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教材・学用品不足、新憲法制定のころの授業



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(14)

         ☆教材・学用品不足、新憲法制定のころの授業

 前回述べたような混乱のなかで国民学校五年の新学期を迎えたが、商業学校の間借り生活はそのままだった。しかし、この新学期から二部授業はなくなり、まともに授業が受けられるようになった。そして本当に楽しい学校生活を送れた、という記憶はあるのだが、授業に関しては具体的な記憶があまりない(註1)。
 鮮明に覚えているのは、ノート1冊と筆入れと弁当箱を風呂敷に包んで背中に背負い、桑畑の中の近道を歩いて学校に通ったことだ。戦中使用した教科書はすべて廃止され、戦後の混乱と物資不足の中で新しい教科書は配布されず、学用品などもろくになかったので、風呂敷包みで十分だったのである。ランドセルと違って軽くて小さくて楽だったし、遊んだり走ったりするのも楽だった。それはよく覚えているのだが、教科書なしでどんな授業を受けたのか、まったく覚えていない。教科書代わりに先生がガリ版(註2)でわら半紙に印刷したものを使うことも考えられるが、当時は戦前以上に物資不足、わら半紙や原紙、インクもなかなか手に入らなかったはずであり、そんな記憶もあまりない。となると、教える必要のあることを黒板に書き、みんなにそれをノートに写させたのかもしれない。それが一番考えられる。といっても、私たちにはそれを写すノート、鉛筆、消しゴムもろくになかった。三角定規、物差し、クレヨン、絵具もなし、いったいどのように授業したのか、おかしなもので覚えていないのである。覚えているのは、教室で真っ黒なわら半紙を渡されてそれに作文を書かされたこと、先生の弾くオルガンでみんないっしょに歌ったこと、先生のしゃべっている顔くらいだ。体操の時間も何をやったか覚えていない。かつてのような軍隊式の整列行進の練習などがなかったことだけは覚えているが。
 夏休み近くになってではなかったろうか、細かい字が裏表びっしり印刷されている新聞紙半頁大の紙が2枚、算数と国語の教科書として配られた。それを8枚(だったと思う)に切り、それぞれを半分に折って重ね、その真ん中をを糸で閉じて冊子にするのだ(と言われたように思う、うまく説明できないが)との先生の教えにしたがい、家でみんなつくってきた(註3)。これが教科書かと思うような代ものではあるものの、しばらくぶりで見る真っ白な紙に印刷された小さな字はきれいで、何かうれしかった。遅れを取り戻すためだったのだろう、先生がその数学の教科書の問題を宿題でやってこいと言われたとき、うれしくていそいそとやったことを覚えている。宿題嫌いの私も、このときだけは例外だった。
 2学期になってから、少しずついろんな教科書が配布され、徐々にまともな授業になってきたような気がするが、その内容はよく覚えていない。なお、本来から言うと五年からはじまるはずの地理や歴史の授業がなかったのは覚えている。

 こんなことで、授業のことはほとんど覚えていないのだが、私にとって小学校6年間のなかではもっとも楽しかった年だったのではなかったろうか。とりたててどうということはないのにである。きらいな図工、習字が少ない、宿題もあまりない、たまたまいじめっ子がいない、急激な環境変化を子どもなりで対応して行くのも楽しみ、こんなことからだろうか。担任の先生が本当によかったからかもしれないし、初めて通る町場の家々と田園の境界の長い通学路をみんなで探検しながら歩いてみたり、休みになると戦後の変貌する市街地中心部を仲良しの友だちと迷子になりながら歩いてみたりしたからだろうか。学校に来ると、その間だけ、当時の辛かった私の家庭の事情(註4)を忘れることができたということもあったからではないかとも思うのだが。
 それはそれとして、この一年もまともな授業を受けられたとは思えなかった。
 しかし、世の中は着実に変わりつつあった。11月3日の新憲法公布の日、県営グランドで祝賀式典が開かれ、そこにみんなといっしょに出かけ(学校で連れて行ってくれたのかどうか覚えていない)、超満員のグランドで万歳三唱をした記憶がある。生活はまだ苦しかったけれども私たち子どもにも何か明るい希望をもたせたものだった。

 翌1947(昭22)年3月末、日本の教育制度や政策の基本理念を示した教育基本法が制定され、新しい日本国憲法の精神にのっとった教育がなされることになった。
 同時に、学制改革でこれまでの国民学校初等科は小学校になり、私はこのとき初めて「小学生」となった。また、男女共学となった(註5)。そして新しい教科書もきちんと私たちの手元に届いた。
 さらに、米軍に接収されていた私たちの学校の校舎と敷地が返還され、そこに戻ることになった。
 私が六年生になったときのことだった。これでやっと落ち着いてまともな授業が受けられるようになった。
 そんなことからして、私にとっての学校生活における戦後はまさに昭和22年度から、小学六年から始まった。敗戦から1年7ヶ月も過ぎていたとはいえ、その間の私の学校生活は戦中の延長でしかなかったからである。

 なつかしい校舎に、自分たちの教室に戻ってきてまず驚いたのは、その荒廃だった。米軍が兵舎・宿舎として利用すべくいろいろ変えたからである。たとえばあの広い講堂は二つに区切られ(将校食堂と一般兵士の食堂とにしたという話だったが、本当のことはわからない)、天井には穴が開き、肋木などの運動施設はなくなっていた。音楽室などの特別教室はそれらしい雰囲気は一切なく、地下室は古材置き場になっているなど、前の姿を思い出すのが大変なくらいだった。裁縫室などどうなったのか、復活したのか、記憶にない。
 修身室、そこに飾られるべき戦死者の写真は太平洋戦争が激化する中でかなりの人数となったはずだが、その写真のすべてが飾られないうちに敗戦、接収されることになり、返還後のその部屋はがらんとしていて(註6)かつての雰囲気はまったくなかった。戦後修身室は廃止されたが、その後それが何の部屋に変わったのか、記憶にない。
 戦中屋上に建てられた木造のサイレン塔は撤去され、米軍用の木造の建物が建てられていた(何に使われていたのかわからない、返還後は使用せずに放置され、やがて撤去された)が、周囲の金網は戦中の金属回収で取られたままで危険で屋上に昇るのは禁止された(註1)。運動場にあった鉄棒など遊具等の諸施設はこれまた戦中の金属回収で取られたり、米軍が撤去したりしてまったくなしだった。便所は洋式、といっても今使われている様式とはまったく異なり(うまく説明できないが)、子どもが使えない形のものすらあった。でも、普通教室はそのまま宿舎等に利用したらしく、机と椅子さえ入れれば十分使えた。そこに、間借りした学校で使っていた机やいす、どこかに保存していた諸設備を運び込み(先生方や父兄は大変だったようだが)、ともかく授業は再開された。

 ここで、しばらくぶりでまともな教科書を手に取った。それはこれまでの教科書とはまるっきり違っていた。もちろん五年生のときにその片鱗をみていたのだが、忠君愛国的な戦争賛美の内容は一切なくなり、口語文体で堅苦しくなく、優しい印象を受けたものだった。
 この優しさは漢字とかな使いの変更からもきていた。たとえば「學校」は「学校」、「國語」は「国語」、「算數」は「算数」、「圖畫」は「図画」、「音樂」は「音楽」に変わり、非常にやさしい漢字となったのである。そして覚えるのが、書くのが本当に楽になった。
 仮名遣いも同様だった。たとえば「行きませう」は「行きましょう」、蝶々の「てふてふ」は「ちょうちょう」、私の苗字「酒井」のふりがなは「さかゐ」から「さかい」に変わったのである。
 でも私たちにとっては大混乱だった。せっかく難しい漢字、仮名遣いの法則性を覚えさせられたのに、それは忘れて新しく覚えろというのである。しかもそれ以前そして当時の書物はすべて旧漢字と旧仮名遣い(印刷業者の活字更新に時間と費用がかかったかららしい)、新しい本の一部が新漢字と新仮名遣い、つまり新旧並存であり、したがって両方覚えておかないと不便である。これが大変だった(註7)。もちろん、旧漢字は読めればいいだけ、書かなくともよくなったので本当に楽になったが。書き取りの苦手な私からすると天国だった。
 のはずだったのだが、私にとっては必ずしもそうではなかった。担任のT先生が、この新漢字を覚えさせようということからだろう、2学期になってから週3回(だったと思う、ほぼ毎日のように感じたが)10題の漢字の書き取りテストをするようになったのである。私は読みは得意なのだが、書くのはだめだった。正確に覚えていないのである。それなら何回も練習して覚えればいい。ところが勉強は嫌いだ。家で予習復習などしたこともない。ところがまじめに勉強してくるやつがいる。そいつらの点数はいいが、私の成績はあがらず、しかもその結果が後ろの壁に張り出される。それが本当にいやだった。
 さらに覚えなければならないものが出てきた。ローマ字である。でも当時は英語ブーム、みんな関心をもって覚えていた。

 このようにいろいろと大きく変わったのだが、教科目がどのように変わったか、正確に覚えていない。前のように五、六年の通知箋が残っていればいいのだが、残念ながらない。そこで思い出せることを次に書いてみる。

 まず印象に残っているのは、「歴史」と「地理」がなくなって「社会科」になったことだ。といってもその教科書がどんなものか覚えていない。ただし、歴史に関しては『くにの歩み』という教科書が別途配布されたことは鮮明に記憶に残っている(註8)。これまで私たちの教わった神話をはじめとする天皇中心、偉人中心の歴史、叔父たちの使った古い教科書や参考書に書いてあった国史とはまったく違った内容であり、きわめて刺激的だった(註9)。他に覚えているのは「社会見学」(といったような気がするのだが)で3~4人のグループに分かれて仕事の現場を調べるというようなことをやった。私のグルーブは電話局に行って職員の方に話を聞き、それをまとめて報告したのを覚えている。どんなことを聞いたのか忘れたが、私は電信柱の電話線は電気が通じており、その電気の力で声が届くのだと思っていたので、電話で電力をどれくらい使うかと聞き、職員の方がその説明に困っていたのだけは覚えている。

  「修身」は天皇制を中心とする国体護持のための国民道徳を植え付けるための教育であったことから、五年から男子が習うことになっていた「武道」は軍国主義教育の一環だったことからなくなっていた。
 また、女子が五年から習うことになっていた「裁縫」、「家事」はなくなり、「家庭科」という科目になった。同時にその家庭科の授業は男子も受けることになった。といっても家庭科の授業で私が覚えているのは雑巾縫いをさせられたことだけである。指示された大きさの古い布切れと針・糸を家から持ってくるように言われ、作り方を教えられた。家で仕上げをしてくるように言われたが、糸の縫い目が曲がったり、大小さまざまだったりのあまりの私の下手さ加減にあきれた祖母が手伝ってくれ、何とか仕上げて(それでも下手だったが)学校に持って行ったのを覚えている。

  「理科」の科目名は以前と変わりなかったが、どんなことを習ったか覚えていない。たった一つ、コイルを巻いて電磁石をつくらされたのだけ覚えている。
 このようなコイルなどがあったことからもわかるように、少しずつ世の中は戦争の痛手から回復しつつあり、物資も出回るようになりつつあった。クレヨンや紙等も出回るようになっていて図画や習字もできるようになっていた。
 もちろんまだその質は悪く、量も十分なものではなかった。参考書などもほとんどなかったが、ようやく最低限の勉強だけはできるようになったということができるだろう。

  「体操」で印象に残っているのはドッジボールである。六年になって初めて覚えたものだったが、これは今までの体操の時間のイメージを完全に変えた。
 これまでの体操の時間は、お国のために役立てられる体力づくりの時間、戦闘における個人および集団の基本動作を教え込みかつ熟練させるための教育訓練の時間であり、さっぱり面白くなかった。
 これに対してドッジボールは面白かった。私たちにとってそれは授業というよりは遊びだった。体操の時間はこれが中心になった。体育の教材などそろえられない物不足時代には最適だったからだろう。ボール一つで何十人も遊び、かつ体力をつけられるからである。
 ドッジボールは私たちに新しい時代の学校生活の到来を思わせる象徴のような感じだった。いい世の中になったもんだと思わせたものだった。
 野球、これも私たちにはまったく新しいスポーツだったが、体操の時間にこれもたまにやった。でも、グローブやバットなどの道具がなくてなかなかできなかった。楽しかったのは遊び時間にグランドでやるゴムまりでの三角ベース野球だった。昼休みは各学年、各クラス、みんなグランドに出て外野手など交錯しながら入り乱れて野球をして遊んだ(註10)。
 運動とか体育とかはこれまでお国のために役立つ心身をつくるためのものだったが、ドッジボール、野球はここからの大きな転換、開放感を感じさせものだった。

 ということで、小学校6年間のうちもっとも落ち着いたのんびりした一年を過ごしたのだが、よくよく考えてみればそれは学制改革のおかげでもあった。もしも六三制になっておらず、そして私の進学が許されるとしたら、中等学校(中学校<男子のみ>・高等女学校・実業学校)への受験のためにのんびりなどしているわけにはいかなかったろうからである。ましてやこれまで述べたような激動の中でまともに授業も受けられなかった時期が続き、それに加えて怠け者で勉強もしてこなかった私のこと、受験勉強で苦しみ、さらには不合格で落ち込んだ年となったかもしれない(もちろん義務教育だった高等科には進学しただろうが)。
 しかし、幸いなことに1年前から始まっていた六三制で受験などなしであと3年間中学生として過ごすことができた。

(註)
1.このころのことに関しては下記の本稿掲載記事を参照していただきたい。
  11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(3段落)
2.12年4月16日掲載・本稿第四部「☆六〇年代の農村調査必携品」参照
3.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(1段落)参照
4.10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」参照
5.男女共学については下記の本稿掲載記事で詳しく述べているので参照されたい。
  17年10月2日掲載・本稿第九部「☆戦中戦後の男女共学と私たちの小中学校」
6.だから、そこに講堂の天井裏に入れる小さな入り口があつたのを発見することができた。そこにこっそり忍び込んで天井裏を探検し、奇妙なボール(後でわかったのだが、それはラグビーボールだった)を発見したりしたものだった。このことについては前記の(註)1に記した本稿掲載記事を参照されたい。
7.16年12月26日掲載・本稿第八部「☆野菜名の漢字表記」(5~6段落)参照
8.本稿の下記掲載記事この註の1で五年生の冬に配布されたのではなかったかと書いたが、六年の一学期半ばだったような気がする。
  11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(2段落)
9.13年9月9日掲載・本稿第六部「☆縄文農耕と東北侵略」(1段落)参照
10.11年2月22日掲載・本稿第一部「☆復刊少年倶楽部と野球少年」(3段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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