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新制小中時代の先生の思い出



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(17)

           ☆新制小中時代の担任の先生の思い出

 新制の小学校になり、同時にようやくもとの校舎に戻った六年生のとき、組替えがあって再び男女共学となった。同時に、担任の先生も変わり、前に体罰のところで登場してもらったTK先生(註1)になった。先生は、10年前の新任のときに私の父の末弟のM叔父を受け持ったという縁があった(叔父たち教え子に好かれていたようで、叔父たちは復員してからすぐに帰還を祝う同級会を開いたり、先生の家を訪ねたりしていた)のだが、生徒のなかで通用しているあだ名・通称で私たちみんなを呼ぶ等、まさに友だちづきあい、これまでの先生とは一風変わっていた。
 あるとき、先生が宿直だから泊まりに来いと学校の近くに住む数人(男子のみ)に声をかけた。私もその一人、いっしょに宿直室に泊まった。夜中、校舎内の見回りにいっしょに連れて行ってくれた。真っ暗な学校のなか、先生の持つ薄暗い小さな懐中電灯一つ、シーンと静かな廊下、歩くと足音が響いて後ろから誰かが追いかけてくるような感じ、後ろを振り向かないようにみんなから離れないようにしながら、ガタガタ震えながら歩いたものだった。人のいない学校、暗い学校、本当に怖く、怪談話が生まれる理由がよくわかった。
 それから先生の宿直のときはいつも何人か雑魚寝で泊まるようになった。
 当時は戦後の混乱期、生活の苦しい時期、物不足の時期、泥棒が大流行の時期だったが、とうとう小学校にも入った。それも私たちの泊まった夜にである。真夜中で私たちは熟睡中、先生一人で巡回しているときに捕まえたらしい。私たちはそんなことをまるっきり知らずに寝ていて、家に帰ってから家族にそのことを教えられ、びっくりしたものだった。いずれにせよ先生の宿直の夜は楽しみだった。
 しかし、晩秋に隣の小学校(小四の二学期・学校の接収の時に一時期私たちが間借りして二部授業をさせてもらった学校)が夜の火事で全焼し、そこから私たちの泊まりが問題となって生徒は泊まらせないということになり、楽しみの学校泊まりはなくなってしまった。
 夏休みには生まれて初めてのキャンプに連れて行ってもらった。これは学校行事ではなく、希望者(男子のみ)が十人くらい、上山競馬場の近くを流れる須川の川岸(あのころは川の水も景色もきれいだった)が宿営地、テント二つを背負ってもちろん往復(約15㌔)徒歩、でも本当に楽しかった。
 冬、暖房の亜炭ストーブの亜炭配給は一クラス一バケツ、昼休みには燃え尽きてしまい、午後からの授業は寒くてしかたがない。たまたま私たちの教室の真下にある地下室(前にも述べたように私たちの小学校は当時としては最先端、地下室まであった)のなかに古材(校舎を接収した占領軍の残していったもの)がたくさんある、あれを燃やそうと言うことになり、先生も賛成、他のクラスに知られないようにとこっそり少しずつ運び出し、みんなでのこぎりで細かく切り分け、ストーブにくべた。暖かかった、他のクラスとは比較にならなかった。当然他のクラスで問題となる、なぜあのクラスだけ暖かいのかと。とうとう見つかってしまった。TK先生はかなり責められたらしいが、気がつかなかった、ごめんなさい、やめさせますということになり、それからまたもとに戻り、寒い冬を過ごすことになった。
 このように本当に生徒と一体になったいい先生。他の先生の誰もが体験させてくれなかったさまざまな思い出をつくってくれた。
 先生は私たちが卒業するとすぐ、家庭の事情から宮城県の教員となって転勤してしまった。私が東北大に入ったときM叔父といっしょにお会いし、その後町の中で偶然お会いしたことがあったが、先生の転勤にいろいろ事情があったこともあってそれ以後お会いしておらず、消息も途絶えてしまった。

 さて中学だが、3年間クラスは変わらず、最初の2年間の担任は高等師範学校(現在の山大教育学部)を出たばかりのFM先生で、先生にとっては私たちが初めての生徒だった。クラスのモットーとして『責任ある自由』をかかげる(当時の流行り言葉だった「自由」を何でも好き勝手なことをしてもいいということとはき違えているものが多かったことからのようである)等々、教育に情熱を燃やしていた。お互いにそっぽを向いていたクラスの男子と女子の生徒を仲良くさせ、全校の模範となったなどはその一例だった。
 みんな先生が好きだった。休日になると先生の家=寺(先生はお寺の次男坊だった)におしかけたりしたものだった。こうした先生の姿にあこがれて同級生の何人かが後に教師になっている(註2)。英語が専門の先生なのだが、習字も得意(坊さんの息子だったこともあろう)、それで習字が好きな同級生を集めて教えたりもしていた。でも字の下手な私はだめ、それだけは参加しなかった。

 本筋の話ではないが、こんなこともあった。学年でクラス対抗の演芸大会をやる、その優秀なものは卒業生の送別会に出演させるという行事があり、各クラスはそれぞれ合唱とか寸劇とかいろいろ工夫して出したが、私たちのクラスはO君とS君の漫才を出した。これには先生も生徒も満場爆笑、大人気を博した。ところが、ちょっと品が落ちる、生徒らしくないということで学年の先生方は3位にした。それで1位になった他のクラスの出しもの(合唱だったと思うのだが)が送別会に出演することになった。私たちはかなりがっかり、また憤慨もした。
 それから1週間くらいしてである。FM先生からこんな報告があった。三年生の送別会に1位になった他のクラスの合唱ではなく私たちのクラスのO君とS君の漫才を出そう、三年生が喜ぶだろうからとの提案が学年の職員会議であったというのである。
 それを聞いたとき私たちは喜んだ。私たちの推薦した彼らの漫才が認められた、クラスの誇りだと。
 ところが先生は続けて言う、その提案を断固として拒否したと。
 私たちは一斉に言った、「ええ?なして(=何して=どうして)?」と。
 先生はこう答えた。そもそも職員会議では1位になったものを三年の送別会に出演させるということにしていた、そして先生方は私たちのクラスの出し物を、あれだけみんなから好評だったのに、先生方も送別会に出そうと考えるくらいに面白かったのに、品が落ちると言って(おとしめて)3位にした。それなのになぜ今さらしかも「品のない」ものを送別会に出すというのか、どうしてあのとき1位にしなかったのか、矛盾しているではないか。あの3位は間違っていた、1位にするというなら別だが、そうでないかぎり拒否する。こう主張したのだと。
 なるほど、そういわれてみればその通り、それが筋道というもの、私たちも先生の言うことに納得した、

 FM先生は私たちが三年になるときに農村部の中学校に転勤するのだが、その学校にみんなでおしかけたり、同級会を開いたり、卒業後もみんな付き合い続けた。
 しかし先生は若くして亡くなられた。同級生の多くが葬式に駆け付けたが、私はちょうど出張中で連絡がつかず、1週間過ぎてから先生の家にお参りに行った。そのときご家族の方が言っていた、先生は死の寸前までうわごとで授業をしていたと。
 私は先生のような立派な教育者にはなれなかったが、ともかくいい先生に恵まれたと感謝している。

 なお、FM先生とほぼ同時期に山形師範を卒業して先生になったものに前に述べた『やまびこ学校』で有名になる無着成恭(註3)、一回下に藤沢周平(註4)、小竹輝弥(註5)などがおり、みんな民主主義の新しい時代の教育の樹立に情熱を燃やして真剣に児童と向き合っており、今のような「事なかれ」主義ではなかった、そして子どもたちを二度と戦争に送るまい等々子どものの幸せを願って活動していた(と私は思うのだが)。

 FM先生の後を受けて中学三年を受け持ったKH先生は美人の中年女性、戦時中は薙刀の名人としてならしたのだそうだが、教員組合の専従を終えて私たちの担任となってきた。言葉は男みたい、ちょっと怖かったが、教師としてはまさにベテラン、担当の国語の教え方は上手、クラスの全員をよく把握し、またリードしてくれた。
 でも、たった一つだけ気になったことがあった。KH先生が来て2か月くらいしてではなかったろうか、クラス全員の性格や能力、クラスでの位置、家庭の事情等々を把握したころのこと、何かのときに私に驚いたようにこう言った、
 「酒井は農家の生まれなんだって?、てっきり町場の育ちだと思っていた」
 そのときに感じた、たまたま私は生徒会(全校議会と言っていたと思うが)の委員に学年全体の選挙で選ばれたり、模擬テストでそれなりの成績をとっていた、だから町の子だと思ったのではなかろうかと。ということは、百姓の子、貧乏人の子は成績はよくないはず、頭は悪いはず、クラスの中心などにはなれないはず、こういう先入観念を先生が持っていたことを示すものではなかろうか。そしてそれを気を許している私についつい言ってしまったのではなかろうか。
 しかし、先生も自分の言葉のもつ意味にはっと気がついたのだろう、慌てて付け加えた。
 「いや、だからどうというわけではないのだが」
 先生は町場の生まれ、町場の学校でしか教えてこなかったというせいもあるだろうし、教育の機会均等が農村部で実現できていなかった時代にはこれが当時の常識でもあったからなのだろう。だから先生を責める気はない。でも、こんないい先生までもそうだったのかとちょっと悲しかった。
 それはそれとして、ともかくKH先生は私たちみんなに本当によく接してくれた。そしてFM先生のつくってくれたクラスのまとまりを大事にしてくれた。
 そんなこともあったのだろう、何年に一度か同級会を開くようになった。そのときにKH先生も出席していたのだが、その後長くお会いすることはなくなった。1980年ころではなかったろうか、家に電話があって家内が出たところ、KHというものだが、テレビに私が出ているのを見た、もしかして中学のときに教えた酒井君ではないかとのこと。驚いて私に電話を代わった。何十年ぶりかで懐かしい声を聴いた。今は仙台で息子と同居しているとのこと、しばらくぶりでお会いすることになった。

 中学の同級会の最後は60歳のときだった。残念ながらこのときには先生方は亡くなっておられたが、半数近くの同級生が全国各地から山形に集まってきた。そこに中一のとき女性の学級委員だったSIさん(註2)も出席したが、FM先生の影響を受けて教師となって釧路に住んでいるとのことだった。それから3年して私も近くの網走に住むことになり、それを知った彼女がご主人と一緒に車で訪ねてきてくれ、まだ慣れない私たち夫婦をあちこち案内してくれ、いろいろ教えてもらったりした(註6)。あるときから突然音信不通となり、どうしたのかと他の同級生も心配していたのだが、そのうち私も東北に戻り、結局そのままとなっていることがいまだに気になっている。

 話があちこち飛んでしまったが、語れば長くなるのでこの程度の思い出話としたい。いずれにせよあの当時の先生、あれだけの多人数を相手にしての教育、しかも激動の時期、本当に大変だったと思う。私を受け持ってくれた先生方には本当に心から感謝している。

 さて、これまで私の小中学校時代の授業に関連することを延々と書いてきたが、いろいろ記憶違いや誤り、書き忘れがあったかもしれない。毎年毎年記憶が薄れていくのが悲しく、そうした不正確なところがあるかもしれないとしてもともかく書いておこうと思ったものである。
 これからももう少し子ど時代のことで書き残したことを書いてみたいと思っているので、できればお付き合い願いたい。
 (ただし、次回からちょっとの間、明治時代の子どもの作文教育の話をさせていただきたい)

(註)
1.17年9月25日掲載・本稿第九部「☆敗戦直後の小中学校での叱責と処罰」(4段落)参照
2.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(1段落)参照
3.17年8月7日掲載・本稿第九部「☆山村の貧困と修学旅行」参照
4.教師時代、師範時代の話は彼の随筆のなかにときどき出てくるが、そのなかでも教え子とのかかわりで印象的なのは「再会」(藤沢周平『小説の周辺』・文春文庫・1990年刊所収)がある。
5.藤沢と同郷・同期で、レッドパージで教員をやめさせられ、後に共産党の山形県会議員となるのだが、藤沢の随筆(その書名・題名が思い出せない)に印象的に登場している。
6.13年1月17日掲載・本稿第五部☆イモ掘り、イモ拾い、ダンプカー」(1段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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