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疎開・敗戦・占領下の私たちの授業



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(13)

           ☆疎開・敗戦・占領下の私たちの授業

 私たち山形市内の国民学校初等科の生徒にも疎開せよとの命令がきた。1945(昭20)年、私が四年生になったばかりのときである。東京をはじめとする都市に対する米軍機の爆撃が激しくなっており、そのうち県庁・陸軍連隊所在地である山形市も空襲でやられるだろうということからなのだろう。
 それで私は縁故疎開で弟妹といっしょに母の実家に疎開することになった。しかし、こうした疎開先がない生徒たちもいる。彼らは、学校でまとまって山形市中心部の北北西約10㌔にある明治村(現・山形市)国民学校に集団疎開することになった(註1)。同時に、それで空いた教室は軍需工場として使われることになった。
 こうした混乱のなかで四年の新学期を迎えたが、最初は今まで通り授業がなされた。集団疎開の準備が整わなかったからのようである。それで私もこれまでと同じく学校に通った。ただし、軍需工場になる教室は使えないので二部授業となった。でもおかしなものでそれがどんな授業だったか、よく覚えていない。期間が短かったためだろうか、それともその後の激動がその記憶を消したのだろうか。
 そのうち集団疎開組が疎開していなくなった。同時に学校は閉鎖され、授業はなくなった。そのころから学校のグランドを掘って防空壕をつくり始めたようだが、それは軍需工場の工員のためのもの、しかも学校は立ち入り禁止になったので、実際には見ていない。

 こうして学校は閉鎖されたが、私はすぐに疎開しなかった。農作業に加えて自宅の防空壕掘り、空襲にそなえての家具等の整理等々で家族みんな忙しかったからだろう。ようやく一段落したころ、母の実家に預かってもらう荷物とともに牛車に乗って疎開先の母の実家に向かった(註1)。そして山寺小学校の分教場で勉強を再開することになるのだが、それまでの半月間(だったと思う)、まったく授業を受けなかったことになる。まさに勉強どころではなかったのである。
 それでも、前に述べたように、疎開先の分教場の授業が遅れていたので、何とかついていくことができた。特別ていねいに先生が教えているとは思わないのだが、授業の進みが遅いのが不思議だった。また、国語の教科書を全員で声を揃えて読むときなど何とも表現できない独特の奇妙な抑揚(「節回し」と言った方がいいような)があるのにどうしてもついていけず、困ったものだった(註2)。そうしたことに少しずつ慣れて落ち着いたころ、突然の下痢と発熱で一週間学校を休み、復帰して同級生の名前と顔が一致するようになったころはもう夏休みだった。
 こんな状況だから夏休みの宿題などもちろんなし、のんびりしていたところに激しい空襲があり、それを避けるべく生家に戻っていたときに敗戦のラジオ放送、八月末にまた分教場に戻って別れの挨拶、そしてもとの学校に復帰することになった(註3)。

 ところで、この一学期の成績(通知箋)は疎開先の学校ではなく山形の国民学校でつけている。これがどうしてなのかわからない。
 それから、つい1ヶ月前掲載の本稿記事で紹介した四年生の通知箋(註4)の最後に転校のさいの証明書と思われる「在学証明書」が印刷されている(この通知箋は前に述べたように前年度に作成されたものだが、なぜこんな証明書を付記していたのか、疎開による転校を予測してのことだったのか、よくわからない)が、学校側が記入したその日付はこうなっている。

   「昭和二十年七月十五日迄本校初等科第四學年ニ在學セシコトヲ證明ス
            昭和二十年七月十五日   山形市〇〇國民學校長 □□△△」

  しかしこの時期「七月十五日」にはすでに私は疎開している。
 ということから考えると、1学期の途中疎開だったので、山形の学校が責任をもって1学期の私の成績を評価してこの時期に山寺の国民学校に送ったこと、結局それが敗戦・疎開中止で不要になってまた山形の学校に送り返されてきたことを示しているのではなかろうか。

 このように、私たちは三年生の1年間と四年生の1学期の間、戦争に振り回され、敗戦直前などは勉強どころではなかった。もちろん、空襲をまともに受けたり、戦場になったりした地域の子どもたちとは比較にならないが。
 敗戦でどうなるかみんな不安だったが、ともかく学校は再開された。八月末だと思うのだが、ともかく9月5日に私に級長を命ずる文書(これも「古文書」の部類になりつつあるので末尾にコピーしておくが、非常時なのにこんなことだけはきちんとしていたものである。たまたま用紙に在庫があったからできたのだろうが、きっとこれが最後の級長命令書となったのではなかろうか)が出されているので、そのころはともかく学校に通っていたことになる。

 ところで、そのとき教科書のどこから再開しただろう。疎開先の小学校はみんなぱらばら、習い終わったところもばらばらのはずだからだ(今になって不思議に思うのだが)。もしかして集団疎開した級友たちにあわせたかもしれない、彼らは多数派だったからだ。
 時間割はどうしたのかだが、疎開前に使っていたのをそのまま使ったのではなかろうか。9月半ば過ぎのある日アメリカ兵が学校にやってきたとき、体操の時間で講堂にクラスのみんなといっしょにおり、級長だった私が号令をかけて整列させていたところだったことからみて、間違いなく疎開前のように授業は再開されていた。
 ところが、その翌日から授業はなくなった。校舎・敷地全部が米軍の兵舎として接収されてしまったからである。いいかえれば学校が直接占領され、使えなくなってしまったのである。今のように電話などないころ、どのようにしてみんなに連絡したのかわからないが、ともかく学校は翌日から休みとなった。どのくらい休んだのか、その間私たちは何をしていたのか記憶にない。日が短くなったのがはっきり認識されるころだから10月に入ってからではなかったろうか、隣の小学校に招集された。これからその校舎の一部を借りて二部授業をするというのである(註5)。
 そしてそれから毎日、半日の授業が始まった。したがって授業時間は短くなった。だけど遊ぶ時間は長くなる。これはうれしいのだが、ある週は午前、翌週は午後の授業と遊びのリズムがうまくつくれず、何か落ち着かなかった。また冬の午後の授業の部のときには、日が短くなっている上に通学距離が長くなっているので、暗くなるころ、寒さを感じるころ家に帰らなければならず、これがいやだった。
 それはそれとして、ともかくまともな授業時間は確保されなかったことになる。
 そればかりではなかった。今度は別のことでまともな授業ができなくなってきた。毎日のように教科書の墨塗りに時間を取られるようになったからである。

 私の入学する1年前から使用されるようになった国民学校の教科書、とくに修身や国語、地理、歴史等には、今考えると非科学的、非民主的、非国際的、非人道的と言われてもしかたのないことが書かれていた。そしてそうしたことを私たち子どもは叩き込まれていた。しかし、二度と戦争を起こさないようにするためには、そして民主主義を確立するためにはこれでは困る。新しい教科書をつくらなければならない。しかし、すぐに教科書を書き変えて子どもたちに渡そうとしても時間がない、紙がない、印刷工場が戦災でない。そこでなされたのが、教科書から問題のある部分を削除し、残った部分を教科書として使うということだった。
 それで始まったのが、何ページの何行目から何行目まで墨を塗りなさい、何ページから何ページまで全部糊で張り付けなさいという先生の指示のもとになされる教科書の墨塗りと張り付けだった(註5)。
 学校に行くとまず墨をすらされる。しかしそれは習字の勉強のためではなかった。糊はりは工作の授業ではなかった。絶対にいたずら書きをしたり、破ったりしてはならないと言われてきた教科書は黒く汚され、紙・印刷の匂いは消え、墨の強烈な臭いが鼻をつくようになり、糊でゴワゴワして触り心地が悪く、厚く、重くなった。でも、国史と地理の授業は五年生からだったので、四年生の私たちはその教科書の墨塗りはしなくとも済んだ。
 こんな墨塗りがどれくらい続いただろうか。やっと終わったかと思うとまた追加があったりした。こんなことでも時間を取られてまたまともな授業時間が減らされたことになる。二部授業で授業時間が少なくなっていたので、教科書の分量が少なくなったのはちょうどよかったかもしれないが。
 それにしても、文章の途中の何行か真っ黒になっていたら文意が汲み取れなかったり、何を言っているのかわからなくなったりしただろうと思うのだが、先生はそれを私たちにどう教えたのだろうか。私たちは理解できたのだろうか。算数の教科書は墨塗りがあまりなかったのでこの授業はまともにできたかもしれないが。

 正月休みの前だったろうか後だったろうか、私たちの授業を受ける場所が変更になった。隣の小学校から私たちの学区内にある市立商業学校(後の商業高校)の建物に移ったのである。やはり二部授業だった。
 私にとって通学距離はかなり長くなった。冬の寒いときは大変だった。でも、頭と首のところは暖かかった。戦時中結局は使わなかった防空頭巾をみんな防寒頭巾として使ったからである。何しろ綿入れ、しかも頭から肩のところまで全部隠れるので頭、耳、首すべて暖かく、頭の前の方に頭巾が少し出ているので鼻や口も暖かだった(註6)。ただ一つ不便なのは視野が狭くなり、まわりの音があまり聞こえなくなることだった。でも自動車などほとんど通らないころ、特に問題は起きなかった。

 こんなことで敗戦の日を挟む小学四年の一年間はまともに勉強したとは言えなかったのではなかろうか。それでも教室があるだけでもよかった。空襲で校舎を焼失した学校などでは屋外で授業を行ったところもあった。それは「青空教室」と言われた。雨が降った場合は当然休みである。
 焼け残った一部の校舎がある場合には廊下も教室として利用し(「廊下教室」と呼ばれた)、講堂・体育館が残っていた場合にはそれを区切っていくつかのクラスで利用して授業をした。当然隣の教室はまる見え、先生の声も聞こえ、落ち着いて勉強する雰囲気などなかったようである。
 これに対し、山形は空襲にあわなかった。学校の建物はそのまま残った。だから山形の子どもたちは疎開、勤労奉仕、戦後の墨塗り等々で勉強の時間は割かれたが、授業は正常になされた。
 しかし私たちは、それと同じ状況であってよかったはずなのに、外国の軍隊による「占領」のために校舎が奪われ、空襲を受けた地域の学校と同じような状況におかれ、まともに勉強などできなかった。もちろん二部授業であっても授業ができただけよかったのだが。

 このように敗戦の年の一年間は、学び舎が5回も変わり、授業日数・時間も少なく、それも勉強以外のことでつぶされる等々、とんでもない一年間だった。




(註)
1.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(6段落)参照
2.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」(2段落)参照
3.11年2月10日掲載・本稿第一部「  同  上 」(5段落)、
  11年2月11日掲載・本稿第一部「☆暑く静かだった敗戦の日」(1段落)参照
4.17年11月5日掲載・本稿第九部「☆通知箋から見た国民学校の授業科目」(資料③)参照
5.11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」(1段落)参照
  なお、全学年この小学校を借りたのではなく、一部の学年は別の学校を借りた、つまり分散させられたのではなかったかと思う。
6.12年7月11日掲載・本稿第四部「☆冬の寒さ対策の今昔」(4段落)参照

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酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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