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設立当初の新制中学の施設・教員・授業



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(14)

          ☆設立当初の新制中学の施設・教員・授業

 私の受けた初等教育の6年間は激動のうちに終わり、1948(昭23)年春、中学校に入学した。
 この中学校は1年前までの、つまり学制改革以前の中学校とは違っていた。ご存じのことと思うが、以前の中学校(高等女学校・実業学校も含めて今「旧制中学」と呼ばれている)は国民学校初等科六年(かつての尋常小学校)を卒業したもののうち入学試験を受けて合格したものが5年間中等教育を受けるところであった(この旧制中学は 1947年の学制改革で廃止され、今の高等学校に変わった)。同時に、国民学校高等科二年(かつての高等小学校)も廃止された(註1)。
 そして、小学校六年を卒業した者全員が3年間の教育を受ける中学校(これは「新制中学」と呼ばれた)が新たに設立された。つまり義務教育がこれまでの8年から9年となったのである。そしてその上に高校三年、大学四年をおくとする六・三・三・四制(略称六三制)が始まった。

 さて、問題はこの中学校をどこにどう設置するかである。
 これまでの高等科は一般に国民学校のなかにおかれていた。しかし、新しい中学校は高等科よりも一学年多く、これまでの旧制中学入学者も加わることになっている。そうなると、小学校の1.5倍のしかも身体のでかい生徒を収容する校舎・敷地が必要となり、これまでのように小学校の施設を利用するわけにはいかない。まったく新しく設置することが必要となる。
 しかし、初年度は間に合わないところが多かった。だから、小学校の教室の一部(たとえば音楽室など)を借りて、机なしで椅子だけで授業を行ったところすらあった(隣の宮城県の小さな町に住んでいた家内などは最初はそうだったとのことである)。

 山形市には幸いなことに陸軍第132連隊の旧兵舎があり、接収していた米軍から返還され、空いたままになっていたので、それを中学の校舎とすることにした。そしてそこに二つの中学校をおいた。同時に、旧高等小学校校舎(註2)の建物に一つ、新築の建物に一つの中学校がおかれ、合計四つの中学校が設置された。
 私たちの中学校は連隊の兵舎跡地で、そこに四つの小学校学区内の生徒(三学年×15クラス×45人=約2000人)が詰め込まれた。

 3月末か4月初めのある日、私たちは小学校に集められ、そこに積み重ねてあったニスの臭いがまだする粗雑なつくりの机を一つずつもたされ、1.5㌔くらい離れている中学校まで運ばされた(家内もやはり新築された校舎まで大工さんの家から机運びをさせられたそうである)。
 初めて見る校舎はひどいものだった。というより校舎とは言えないような建物だったる。窓にはガラスではなく、金網にパラフィン(だと思う)が吹き付けられた代用ガラスが貼り付けられていた(註3)。もちろん理科室など特別室はなく、ピアノが一つおいてある音楽室があるだけだった(と記憶している)。
 さらにひどいのは講堂兼体育館だった。陸軍兵舎時代はそもそも馬小屋だったというのだが、床板はなく、むき出しの土に細かい黄土色の土砂をまいただけのもの、走ったりすると黄色いほこりが舞い上がって息ができなくなる始末、ドッジボールなどやると顔や頭髪、服は真っ黄色になったものだった。だから、そこで運動をする、遊ぶなどという雰囲気はなく、雨天体操場(+休憩時間の遊び場)の役割はあまり果たさなかった。式典などで全校生徒が集まると、校長などの声が後ろまでよく聞こえず(当時は放送設備もなし)、講堂の役割も十分に果たせなかった。
 屋外運動場は陸軍の練兵場があったためにその広さは十分だったが、草ぼうぼうでみんなで草取りをしたりして何とか整備するという状況だった。

 他の中学校もあまり変わらなかったのではなかろうか。だから各校ともに全校生徒のイナゴ取りなどで金を稼ぎ、それを施設整備にまわしたりしたのである。
 それでも私たちはそんなに不満はもたなかった。そもそも敗戦国、何もかも不足している時代、まあそんなものだろうとあきらめており、そういうなかでどう学校生活を楽しんで過ごすかを考えるだけだった。

 さて、それではそんな貧弱な施設で、どんな授業がなされたのだろうか。
 たまたま中学一年の「通信箋」が残っていたのでそれを見てみると授業科目は次の12科目となっていた。
   國語、習字、社會、國史、
   數學、理科
   音樂、圖工、體育
   職業(農・工・商)、家庭
   英語
 70年ぶりにこれを見てまず気が付いたのは各教科の名前が旧漢字で書かれていたことだ。新漢字がすでに教科書で使われていたにもかかわらずである。
 当時はそんなことはまったく気にならなかった。新漢字はできたばかりで旧漢字も普通に使われていたからだろう。
 それにしても何で旧漢字だったのだろうか。きっとこれは前年度、私たちの上級生の時代に大量に印刷され、それを翌年の私たちにも使ったということからなのだろう。

 それから、『國史』という科目があることに驚いた。歴史は地理、公民とともに『社会』(私たちは「社会科」と呼んでいたが)に含まれているはずだからである。しかも評価が1・2・3学期すべて空欄となっており、このことは少なくともこの一年のときは習わなかったことを示している。そしてその後も国史なるものを習った記憶はない。
 そこでふと思い出したのが『国の歩み』だ。私たちが叩き込まれてきたこれまでの非科学的な皇国史観を払拭すべく、47年に「国の歩み」が歴史の教科書として用いられたという話を前にしたが、私たちはそれを47年・小学六年生のときに習った(註4)。しかし、私より一回上の学年はそれを私たちと同じ47年、彼らが新制中学一年生の時期に習った。そこでその科目名を『國史』とし、通信箋で評価した。でも、翌年度の私たちは「国の歩み」はすでに小学校で習っており、本格的な歴史は社会科で教わる。したがって授業科目にはなくなった。だけど通信箋は前年作成のもの、それでこの「國史」という科目がそのまま残った。だから評価欄を空白とした。ということなのではなかろうか。
 なお、一年の最初に社会科で学んだ『あたらしい憲法の話』の教科書、これは今でも鮮明に記憶している(註3)。

 それ以外にこの授業科目を見て気が付くのは、『體育』には小学校のときのように実技ばかりでなく教室で学ぶ「保健」の授業があったことである。
 それから、『家庭』は女子ばかりでなく男子も学んだ(料理や裁縫の実技などはなかったと思うが)。
 『英語』は初めてまともに習ったわけだが、 I am a boyから始まる教科書が印象的だった。地味な表紙の教科書だったような気がする。

 ところで、私たちはたしか3年間すべて文部省作成教科書を使ったはずである。私たちが二年生のときに国定教科書が廃止されたのだが、まだ民間作成の「検定教科書」が少なかったからなのだろう。後輩たちが後に使った『Jack and Betty』という検定教科書のけばけばしい色の表紙は好きになれなかった。

 こうした教科を教える教員の質量、これがさきほど述べた施設の質量とともに大きな問題だった。これまでの高等科の二年が中学の三年になったのだから、量的にも、質的にも教員が不足することになったのである。英語の教員などは特にそうだった。
 だからといって旧制中学の教員を一年分そっくり引っこ抜くわけにもいかない。そんなことをしたら新制高校が成り立たなくなる。そこでともかく、高等科の先生を中心に旧制中学・小学校の先生、高等師範・師範予科の新卒の先生等々をかき集めた。それでも足りず、戦時中の教員不足で大量に採用されていた代用教員(註5)の先生にも助教諭として臨時免許を与えて中学の先生とした。

 夏休みの初めに職員室に入るとがらんとして静かだった。マンモス校だから先生の数が多く、いつもは賑やかなのにである。かなりの先生が休んでいる。聞くと、教員資格をとるための講習会に参加しているのだという。そのとき初めて臨時免許をもつ助教諭なるものの存在を知ったのだが、あの先生もそうだったのかとその数の多さに驚いたものだった。

 こうした先生が、しかも今まで教えたこともない教科を、教えなければならないこともある。たとえば、かつての高等科で裁縫だけを教えていた高齢の女の先生が家庭科の先生となり、栄養調理や家庭生活全般にわたって教えなければならなくなる、それどころか先生不足を補うために国語まで教える(註3)。教わる私たちも大変だった。私たちでさえ間違っているとわかることを教えるのである。
 農村部の中学を出た同級生の一人が笑いながらこんなことを言っていた、戦時中のために旧制中学でまともに英語の授業を受けたことのない代用教員の先生から英語を習った、高校の受験科目に英語がなかったからよかったものの、そうでなかったら落第していたと。

 まあ大変な時代だった。校舎も先生も十分にそろわず、教科書も教育内容もすべて試行錯誤段階、しかもまだ文房具などの不足している時代、小学校時代に続いてこれまたじっくり勉強ができるなどという雰囲気ではなかった。
 もちろん、先生方も大変だったのだが。

 1950年、私が中三になるころ、少しずつもの不足も回復し、本屋にはさまざまな本が並ぶようになり、アンチョコ(教科書を解説した手軽な参考書、「虎の巻」とも呼んだ) 、受験参考書、受験雑誌なども手に入るようになった。しかしあまりみんな買わなかったのではないかと思う。私も買ってくれなどとは言えなかった。高価だったからだ。でも、1冊だけ買ってもらった。前年度の全国の公立高校入試の問題集である。見て驚いた。一~二年で教わるべき内容をすべて習い終わっていないことに気が付いたのである。しかしそれをどうすればいいのかわからない。私ばかりではなかったのではなかろうか。
 先生方もそのことはわかっていたのだろう。秋晩くなってから学校主催で高校入試のための補習授業をやってくれた。忘れてしまっていたことも多かったが、習わなかったことも多かった。理科などは3分の1くらい初めて教わるものだった。
 ちょうど冬になりかけ、帰り時間は真っ暗になり、街灯もろくにないころて怖かったし、寒かったが、友だちといっしょだからこれも遊びのうち、楽しかった。

 これで何とかなったのだろう、志望の高校には入れた。試験科目は国語・社会・数学・理科・職業家庭・保健体育・音楽・図画工作の8科目で英語はなく(註6)、〇×式・選択式のテストだったこと、小学区制で落とすためよりも入れるためと思われる試験制度だったこともあったのかもしれないが。
 苦労したのは高校に入ってからだった。それは私たちだけではなかった。農村部の中学を卒業した同級生たちもみんなそう言う。町の中心部の中学校卒の同級生に比べると格段の成績の差だった。とくに英語の学力の差は激しかった。農村と都市部の学校間格差をしみじみ感じさせられたものだった。
 なお、この地域による学力格差は高校3年間のうちにつまり同一条件下で勉強しているうちに(通学時間等の差はあったが)かなりの程度解消されたと言ってよいであろう。それは同級生や先生方のほとんどが認めるところだった。

 こうやって敗戦をはさむ小中9年間の学校生活を思い返してみると、勉強する雰囲気・環境・資材・時間等々何もかもなし、私たちは小中学校でまともに勉強したとは言えないのではなかろうか。勉強嫌いだった私にはそれがちょうどよかったのかもしれないのだが。

(註)
1.17年9月4日掲載・本稿第九部「☆多人数学級だった私たちの小学校」(付記)参照
2.17年10月2日掲載・本稿第九部「☆戦中戦後の男女共学と私たちの小中学校」(註1)参照
3.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(1段落)参照
4.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(1段落)で「五年生」のときに習ったと書いたが、それは誤りで、13年9月9日掲載・本稿第六部「☆縄文農耕と東北侵略」(1段落)の「『六年生』で学んだ」が正しい。
5.17年10月23日掲載・本稿第九部「☆情報・経済格差と授業進展度」(7段落)参照
6.なぜ英語を入試科目から除いたかだが、学校規模が大きくて教員の質量に相対的に恵まれた都市部とまともな英語の先生をそろえられなかった農村部との学校間格差の存在からではなかったかと私は考えている。本当のところはどうだったのだろうか。

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酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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