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勉強できずせずだった子ども時代



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(15)

          ☆勉強できず・せずだった私の子ども時代

 私たちの世代は子どものころ学校で勉強する条件にあまり恵まれなかったという話をしてきたが、一般庶民の子どもたちの場合には家庭での勉学条件にも恵まれなかった。
 たとえば私の小学校のころ自宅に自分の勉強机(今は学習机というのだろうか)があるなどという小学生なんて何人いたろうか。ましてや立ち机(椅子に座って使用する机)など持っているのは私の生家の近隣二十数戸のなかで転勤族の高級サラリーマンの子ども(上級生)に一人いただけだった。座り机がある家でも兄弟の共用か一番上の子の独占物であり、それも親兄弟などからのお下がりだった。
 非農家の場合は家が狭く、農家の場合は子だくさん、机を買ってやる経済的ゆとり、机を置く場所もなかったのである。
 しかし机なしではできないこともある。たとえば習字の宿題ができない。そうすると各家庭に必ずあるちゃぶ台(註1)を使ったものだった。

 私の生家の場合、末っ子で祖母に溺愛されたM叔父の進学の時に買ってもらった勉強机(もちろん座り机)があったが、私は小学校入学のときかなり年季の入った文机(ふづくえ)(註2)が与えられた。大きな深い引き出しがついていたので、それに文房具などを入れることができた。でも翌年妹が入学すると共用になった。それでも何も問題はなかった。習字の宿題のときくらいしか使わなかったからである。もっとも便利に利用したのは、洋梨のバートレット(当時はその品種しかなかった)を柔らかくしておいしくするために引き出しの中に何日間か入れておくためだった(註3)。宿題をやるとき、本を読むときは寝そべったり、腹ばいになったりしてだったし、宿題以外家で勉強などしたことがないのだからそれで十分だった。
 家族はそれに何も言わなかった。両親や祖父は田畑に行って暗くなるまで帰ってこないので、帰ったときに宿題を忘れていないかと言う程度であり、家にいる祖母は家事に忙しく、私に命じた家畜への餌やりや子守りなどさえきちんとやっていれば何も小言を言わなかった。
 文房具や本は学校でどうしても必要な最低限のものしか与えられなかった。経済的ゆとりがないことが原因だったが、戦争による物資不足がそれに拍車をかけた。

 これは私ばかりではなかった。近くの子どもたちみんなそうだった。農家の子どもたちの場合は私と同じ状況だったし、非農家の子どもも、少数の地主・大商人、転勤族の子ども以外農家の子どもとほぼ同じで、生きるのに精一杯、子どもの勉強に割く時間的経済的ゆとりなどなく、放置しておかれた。これは私たちの住む地域だけではなかった。
 だからみんなあまり勉強しなかった。勉強などしていて友だちから冷やかされるのもいやだった。
 私たちの世代は戦争の被害を受けて学校で勉強する条件には恵まれず、勉強があまり「できなかった」とこれまで述べてきたが、家庭においても多くの子どもたちは勉強できる条件に恵まれていなかったということができるのである。

 しかし、と時々考える、勉強する条件に恵まれなかったことが私のような勉強嫌いにはちょうどよかったのではなかったろうか、私の場合は勉強が「できなかった」というよりも勉強を「しなかった」と言った方が正確なのかもしれないと。勉強が嫌いだったからである。
 もちろん、さまざまな新しいことを知る、覚える、考えること自体はきらいではない。むしろ好きである。しかし、学校でのその過程=授業はさっぱり面白くない。一定時間拘束され、自由に話したり動いたりすることはできず、自分のやりたいことをやりたいときだけやるというわけにいかず、自分に興味のない不得手なことまでむりやりやらされるのである。たくさんの友だちとしゃべったり、遊んだりするのはいいのだが、休み時間は短い。
 家に帰ったらそれから解放される。後は自由だ(子守りや家畜の世話など仕事を命じられることはあるが)。学校から帰るとすぐにランドセルを放りだして遊びに行く。勉強よりも何よりも遊びたいからだ。学校で何時間も拘束され、机にじっと座っているのがいやになっているときにまた勉強するなんてもういやである。
 もちろん、少年倶楽部など読む本があれば家の中で腹ばいになって読む。しかし買ってなどもちろんもらえない。友だちから借りられればいいが、戦時下で本が手に入らなくなっている時代、借りられる本も少ない。だからすぐに外に遊びに行く。遊び呆けて夕方暗くなるころ帰ってきて兄弟げんかしながら遅い晩ご飯を待ち、食べた後は風呂に順番に入って寝る(テレビなどなし、ラジオはNHKのみ、しかも戦中のことであまり面白いものなし、電灯は暗く何もできないので)。てなことをしているうち宿題をするのを忘れしてしまい、慌てて寝る前にやる。しかしそれも忘れて学校で怒られる。
 そして先生から言われる、学校から帰ったらすぐに宿題をしなさい、予習復習をしなさいと。
 たしかにそうである、宿題は早く終わらした方がいい。それがわかっていても遊びの誘惑に負けてあるいは忘れてできないところが凡人の凡人たるところ、どうしようもない。
 それから予習復習だが、これはよく理解できなかった。
 予習って何をするのだろうか。前の日に教科書を読んでいくことを言うのだろうか。しかし、読んだってわかるわけはない、とくに算数がそうだ。もしも読んでわかるのであれば先生などいらない。わからないから教わるのであって、わからないことを予習したって無駄というものである。
 参考書たとえばアンチョコ=虎の巻でもあれば別かもしれない。それを見て少しでも理解していけば先生の話がさらによくわかるはずである。しかしそんなものは買ってもらえない。金がないからではあるが、学校できちんと先生に教わってくればそんなのなくてもいいはずだで終わりである。しかも戦中戦後など出版事情からして本屋にない。だからそんなこともできない。
 復習もよくわからない。習ったらそれでいいではないか、せっかく教わったこと、わかったことをもう一度やるなんて退屈でしかたがない。忘れないようにするためだといっても習ったばかりだから忘れてはいない。やってもおもしろくない。

 家庭教師でもいれば予習復習もできるかもしれない。
 この「家庭教師」という言葉、子どものころそれを何かの本で見たときなかなか理解できなかった。まわりにはいなかったし、聞いたこともなかったからである。
 ようやくその何たるかがわかったとき、うらやましかった。宿題は全部教えてもらえるし、翌日やることを教えてもらっておけば先生の言うことはさらに理解でき、質問されても答えられる、試験などに出るポイントを教えてもらえる、こんな楽なことはない。こんな「家庭教師」に教わることのできる家の子どもが本当にうらやましかった。でも、家庭教師に教わっている時間はみんなと外で遊べない、好きな本が好きな時に読めない、などと考えるとどっちがいいのかわからないのだが。

 こんな調子で勉強などほとんど家でしないのだから当然テストなど満点とれるわけはない。しかしそれはやはり口惜しい。人に負けるのはいやである。だから試験は嫌いだった(その嫌いな試験の問題を大学で自分が出すことになるとは何とも奇妙なのだが)。それで考える、魔法で試験問題が前にわかればいいのにとか、一学年下の試験問題なら簡単に解け、いつも満点とれるので天才と言われるかもしれないのにとか。まあろくなことしか考えない小学校のころだった。

 そんなに勉強がいやなら学校に行かなければいいだろう。
 しかし、親はそれを許さない。病気にでもならないかぎり、学校は行くべきものなのである(註4)。
 私もやはり行きたい。家にいたっておもしろくない。近隣の子どもたちは幼い子を除いてみんな学校に行って家にいないのでいっしょに遊ぶことができないからだ。学校に行けば多くの同級生がおり、そこでの遊びやおしゃべりの楽しみがあった。
 しかも、戦争の影響で授業は少なく、宿題は少なく、受験で苦しめられることもなかった。こうしたことからすると、私の小中時代は勉強嫌い、怠け者の私にとって幸せだったことになる。
 そのかわりに高校に入ってから苦労した。勉強のしかたを何とか覚え、みんなについていけるようになるために、とくに高校最後の半年間は努力した。といいながら、演劇部で舞台に立ったり、応援団のリーダーをしたり、けっこう楽しませてもらったが。

 戦後、平和になり、戦争の傷跡から復興が進み、新憲法にもとづく教育基本法が制定される中で、子どもたちの教育をめぐる環境は戦前と比較にならないくらい本当によくなった。農村部においてもそうだった。
 しかし最近は-------、この話はよそう。ただ一言だけ付け加えさせてもらいたい。
 それはかつて子どもたちが群れ遊んでいた近くの遊園地から子どもの声が最近聞こえなくなってきたことだ。幼児は幼稚園・保育所、小中学生は塾・習い事・学童保育・部活に行っているからのようである(スマホ、ゲームもあるのだろうか)。それに加えて私の住む住宅街の少子高齢化があるようだ(他の地域よりはまだいいらしいが)。
 高学年から幼児まで近所の子どもたちが集まってかくれんぼをしたり、縄跳びをしたりして、また遊びを工夫して群れ遊んでいた情景、もう遠い昔のことになってしまったらしい。遊園地のブランコや滑り台が寂しそうにぽつんと立っているのを見ると、何かもの悲しくなってしまう。

 農山村に行くと空地の真ん中にさび付いたブランコや滑り台が草に埋もれて建っているのを見かけることがある。高度成長時代、集落の人たちが役場にかけあって、また自分たちも手弁当で整備した遊園地だったのだろう。そこには子どもたちどころか大人もいなくなりつつある。

 こんな時代になるとは思いもしなかった。もっともっと子どもの声が聞こえる活気のあるいい町、いい村になるものだと考えていたのに。本当に寂しい。
 また愚痴になってしまったが、これも年齢のせい、お許し願いたい。
 (次回掲載は1月15日とさせていただく)

(註)
1.卓袱台=食事をするときに使う座卓。死語に近くなっているようなので書いておくが、かつては日常語、それが消えていくのは何かさびしい。
2.書き物や読書をするための和風の座り机。脚の折り畳みができるものできないもの、袖・引き出しのついているものいないもの等、いろいろな形がある。
3.11年10月3日掲載・本稿第三部「☆野菜・果実の形、色、味の変化」(5段落)参照
4.本稿の下記掲載記事でも述べたように農山村では忙しいときに学校を休ませて働かせるということがあったし、町場でも貧しい家では子供を働かせたりしたものだが、それは例外的になりつつあった。
  10年12月13日掲載・本稿第一部「☆家事の手伝い」
  10年12月14日掲載・ 同 上 「☆子守り―幼い妹の死―」
  10年12月15日掲載・ 同 上 「☆家畜の世話」
  10年12月16日掲載・ 同 上 「☆遊びから始まる田畑の手伝い」
  10年12月17日掲載・ 同 上 「☆本格的な農作業と技能の伝承」
  11.年3月1日掲載・ 同 上 「☆半玉の中学生」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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