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太平洋戦争開戦と私たちの授業



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(10)

            ☆太平洋戦争開戦と私たちの授業

 ラジオから軍艦マーチがしょっちゅう流れ、戦闘の勝利が伝えられていた1942(昭17)年の春、私は国民学校に入学した。学校は戦争一色だった。それでも私たち一年生にはあまり関係がなかった。授業は正常に行われ、家に帰れば近所の子どもたちと群れ遊んでいた(戦争ごっこが多くなったり、「一銭こ屋=駄菓子屋」で売っているものが少なくなって戦争に関連するおもちゃが増えたりしていたが)。
 二年生になってからだったと思う、B29とかグラマンとかの米軍機や空襲に関する言葉が新聞、ラジオから連日流れるようになるなかで、学校では敵機襲来に備えるという防空演習(註1)が始まり、それに授業時間が割かれる回数が増えてきた。
 まず、教室からの避難訓練である。警戒警報が出たという想定のもとに、全校生徒が授業を中断し、廊下に出て各クラス(そのころは当然敵国語のクラスなどと言わず「組」とか「学級」と言ったのだが)それぞれ4列縦隊に整列し、混乱しないようにそれぞれ三つの階段を利用して3階から順次グランドに集結するのである(低学年の教室は低い階なので早く外に出られることになる)。その後どこに避難することになっていたのか、自宅に帰ることになっていたのか、よく覚えていない。全員集まったところで先生から講評があり、それからまた教室に帰って授業再開だったからである。でも、たしか地域単位に上級生が下級生を引き連れていっしょに家に帰るようになっていたような気がする(一度だけそうして上級生に引き連れられて帰った記憶がある、こんな程度では空襲から身を守ることなどできるわけはないのだか。当時山形ではまだ防空壕も掘られていなかったと記憶している)。
 それから爆撃を受けたときの姿勢の訓練である。爆風で飛ばされたり、耳の鼓膜が破れたり、目玉が飛び出したりしないように、地面に伏せて両手の親指で両耳の穴をそれぞれふさぎ、残りの4本の指で両目を覆うのである。この練習を、教室のなかでは床に、校庭では地べたにひれ伏して、何度繰り返させられただろうか。おかげさまでそれは今でも身についている。幸いなことに私は実際の空襲でその訓練を実践する機会はなかった(註2)が、この姿勢は焼夷弾や機銃掃射にはあまり役に立たなかったとのことである(註3)。
 また、毎週一回、朝礼の終わった後の一時間、全校の生徒が講堂の床に正座し、同じく壇上に正座した先生が正面にぶらさげられた大きなアジアの地図を指し棒でさしながら、陸軍は今度ここを占領した、今太平洋艦隊はここに向かっている等々、今週の戦果、戦況を解説するのを聞かされた。当然のことながらわが軍は勝った勝ったの話ばかり、これでも授業がつぶされた。それでも、新聞・ラジオのニュースとあわせてそれを聞く中で、アジア諸国の地名についてはかなり詳しくなった。この点では地理の勉強になったかもしれない。
 それから慰問袋づくりで授業が休みになることもあった(註4)。
 そんなことで、授業に戦争の影響が出てきてはいたが、当時はまだ戦闘自体は遠い国での話だった。

 1944(昭19)年、小学三年になると学校の雰囲気は大きく変わってきた。一方では東京をはじめ日本の各地への空襲が激しくなり、他方で食料をはじめとする物資不足が深刻化し、それが学校教育に影響を及ぼしてくるのである(註5)。
 まず、三年生の教科書が二年のときと違ってピカピカの新しい教科書ではなくなった。兄や姉がいればそのお下がりをもらい、あるいは隣近所の上級生から譲ってもらうようにと学校から指示が出たからである。紙不足が深刻化してきたのである。それで私の二年の教科書はすぐ下の妹に譲った。しかし私は新しい教科書だった(と記憶している)、兄姉がおらず、近所の上級生はその弟妹に譲っていたからである。
 また、ノートや鉛筆、クレヨンなどの文房具も手に入りにくくなってきた。ノートは隅から隅まで、鉛筆は本当にチビるまで、習字の半紙は練習で真っ黒になるまで使ったものだった。こんな文房具不足のなかで私たちがきちんと勉強ができたのか、先生が教えることができたのか、よくわからない。私たちはそんなものなのだろうと思って何も感じなかったような気がするのだが。
 それでも手旗信号の紅白の旗は手に入った。戦争関連の品だったからだろうか、全員新しいのを持って校庭で練習した。暗号で会話ができる、遠くにいる人と通信できる、かっこいい、そんなことからこの授業は前から期待していたもの、うれしかった。もうイロハニくらいしか覚えていないが。

 こうした物資不足とくに軍事物資不足・食料不足に対応して命じられたのが勤労奉仕だった。戦闘機の潤滑油にするために空地や道端で「ヒマ」を栽培して実を学校に持ってくること、食糧増産のために大豆を植えることが宿題となり、軍隊の衣服用として雑草のヌカボをを刈り取って持ってくることが夏休みの宿題となった(註6)。勉強の宿題よりこうした宿題が多くなったのである。また、授業を一日休んで開墾の勤労奉仕にも駆り出された(あまり役に立たなかったと思うのだが)。
 さらに、グランドのブランコや屋上の手すりをはじめとする金属製品は軍事用として供出させられた。三年のはじめころは少年航空兵になるためにと毎日放課後一人で鉄棒の練習をした(1週間か10日くらいしか続かなかったのだが)記憶があるから、その秋ころではなかろうか。当然のことながら金属を使用した用具の欠如は体操をはじめとする授業に影響したはずなのだが、どうだったのか、あまり記憶がない。
 そうしたところに、東京からの疎開学童受け入れが始まった。集団疎開学童五年・六年それぞれ一クラスの受け入れ(教室を貸しているというだけて私たちとは直接関係がなかったが)、縁故疎開で何人か私のクラスにも転校生を迎え、クラスの人数はかなり増えた。そのなかの何人かとは口をきくようになり、まともな東京弁を同じ子どもの口からすぐ近くで聞けるようになったのだが、本当の友だちになるような状況にはなかった。学校中何かざわざわした雰囲気だったからである。

 その雰囲気を強めたのが、通学のときのスタイルの変化だった。防空頭巾と救急袋を肩に下げて通学しなければならなくなったのである。
 戦時中の写真などでごらんになっておられるだろうし、最近の防災頭巾と似ているのでおわかりかと思うが、防空頭巾とは空襲などのときに飛んで来た物や落ちてくる物、火焔などから頭部を保護するために頭にかぶって肩や首まですっぽりと覆うようにつくられた綿入れの頭巾である。また、救急袋とはけがをしたときのための包帯や薬、非常食としての干し飯や炒り豆などを入れておく布製の袋である。
 これは子どもたちばかりでなく、家族も全員持つことを義務付けられた。それで各家庭で古着などを裁断し、頭巾には綿を詰め込んでつくつたのだが、形状は大小があるだけですべて同じ、ただし色や模様はさまざまだった(といっても白など目立つ色は敵機に見つかって爆撃されるからだめだったが)。
 なお、救急袋の表面には氏名・学校・学年・血液型を毛筆で書いた小さな四角の白い布の名札が張り付けてあった。何かあったときに誰なのかわかるように、輸血等がすぐできるようにとのことだった。
 この防空頭巾と救急袋それぞれにつけられている吊るし紐を胸と背中で斜め十字になるようにそれぞれ左右の肩に掛けて学校に通い、教室では椅子の片側に防空頭巾、もう片側に救急袋を下げておく。そして警戒警報がなったらすぐに防空頭巾をかぶり、救急袋を肩にかけて避難するのである。なお、通学のときだけではなく遠出をする時には必ず携帯して歩き、また夜はすぐに身に着けられるように枕元に置いて寝るようにしたものだった。 
 夏休みが終わったころではなかったろうか。学校の屋上に木製の高いサイレン塔が新しくつくられ、そこから警戒警報・空襲警報を知らせるサイレンがしょっちゅう高々と鳴るようになった。それでもまだ日中は鳴らず、それで授業が中断されるということはなかった。
 しかし、東京への空襲も本格化しはじめており、本土決戦などという言葉も出始め、中学生などは予科練へ、国民学校を卒業した者は少年航空兵や戦車兵になる道も示され、私などもお国のため天皇陛下の御為に死ぬ道筋を考えるようになっていた。
 秋過ぎてからではなかったろうか、ラジオは警戒警報をしょっちゅう流し始め、夜はサイレンが鳴り響き、山形上空を飛行する米軍機の音を初めて聞き、学校の行き帰りは隣組単位=少年団第6分団地域班の単位で上級生から下級生までいっしょに登下校することになった。といっても、上級生はときどき勤労動員で学校に不在、いても講堂や運動場での銃剣術や軍事教練、校内は強い緊迫感で、何か落ち着かない雰囲気だった。
 また、三年になってから各家で防空壕が掘られたが、まだ学校では掘られていなかったと記憶している。
 それでも、時間数は若干減りながらも、授業はたんたんと進められた。クレヨンや画用紙などなくなるなかで図画の授業などどうしたのかなど、まったく記憶はないが。

 ここでふと思い出したことがある。
 さきほど述べたように、私たちの学校は集団疎開してきた東京の小学生を受け入れたのだが、交流を深めるためだったと思う、全校生徒集まっての歓迎会のようなものを講堂で開いたことがあった。どんな内容だったか忘れてしまったが、そのとき集団疎開の六年生のクラスの子ども全員が壇上で歌った歌、これだけは覚えている。
 初めて聞く歌だったが、その歌詞の最後の2行、「いざ来いニミッツ」からの部分はあまりにも衝撃的てであり、調子がよく、しかも1番から3番の歌詞の最後で繰り返し歌われることもあって、メロディーまで含めて今でも覚えている。
   「決戦かがやく 亜細亜の曙
   命惜しまぬ 若櫻
   いま咲き競う フィリッピン
   いざ来いニミッツ マッカーサー
   出て来りゃ地獄へ 逆落とし」(註7)
 アメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ(ニミッツ提督と呼ばれていて当時はマッカーサーよりも有名だったように覚えている)と南西太平洋方面連合軍最高司令官のマッカーサー(戦後、連合国軍最高司令官として日本占領軍のトップとして君臨した) を地獄に落としてやるという何とも「勇ましい」歌、それを東京の子どもたちは歌っているのに、なぜ私たちは知らなかったのだろうか。授業ばかりでなく、こうした歌まで私たちは東京の子どもたちより遅れる。ともかく東京疎開の子どもたちは物知りだった。情報が早かった。なぜだろう。このときも不思議に思ったものだった。

 後でわかったことだが、この歌の発表と同時に「いざ来いニミッツ マッカーサー、出てくりゃ地獄へさか落し」と書いた大きな長い垂れ幕が東京の丸ビルや有楽町駅の近くのビルの屋上や屋根に吊るされた(註8)のだそうである。ちょうどその時期は彼らが山形に疎開する直前だったが、東京に住む彼らにはそうした情報は即座に入り、しかも刺激的な言葉で調子のいい歌だったので、流行に敏感な都会っ子、すぐにみんなの間で広まった。一方、当時の情報伝播力からして田舎の私たちに届くのが遅れるし、流行への反応も鈍い。それで私たちは知らなかったのだろう、と今の私は理解している。

 その年度の学期末(45年3月)、今言った集団疎開学童のうちの六年生全員が東京に帰ることになった(学童の強制的な疎開は六年までだった)。夜汽車に乗る彼らを見送るために彼らの宿舎だった私の菩提寺に行った。1年ぶりで帰る彼らはうれしそうだった。しかし、その夜がいわゆる東京大空襲だった。彼らの学校のある地域もその爆撃を受けた。それを知ったのはもちろん後だったが、あのどんよりと曇った暗い夜がいまだに忘れられない(註9)。

(註)
1.11年2月11日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」(1段落)参照
2.本稿の下記掲載記事で述べたように、空襲・機銃掃射には遭っているが、桑畑に隠れていただけだった。
  11年2月11日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」(5段落)
3.最近の北朝鮮のミサイル発射に対する避難警報などの大騒ぎを見ると、あのころ各家庭まで強要され、しかもあまり役に立たなかった「防空演習」を思い出し、こうやって危機感をあおってまた戦争をする国に向かうのかと思うとものすごくいやな気持になる。
4.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(2~3段落)参照
5.11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真・石盤」(8段落)参照
6.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(4段落)参照
7.『比島決戦の歌』、作詞:西條八十、作曲:古関裕而、1944年3月
8.plaza.rakuten.co.jp/daigaku/diary/200409030000/参照
9.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(5段落)参照

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酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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