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私たちの国民学校の校庭と体操



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(12)

           ☆私たちの国民学校の校庭と体操

 私の通った国民学校のほぼ長方形の敷地の周囲に太い桜の木が植えられていた。1934(昭9)年、おりしも軍国主義体制の強まったころの開校だったからだろう。パッと咲いてパッと散る桜の花のようにお国のため、天皇陛下の御為に潔く散る(死ぬ)ことこそが日本国民の務め、その意識を生徒たちに浸透させるために桜を植樹しよう、こういうことになったのだろう。そんな意図はもちろん桜は知らない、四月中下旬に満開となる桜並木の花は本当にきれいで、生徒をまた周囲の人々を楽しませてくれた。とくに満開の時期は新学期が始まったばかり、何か今年1年いいことありそうな予感を与えてくれたものだった。

 きれいといえば、国道から学校の正面玄関までの10㍍くらいの坂道もそうだった。コンクリート舗装されたゆるやかな坂道の両脇に敷砂利と花壇があって夏には色とりどりのマツバボタン(今のような八重ではなくて一重、楚々としてきれいだった)が見事に咲き誇り、正面を見れば洋風の玄関の上に3階建て建物が覆い被さらんばかりに高くそびえていた。
 その玄関を入ると、裏玄関口から正面に広々とした校庭が見えた。

  「『校庭』に集合」、先生たちはなぜか運動場とは呼ばず校庭と言っていたが、この広さに東京から疎開してきた子どもたちは驚いていた。なぜそんなことに驚くのか私は不思議だった。市内の他の小学校より若干広いと感じられる程度なので校庭とはこんなものだろうと思っていたからである。
 後に東京の小学校のグランドの狭さとコンクリート敷きだったのを見て、こんなので運動会ができるのかと逆に驚いたものだった。人口密度の高い東京のこと、狭いのはやむを得ないと納得できたが、コンクリート地面はよくわからなかった。裸足で歩くときは土よりも歩きやすいだろうが、徒競走などで走って転んだりしたら固いコンクリートではひどい怪我になるのではないか、擦り傷が痛いだろうなどと考えたからである。

 この広い校庭の前方に国旗掲揚台と二宮金次郎の銅像があり、さらに正面に朝礼台(私たちは「壇」とだけ呼んでいたような気がする)があった。朝礼台は大きく、高く、低学年の生徒などは手も届かなかった。
 朝礼や式典のときにはその朝礼台の前に全校生徒が集められ、学年・学級ごとに整列させられる。開会直後、上級生4~5人の手で日の丸の旗が掲揚台に掲げられるのを直立不動で注目する。それから宮城遥拝(註1)、続いて校長の訓示である。校長が朝礼台に上がると、先生の一人が大きな声で生徒に「気を付け」、「礼」の号令をかける。校長が礼を返すと、また号令がかかる「直れ」、「休め」と。それから校長がその朝礼の目的に合わせた話をし、終わるとまた「気を付け」、「礼」、「休め」となる。その後に、他の先生から話があったり、全校体操があったりするのだが、夏の日などはちょうど東の陽が坊主頭の後ろにあたり、長時間立っていると暑くて具合悪くなり、本当に困ったものだった(当時は今のような体操帽子などなかった、だからみんな坊主頭、おかっぱ頭だった)。私の家内などは朝礼の時に気分が悪くなって倒れ、貧血ということで家に帰されたことが何度かあったとのことである。

 校庭には一周200㍍のトラックがあった。
 そのトラックの前方両側に屋外運動施設や遊具があった。まず走り幅跳びの助走路のついた大きな砂場があり、大小の鉄棒、竹の登り棒、ブランコ、シーソーなどがあった。相撲場もあった、と書いたらとたんに自信がなくなってきた、確か4本柱に屋根がかかっていたと思うのだが本当にあったんだっけか、記憶違いではないかと(この頃ときどきこんなことがある、年をとるというのは困ったのだ)。プールがなかったことは間違いない。市内の小学校七つのうちあったのは町中心部の二つのみ、ないのが当たり前の時代だったので、そのことをとくに何とも思わなかった。

 いうまでもなく、体操の授業のときにこの運動場が使われる。外に出て体を動かす体操の時間、教室にじっと座らされて勉強しているよりは楽しいはずである。しかし楽しかった、面白かったという記憶はまったくない。

 体操の時間になると、雪や雨の日以外、みんなグランドに飛び出す。裸足である。運動靴=ズックなど戦中の物資不足でなかなか手に入らなかったこともあろうが、裸足は足の皮を丈夫にするためにも必要だと言われており、私たちはそういうものなのだと何も不思議に感じなかった。そして整列して先生を待つ。
 先生が来ると級長による番号、員数確認といういつもの儀式(註2)が行われ、それから授業となる。まず最初は準備体操だ。徒手体操と言っていたと思うが、いわゆるラジオ体操である。両手を前に、それから左右にあげ、隣の人との間隔をとる。それが終わったところで先生の掛け声がかかる、「両手を高く上げておろす」(だったと思う)、そして「イチニーサンシィ、ゴーロクシチハチ、ニーニーサンシィ、ゴーロクシチハチ」と続く、それに合わせてみんな一斉に手足を動かす。
 この徒手体操は好きではなかった、というより嫌いだった。とくに首を振ったり、回したりする運動ではめまいがして吐きそうになったことが何回もあったからである。
 精神を鍛えるためにと全員上半身裸で体操をさせられるのもいやだった。まだ寒い春、寒くなってきた秋がとくにそうだったが、二年の初夏も本当にいやだつた。背中全面に発疹が出たために通っていた医者がくれた薬を塗っていたからである。ぬるぬるしてすごくいやな臭いのする薬だったので、裸になるとまわりの友だちから臭いといやがられたのである。1ヶ月弱で夏休みになったこと、その休みの間に湿疹が直って薬を塗らなくともよくなったことから、いじめにまでいかなかったのは幸いしたが。
 一年生のときはこの体操と正しい姿勢、整列・行進の仕方を覚えるのが中心だった。「気を付け」「前へならえ」「右へならえ」「番号」「礼」、「回れ右」「右向け右」「左向け左」「休め」、「前へ進め」「回れ右前へ進め」「全隊止まれ」等々、徹底して教え込まれた。ちょっとでも間違ったり、列を乱したり、みんなの足がそろわなかったり、しゃべったりすると厳しく注意され、直立不動のときには「背筋を伸ばせ」「身体を揺らすな」「手をきちんと両脇におけ」、行進のときには「足をもっと高く上げて」「手をきちんと振って」等々口うるさく言われ、ちょっとでもみんなとそろわないと怒られた。
 それから覚えているのが乾布摩擦と冷水摩擦だ。これは教室でも練習させられたことがあるが、上半身裸になり、先生の号令に合わせて乾いた(あるいは冷水で濡らして絞った)手拭いで順次身体の各所をごしごしこするのである(註3)。これで皮膚を鍛える、寒さ暑さに耐えられる身体をつくる、精神力を鍛えるということだった。といっても冷水摩擦は真冬にはしなかったのではなかったろうか。冬の乾布摩擦についていうと、確かにこすっているうち身体は少し温まったような気がする。しかしそれは皮膚の表面だけ、こすっている間あるいはこすった直後だけで、現に私はそれで風邪をひいて寝込み、学校を休んだことがある。いずれにせよこれもとくに楽しいというものではなかった。
 後は、グランドを何周か走らされたり、小さい鉄棒で逆上がりを、大きい鉄棒にぶら下がって懸垂をさせられた記憶があるだけである。
 なお、授業の終わりには入り口にある足洗い場の水道の水でほこりや泥を落として校舎内に入った。
 このように、当時の体操は、身体を鍛錬し精神を練磨して皇国民の使命を完遂する上で必要な基礎的能力を培うことにあったもので、面白くないのは当然だった。でも、軍国少年だった私は面白くないのを我慢してお国のために役立つ心身をつくるのだとがんばろうとした。でも当時の私の体質と体力ではいい成績はとれなかった。

 でも、この校庭でやられる一年の運動会はにぎやかで楽しかった。ちょうど農繁期で両親は見に来られないが、祖母が見に来てくれた。徒競走のとき声援してくれる近所の人を振り返って探しているうちに遅れ、表彰される3位以内に入れなかったこと、紅白の玉入れに夢中になったことくらいしか覚えていないが。
 しかし、二、三年の運動会は楽しかったという記憶はない。少年団旗と音楽隊を先頭に行進したのを見てかっこいいと思ったこと、見に来てくれる父兄が少なかったこと、これまでの競技のいくつかがなくなって上級生は手榴弾の形をした重いものを遠くに投げる投擲(と言ったと思う)競技をしていたことしか覚えていない。
 紅白の玉入れと書いて思い出したが、さきほど述べたように紅白の体育帽など当時なく、運動会のときには全員紅白の鉢巻きだった。そして私たちは体育帽を一度もかぶることなく学校生活を終わったのだが、他の地域ではどうだったのだろうか。

 真冬、大雪の降った次の日、五、六年生が全員でグランドの雪を雪だるまにして校庭の一か所に集め、それを高く積み上げて大きな雪の山=滑り台(私たちはそれを「坂」と呼んでいた)をつくる。体操の時間や放課後に生徒たちが滑ったり上ったりそれでいろいろな遊びをする。これは楽しかった。家からそりや竹スキーをもってきて滑って遊んだりもした。寒い中つくらされた上級生たちは大変だったろうと同情はしたが。

 このように、校庭=運動場はあまり楽しいところではなかったが、放課後や日曜は私たち学校の近くに住む子どもたちの楽しい楽しい遊び場となった。当時は遊園地や公園など整備されていないころ、学校のブランコやシーソー、鉄棒、砂場等々はいい遊び場、遊び道具だったのである。さきほど述べた朝礼台も遊び道具となった。低学年の私たちの背が届かないほど高い壇=朝礼台からみんなでかわるがわる飛び降りる冒険をして遊んだのである。
 先生方はそれに何も言わなかった。あまり晩くまで遊んでいるとそろそろ帰るよう注意される程度だった。

  しかし、三年の半ばすぎたころからではなかったろうか、ブランコ等々鉄製の遊具はすべてなくなってしまった。前回述べた屋上の手すり・金網と同様、金属類回収令で供出させられてしまったのである。
 校庭は本当に寂しい姿になった。もはや遊び場ではなくなった。

 このように戦争の激化で少しずつ学校の施設は変わっていったが、まったく変わらず大事にされたのは敷地の北西に建てられていた奉安殿(註1)だった。
 それと同じく変わらなかったのは構内全体に鳴り響く太鼓の音だった。正面玄関のところにある中央階段の2階踊り場に大きな和太鼓がおいてあり、授業の開始・終了時間になると男の先生がグランドも含む校内全部に聞こえるように、
  「ドーン ドーン ドンドンドンドン ドーン」
と思い切って叩くのである。この音により校内はシーンとなり、あるいはがやがやとなる、太鼓はまさに指揮者だった。

 この太鼓の音は私たちが四年になると聞かれなくなった。私たちみんな疎開でいなくなり、さらに敗戦で学校全部が米軍に接収されてしまったからである。2年後またこの校舎に戻ってきたときには太鼓はなくなっており、校舎はさらに大きく変えられていた。
 それについてはまた後で述べることにして、次からは前々回の続き、四年になってから以降の私たちの授業の話をさせてもらおう。

(註)
1.12年8月20日掲載・本稿第四部「☆宮城遙拝・勅語奉読」(1段落)参照
2.12年8月27日掲載・本稿第四部「☆整列、行進、神社参拝」(1段落)参照
3.13年9月23日掲載・本稿第六部「☆戦争と子どもたち」(1段落)参照
  なお、冷水摩擦は湿布摩擦とも言われたとのことである。

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酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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