りていたという。山林は同じ地主から借りた馬を育てるための草刈り場や生活資材用として利用した。馬は、畑作に不可欠の堆肥取りとさまざまなものの運搬のために、借りるのである。馬の小作料は生まれた子馬で払う。それを馬小作ということは他の地域でもあったので聞いてはいたが、畑の小作料は労働で支払ったという。一般的には生産物で払うのだが、ここは違う。このとき初めて気が付いた。要するにこの農家はかつて「名子(なご)」だったのではないかと。聞いてみたら農家の方もそうだったという。
 名子とはそもそも中世に荘園領主や名主に隷属した下層農民のことであるが、このきわめて前近代的な名子制度が北上山地に残っているということを話には聞いていた。土地や馬等のすべての生産手段、それに加えて住宅までも地主から借り、その代償として地主の命じる労役に従い、あるいは現物の小作料を払い、生産・生活の全領域にわたって世襲的に地主(「旦那様」あるいは「地頭」と呼ばれていた)に隷属させられている名子がいるということを聞いていたのだが、直接その名子だった方に話が聞けたのはこれが初めてだった。
 当然のことながら、借りていた畑や住宅は農地改革で自分のものとなり、かつてのような従属関係はなくなっていた。
 しかし疑問となったのはこの急傾斜の山林がどうして解放されたのかである。山林は農地改革の対象とはならなかったからである。地主側もそれを主張したらしい。そのとき役場の革新的な職員がこれは農用地であると主張した。両者の間でかなり激しいやりとりがあり、闘争もあったというが、ともかく農用地として解放させた。
 この成果が酪農経営の成立だったのである。もちろんあの急傾斜での作業はかなり大変だし、これ以上の規模拡大は無理である。しかし、当時は畜産振興、山村振興のかけ声のもとに公共放牧場の設置や草地造成が進められており、ここを利用すればさらに規模拡大できるので、農家の方は元気いっぱいであった。
 その後この農家の方がどうなったかはわからない。他の山間地の農村のように畜産物輸入の拡大のなかで酪農をやめたり、離農したりしているかもしれない。しかし葛巻町には優れた酪農家がまだかなりいる。そして地域を維持している。まさにこれは農地改革の成果なのではないだろうか。もしもあの解放がなければ、農業の衰退、過疎化はさらに激しく進行したのではなかろうか。

 葛巻出身の若手農経研究者のNK君にこの話をしたら、それは町村合併前の旧江刈村のことではないかという。そしてその当時村の農地改革や民主化の先頭に立った役場職員、後の村長が書いた本を二冊さがしてきてくれた。そこには戦後すぐの山村の農民の姿がなまなましく書かれていた。そこでの貧しい暮らし、変革の過程、そしてその村長が裏切られていく過程、NK君はかなりショックだったようである。さらに、そこに描かれた農民のみにくい姿は真山青果の『南小泉村』どころではなかった。この本をいっしょに読んだ他地方出身の若手農経研究者ST君とWMさんはともに絶句していた。
 農地改革から二十年たったころにここを私は訪ねたわけだが、そんな姿は想像できないくらいに村は変わっていた。私がお会いした酪農家も明るく、希望に燃えていた。このことは、貧困が農民を人間をいかに卑しくするものであるか、農地改革がいかに農村を明るく変えたかを示すものだった。

 いま名子の話が出たが、ついでに「焼き子」についても記しておきたい。
 大学三年(一九五六年)のとき、当時研究室の助手をしていたMIさんたちに連れられて炭焼きの調査に行った。これは私の初めての農村調査だったが、調査地は岩手県新里村(現・宮古市)で、鍾乳洞の龍泉洞で有名な岩泉町の隣りにある。盛岡から山田線に乗り、終点の宮古に着く手前の茂市駅から岩泉線に乗り換える。当時は仙台から行くのに一日がかりだったが、泊まりは茂市駅前の旅館だったと記憶している。翌日、また列車に乗り、小さな駅(名前を忘れてしまった)で降り、地図をたよりに歩き始めた。約一時間、このまま進んでも家などないのではないかと思うような細い山道を登ってようやく調査農家をみつけた。本当に山の中、雑木林に囲まれた一軒家、いや、家と言うよりも掘っ立て小屋だった。といっても柱や壁はない。萱でふいた三角形の屋根が地べたに直接接している。なかは三~四畳の広さだろうか、地べたに直接草を分厚く敷き、その上に茣蓙(ござ)を敷いてある。そこに若夫婦二人と幼い子どもが住んでいた。聞いて見ると農地は持っていない。つまり農家ではない。炭焼きだけで暮らしている。しかし焼く炭の原料となる林野も持っていない。山林地主や町の薪炭商などの山林の雑木を焼くのだという。たまたま調査対象者は町の薪炭商の木を焼いていた。といってもその山林は薪炭商の所有ではない。山林地主からその山の何百㌶かの立木を伐って炭にする権利を買っているだけである。こうした薪炭商は親請けと呼ばれていたようだが、親請けは木を切って炭に焼くことを調査対象者のような人に下請けさせる。下請けした彼らは、その山林のところに掘っ立て小屋をつくり、泊まり込んで周辺の木を伐り、昼夜焼き続ける。そしてできあがった炭を親請けに届ける。その報酬として米麦や味噌などの現物に若干の現金を受け取る。何ヶ月あるいは何年かしてすべて伐り終わると、親請けから指示を受けてまた別の山林に行き、小屋を建て、炭を焼く。こうして山々を移動するのであるから、原始時代の移動農業の林業版といえよう。こうした人たちを「焼き子」と言ったようである。こうした山の中の移動生活で子どもの学校はどうするのか、これは聞き逃してしまった。
 岩手県は、木炭生産日本一を誇ったのであるが、それを支えたものの中に親請けや山林地主に搾取され、まともな家ももてない焼き子のような人たちもいたのである。
 こういう人たちは当然農地改革の恩恵は受けなかった。山林は解放されなかったからである。だから焼き子で生きていくより他なかった。当時は地域での働き口はそれくらいしかなかったし、都市にも働き口はなかったからである。

 恩師のHS教授からこんな話を聞いたことがある。戦後二、三年すぎた頃、岐阜県各務原の生家にいたら、かつての小作農がある日訪ねてきて、自分も税金を払うようになったと得意そうに話したと。何でそんなことを自慢しにくるのか、損をしたとぼやきに来たのならまだわかるが、こんな疑問が出るかもしれない。しかしその農家にとってはこれはうれしいことだった。他の人に自慢したくてたまらなかったのだ。税金を払う身分になるのは以前からの望みだったからである。その昔は税金を払うことは選挙権をもてる身分と結びついていた。また、税金を払えるだけの所得を得ていることは地域での発言権と結びついた。税金も払っていないのに何を言うかと言われたら返す言葉が当時はなかった。もちろん新憲法の下では税金の有無にかかわらず男女ともに選挙権は与えられたし、むらの民主化もさまざまな形で進められていた。もう少しさかのぼれば昭和初期に男だけだけれども普通選挙権は与えられている。しかし、やはり税金を納めないと言うのは自分が平等に発言できないと言う重しのようなものであった。それがともかく税金を払える「身分」になり、一人前になったのである。
 このように、政治的な平等などを保証する経済的平等(もちろん完全な平等ではなかったが)を、農地改革を始めとする農業保護政策の展開、民主化政策はもたらした。そしてこの結果としての農業における経済的蓄積が、戦後の農業技術を発展させる力、日本経済を復興・発展させる力となったのだった。

(註)農地改革を推進する中核機関として市町村と都道府県に設置された組織。市町村の委員は小作5、自作2、地主3の割合で公選され、農地の買収、売り渡し等の計画を策定する重要な役割を果たした。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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