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戦中・敗戦直後の先生の思い出




          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(16)

          ☆戦中・敗戦直後の担任の先生の思い出

 私の小中学校生活について書いているうちにいろんなことが思い出されてきた。たとえば担任の先生のことだ。もちろん、私が小学校から大学までの間に教わった先生のことについてこれまで折に触れて書いてきたし、本章でも小中学校時代の学級担任=受け持ちの先生について若干触れてきたが、激動の時期でもあり、立場は違ってもいっしょにそれを乗り切った仲間だったということもあろう、みんな印象的に覚えている。そして私は担任の先生に恵まれたとも思っている。でも、四年の疎開のときに1学期の半分くらい受け持たれた女の先生の名前はもう忘れてしまった(顔はよく覚えているのだが)。これはやむをえない。他の先生の名前はすべて覚えている。そう思って口に出してみた。ひどいものである、一人だけ苗字は出てきても下の名前が出てこない。夏休みなど以外ほとんど毎日数時間は顔を見て過ごしたはずなのに、あれだけお世話になったのに、そして少なくとも数年前までは間違いなく覚えていたはずなのに、名前を思い出さないのである。唖然とした。ようやく何日かして思い出したが、この状態ではそのうち名前どころか何もかもみんな忘れてしまうかもしれない。そしてこの世からその事実は消えてしまうかもしれない。それは当たり前のことなのだが、やはり寂しい。
 そこで、まだ思い出せるうちに思い出せることだけでもここに記録してみることにした。語るに足りないまったく私的な些細なことでしかなく、単なる自分史になってしまったり、また前に述べたことと重複する場合もあったりするが、せっかく思い出したことだからということで、お許し願いたい。

 小学一年の時、最初に私たちのクラスを受け持ったのは中年の女の先生だった。でも、その先生の名前は憶えていない。一ヶ月もしないうち変わったからだ。そしてその変わった先生が本当の担任だった。今考えてみると、産休か病休で休んでいたのではなかろうか。このNS先生が一年、二年と私たちのクラスを受け持ってくれたのだが、やせて背が高く、ここまでできるのかと思うくらいいつも背筋をピンと伸ばしていた。そのせいだろう、あだ名は「トトコッケ」(「鶏」の山形語)、なるほど、よくつけたものという感じだった、
 先生はかなり厳しかったが、私には級長をはじめいろいろな任務を与えてくれ(のろまでぶきっちょで身体も弱かったのに)、さまざまな体験をさせてくれた。本稿の第六部に書いた『山羊の乳と同級生と酒田の物語』(註1)のきっかけをつくってくれたのも先生だったし、生まれて初めての弔辞読みもこの先生の命令だった(註2)。
 一度だけ先生の家に勉強のこと(何だったか具体的なことは忘れた)を聞きに友だちといっしょに行ったことがある。けっこう遠くてお昼時になってしまったら、昼飯に雑炊を出してくれた。当時米は配給制、食糧難の時代、雑炊を食べるのも大変な時代に、それをご馳走してくれたのである。それを聞いた私の祖母が恐縮して米を届けたらしい(農家だから自給用の米はあった)。それらのことが縁となって、戦中戦後の食糧難のとき祖母が先生の家を助けたことがあったらしい。そんなことからだろう、祖母の葬式のときもうとっくに退職していた先生が参列してくれた。そのとき約30年ぶりでお会いしたが、子どものころの私は丸顔だったのに面長になってなどと驚かれた、たしかにそうだった。

 小学二年の2学期のいつごろからか若い女のSA先生に代わった(なぜ代わったのか覚えていない)が、あだ名は「パーマ」だった(註3)。戦中、女性の頭髪のパーマネントは贅沢であるとして廃止運動が起きた(そのスローガンとして使われた「パーマネントはやめましょう」は何か調子がよくて、私たち子どもはみんないっしょに大きな声を張り上げて遊んだものだった)のだが、そのパーマを先生が以前していたということでつけられたようである。
 前にも書いたが、その先生の担任していた三年の初めから私に対するすさまじいいじめが始まった(註4)。それがピークに達した初夏のころ、それに気がついた先生はある日の放課後私だけを教室に残らせ、詳しく事情を聞いた。それから何日かして徐々にいじめは少なくなっていった。どのように先生が対処してくれたのかわからないが。一方で戦争は激しくなるばかり、東京から疎開学童を迎える、やがてこちらも疎開しなければならなくなる、米軍機は頭の上を飛ぶようになる等々のなかで、子どもたちのなかにいじめなどしている雰囲気もゆとりもなくなった。そんなこともあったのだろう、やがていじめは完全になくなった。いずれにせよSA先生のおかげ、今でも感謝している。
 この先生に申し訳ないことをしたことがある。さきにも述べたように私たちの学校は最先端の設備が整っていたのだが、なぜかプールはなかった(もちろん当時プールがある小学校などというのは本当に少なく、市内でも七つの小学校のうち二つしかなかったのだが)。しかも近くには泳げるような大きい川がない。そんなこともあったのだろう、三年になると山形盆地の真ん中を流れる須川(最上川の支流)まで先生が引率して全員を泳ぎに連れて行くという行事があった。泳ぎといっても泳げる子は少ないので、水遊びと言った方がいいのだが。須川は硫黄泉の蔵王温泉から流れてくる川と合流するので硫黄泉の排水を含んでおり(だから川原の石は赤茶け、水は酸っぱかった)、そこに入ると身体にもいいということもあったようである。その須川まで学校から3㌔くらい歩いて行かなければならないのでその日の授業は休み、おにぎり持参で出かける。これは楽しいのだが、実は私、幼いころからの持病があって冷たい水に入るのは医師から禁止されており、みんなといっしょに川遊びができない。そこで、私と同様に何らかの事情で水に入れない3、4人の同級生と堤防に座ってみんなの楽しそうな姿を見ていた、その頭の上に暑い陽が照り付ける、近くに日陰になる木もない、お昼を過ぎた頃から気持ちが悪くなってきた。帰りの時間になったとき、そのことをいっしょに座って見ていた同級生が先生に伝えた。そしたら先生は心配して私を学校までおんぶして帰ってくれた。途中で気分がよくなったのでおろしてもらおうと思ったのだが、何となく言いだしにくく、とうとう学校までおんぶしてもらった。当時のことだから三年生といっても今の一年生くらいの身長体重しかなかったのだが、それにしても申し訳けなかった。気分がよくなったのだから少しの距離であっても降りて一人で歩くべきだったと今でも後悔している。
 もう一つ忘れられないことがある、ある日先生は授業を休んでお話をしてくれると言う、みんな声をあげて喜んだ。戦争の激化、防空演習、軍隊式学校生活の導入等々でピリピリしていて楽しいことなどなかった時期のことだから、なおさらだった。始めた話が何と『子育て幽霊』(その名は後でわかったのだが)、飴を毎晩買いに来る女性が幽霊だとわかる場面ではみんな一斉にキャーッと大声を出し、もちろん私もだが、みんな震え上がった(先生の話もうまかった)、あのときの情景が忘れられない。そして幽霊が母親だったと結論がわかったときのみんなの何ともいえないおだやかなやさしさに満ちた顔、そして顔、戦争一色のなかでのひと時のゆとり、きっと同級生みんな、一生忘れられない思い出として残ったのではなかろうか。
 このSA先生は三年の2学期に他の学年の担任となった。なぜそうなったのか、どんな別れをしたのか、これも覚えていない。ともかくSA先生の担任の時期は公私ともに大変な時期、先生のおかげもあって何とか乗り切れたと感謝している。なお、戦後になって私のすぐ下の弟の担任にもなり、そんなことでもお世話になった。

 SA先生に変わって担任となったのが私の親戚筋(父の従弟の嫁)にあたるSK先生だった。病気で長期入院しており、その回復後私たちの担任となったものらしい。入院前は怖い先生として評判だったらしいが、退院後はおとなしくなったと言われていた。そのためだろう、怒られた記憶はない。同時に三年のときの先生の授業の記憶はあまりない。これが不思議である。
 昭和20年、四年生になったらすぐに軍需工場に小学校がとられ、校舎の半分で二部授業を受けるこになった。そうこうしているうちに、五月に入ったら私たちも疎開しなければならなくなった。そんなことでごたごたしていたせいか、期間が短かったせいか、そのころの授業や教室の情景などほとんど覚えていない。
 敗戦後の2学期からの校舎の接収と移転、二部授業の開始、毎日のように命じられる教科書の墨塗り、まさに異常な体験を先生とともにしたのだが、隣の学校の薄暗い真冬の教室で何ページの何行目から何行目まで墨を塗りなさい、糊で貼り付けなさいと先生に言われ、それに黙々としたがって私たちがやっていた情景が忘れられない。
 先生の家は生家から歩いていけるところ、親戚としての用事足しなどでたまに行くことはあったが、深い付き合いはなかった。いつだったか祖母から何かの用事を言いつけられて行ったとき、お礼にと先生が自分の息子(はとこに当たることになり、同学年だったのだが、違う学校に通っていてつきあいはまったくなかった)の月遅れの小学生向け学習月間雑誌を数冊貸してくれたことがある。こういう本を買ってもらえるなんてとその子が本当にうらやましく、教員の子と農家の子との格差をしみじみ感じたものだった。
 かつての怖い先生は私たちにはあまり厳しくはなかったが、前に述べた「それでもお前は日本人か」の厳しい声(註5)、今でも忘れられない。先生と生徒という立場は違ってもいっしょに苦労した仲間でもあった。なお、私が組合活動に参加するようになったころ、先生は山形の教員組合運動の中核として活動していた。

 小学五年も借家の校舎で迎えたが、このとき組替えがあって初めて男だけのクラスになった。同時に担任も変わり、これまた初めて男の先生に受け持たれた。戦地から引き揚げてきたばかりの坊主頭のいかつい、髭の濃い、若いSH先生だった。男の、しかもいかつい顔の先生ということでみんな心配したが、本当に優しかった。これまでの女の先生の方が怖かった(戦時中だったこともあろうが)。
 この年の進学式の日に母が亡くなった(註6)のだが、後にそのことを書いた私の作文を先生は涙を流しながらみんなの前で読んでくれた(これは同級生から後で聞いた話、実はその日私は病気で休んでいた)ことからもその優しさがわかろう。
 教科書も学用品もろくになく、しかも間借り校舎での授業、どうやって先生が教えたのか、何を私たちは学んだのか、よく覚えていない。それでも先生が一生懸命私たち一人ひとりに向かい合っていたことはみんなに伝わっていた。
 その年の初夏のことである、前にも書いたがおつゆだけの隔日の学校給食が始まった。これはすさまじくまずく、給食は私たちにとって苦行だった。みんなで我慢して食べたが、私はその夜からすさまじい発疹と下痢で一週間寝込んだ。先生はそれが給食のせいではないかと心配し、その後私だけ給食の苦行から解放された(註7)。これは本当に助かった。病気が本当に給食のせいだったかどうかわからないが、ともかく先生は私たち一人一人のことを親身になって考えてくれた。
 なぜか知らないが、この一年間の学校生活は本当に楽しかった。クラスにいじめなどなかったからかもしれない。大きな変化の時期だったし、いろいろな新しい体験があったからもしれない。いや、それよりも、学校にいると死んだ母のことなど家庭のことが忘れられたからかもしれない。それに加えて、みんな先生が好きだったからもあったのではなかろうか。
 三学期の1月末、2月1日に実施を計画しているゼネスト(註8)が世間で大きな話題になっていた。そのストの前日、授業の終わりに先生はこんな話をした。明日の2・1ストに先生たちも参加することにした、自分たちの要求のために子どもたちの授業を放棄していいのかどうか他の先生方と昨夜一晩寝ないで議論して決めた、みんなの授業をやらないというのは本当に申し訳ないのだがこれも暮らしを守るために世の中をよくするためにやむをえないこと、許してくれと。涙ながらに私たちに真剣に話したときの先生の泣きはらした真っ赤な目がいまだに忘れられない。
 先生は1年でよその学校に転勤になってしまった。その後、会いたくて会いたくて夜布団の中で泣いたこともあった。それほど好きな先生だった。
 それから4、5年してまた私たちの小学校に転勤してきた、私はもう高校生になっていたが、先生の宿直の日に訪ねていき、近況や当時のことなどなつかしく話したものだった。会ったのはそれが最後になってしまったが、それから20年くらいしてからではなかったろうか、帰郷した時に私の父から先生の話が出た。知り合いの人の結婚式に招かれて出席した時、たまたまそこに同席しいち  ていたSH先生が父を見つけてあいさつに来てくれたというのである。私が給食で病気になって大変だったことなどなつかしく話していたという。よく覚えてくれていたものである。
(この続き、新制小中時代の担任については次回、22日掲載とさせていただく)

(註)
1.13年10月10日掲載・本稿第六部『山羊の乳と同級生と酒田の物語』「☆同級生の入院」、
  13年10月14日掲載・ 同 上 『   同  上  』「☆山羊の乳運びと同級生の死」
  13年10月17日掲載・ 同 上 『   同  上  』「☆酒田の街と海」
  13年10月21日掲載・ 同 上 『   同  上  』「☆戦後、再び酒田へ」
  13年10月24日掲載・ 同 上 『   同  上  』「☆まだ続いている『物語』」
2.13年12月9日掲載・本稿第六部「☆寝押し、洗い張り、着物、足袋」(4段落)参照
3.本稿の下記掲載記事でも触れている。
  13年7月1日掲載・本稿第六部「☆お歯黒、ちょん髷、髪型」(3段落)
  17年9月18日掲載・本稿第九部「☆国民学校時代の叱責と処罰」(5段落)
4.11年2月3日掲載・本稿第一部「☆子どもの社会」(2段落)二一二頁、
  13年10月7日掲載・本稿第六部「☆『弱きを助け』はいずこへ」(3、4段落)参照
5.11年2月18日掲載・本稿第一部「☆ゲブミーチューインガム」(6段落)、
  17年9月25日掲載・本稿第9部「☆敗戦直後の小中学校での叱責と処罰」(2段落)参照
6.10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」(1段落)参照
7.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(2段落)参照
8.通称「2.1スト」、全国の労働者400万名によるゼネラル・ストライキを1947年2月1日に計画したのだが、その前夜、占領軍司令官マッカーサーの命令が出て中止させられた。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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