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解題・1900年、小学三年の作文帖



          参考・明治末期の小学生の作文帖と作文教育(3)

          ☆解題・1900年、小学三年生が書いた作文帖

 昨年夏、山形市にある私の生家に行ったときのことである、生家を継いでいる末弟が、仏壇の奥底から先祖の書いた旅行記のような古い文書が出てきたと言う。
 それはきっと私の子どもの頃に聞いていた百数十年前に先祖の書いた旅日記ではないか、今から50年くらい前に生家が火事になったときに焼けてしまったと思っていたのに残っていたのかと驚いた。
 早速見てみた。まったくその通り、火事のときの煙で黒くすすけた部分はあったが、安政年間に紀伊半島から北陸等々全国各地の寺社、名所旧跡等を訪ね歩いたときのメモ帖であった。少なくともこれだけは焼け残っていたのである。
 これは面白そうである。しかし、かなり分厚く、しかも昔の文字、さらにはまさにメモ書きで乱雑、私の能力では判読できないところもかなりある。いつかゆっくり見ながら判読してみようかと思っている。生きていればの話だが。

 この文書の下にもう一つ、毛筆で書いた小さな薄い冊子があった。
 『作文』という表題の手作りの冊子である。子どもの書いたような字であり、毛筆で書かれていることからしてかなり古いものだということが推測される。
 真ん中辺の⑦、⑧頁に書かれている本の借用文にある『習字帖第三』(=三年生の習字の教科書)、『小學讀本巻の六』(=三年生後期の国語の教科書)という言葉からして、また最後の欠席届にある「尋常三年生」という言葉からしても、この作文帖が小学三年生の書いたものであると考えてよいであろう。そして最後の頁に「酒井なお」という名前が出てくることからして尋常小学校三年の女の子「酒井なを」が書いたと推測される。
 この女の子のことについては私の子どものころ聞いたことがあった、私の曾祖父の娘つまり私の祖父の妹に若くして死んだものがいたという話である。その子の書いた帳面が出てきたようなのである。
 なぜこれが残されていたのだろうか。もしかすると曾祖父もしくは祖父が早死にした娘・妹を思って捨てられずに仏壇の底にしまい込んでいたのではなかろうか。

 そしてこれは、三年生になった4月から翌年=明治33(西暦1900)年の2月までの約1年の間に書かれたものと推測される。
 4月の桜の花の話から稲刈り、寒中見舞いと進み、そして2月23日の日付で終わっているからである。もちろん季節を行ったり来たりもしているが、おおむね季節の動きに沿っている。また、2月の紀元節の話が作文帖の一番最初に出てきているので三年の4月から使用し始めたとするのはおかしくないかという反論も出てくるかもしれないが、それは授業の初めには天皇中心の国の始まりの話をまず持って来るべきだという当時の国情からであり、だからそのすぐ後が本来の4月の桜の文となっているのではなかろうか。

 この冊子は、半紙(33×24㌢)を真ん中から二分し(2枚に切り分け)、その切り分けた四角の紙を真ん中から二つ折りにし、つまり16.5×12㌢とし、その10枚を重ねてその真ん中を糸で綴じ、本の形にしたものである。
 このように、この冊子は折本(一枚の紙を折ったり切ったりして、あるいはそれを何枚か重ねて、本の形にしたもの)=「帖」である。そしてその表題は「作文」となっている。それでこの小冊子を「作文」帖と呼んできたのだが、これからもそう呼ぶことにする(ただし「」はとる)。

 この作文帖の紙の折り方や綴じ方などから見ると、子ども本人がつくったものだろう。ただし表紙の「作文」という字は幼い字ではなく、中身の子どもらしい字とはかなり違っているので、大人(親兄弟?学校の先生?)が書いたものであろう。
 問題はその内容だ。今の「作文」とかなり違っている。
 だからといって、習字の練習帖でもなさそうである。当時はまだ鉛筆など普及していない時代だから、毛筆で書いているだけと思われる。やはりこれは作文の帳面なのだろう。
 とすると、この作文帖は当時の「作文」とはどういうものであり、作文教育がどのようなものだったかを示す貴重な資料の一つとなるのではなかろうか(などというのは教育史学に素人の私の思い込みかもしれないのだが)。

 さて、それではこの少女の書いた作文帖はそもそも何だったのか、何の目的でつくられたのだろうか。
 遊びでつくったものなのだろうか。しかしそれにしてはいたずら書きなどなく、非常にまじめに書いている。しかも当時は紙がきわめて貴重な時代、ましてや私の生家のような貧乏な農家の子どもがそんな遊びのための帳面をつくるなど許されるとは思えない。だからそうではなさそうである。
 それでは、復習、練習のための個人的な勉強帳だったのか。だとすると、この少女はかなり真面目だったと思われる。私などとは大違いだ。しかし個人的なものならもう少しラフであっていいはずで、もっといろんなことを書いたり、いたずら書きをしたりすることがあっていいはずである。ところがそんな気配はまったくない。だからこれでもない。
 それでは、宿題で提出するために作り、書いたのだろうか。つまりこれは宿題帳だったのだろうか。これもそうではなさそうだ。もしもそうなら、先生による添削(たとえば平仮名と片仮名の入り混じった文や誤字、略字などの)があっていいし、評価の甲乙丙丁がついていていいのだが、まったくその気配はないからである。
 そうすると考えられるのが、教室で先生の書いた黒板の字や文、あるいは教科書に書いてあることを写す今でいうノート(帳面)だったのではないかということだ。字の上手下手、略字等は別にしてきちんと真面目に書かれていることからすると、学校の授業で先生の命にしたがって書いたものである可能性が高いと私は思うのだが、どうだろうか。

 そう考えると、この作文帖に書かれている文章は先生の言うことを聞いて書いた「作文」だったということになる。しかしこの文章は私たちの習った作文とはまるっきり違う。
 私たちのいう作文とは自分の体験したこと、考えたこと、伝えたいことなどを自分の文章で表現したものを言い、私たちの受けた作文教育はその文章表現能力 (生活文、観察・記録文、意見文、書簡文、感想文、創作文等を書く能力)を育てることを目的としていた(註1)。
 ところが、この作文帖に書かれているのは、注文書・依頼文・送り状、見舞い文・挨拶状・招待状・礼状・手紙文、それらに対する返書、欠席届等々の公用・私用の実用文である。それだけではない。歴史上の人物の伝記文(註2)、人文地理・理科等々の重要語彙(註3)の解説文もある。ともかく内容はさまざま、きわめて幅広いが、断片的で系統だっていない。
 しかし、共通しているのは、きわめて身近な実用的な文章、社会に出てすぐにでも役に立つ文章だということだ。しかも稲刈り手伝いの依頼とか、欠席届とか自分の生活の実態に合わせて書かせている。
 ということは、当時の作文はそうした実用的な多様な文章の書き方の訓練のための授業科目だったことを示しているのではなかろうか。

 この二つの仮説を検証すべく、早速パソコン・ネットという「文明の利器」(年寄りの言葉かな)で検索してみた。
 やはりそうだった、私の考えた通りだった。コトバンクによると、『作文教育』は「明治前期は、通信文・公用文など実用的な文章の指導に重きが置かれた。また題目と模範文とがあらかじめ示され、それを模倣する受動的な学習が主であった。明治後期は、先導的に自作文が目ざされはしたが、依然として範文模倣が踏襲された。技能本位のさまざまな指導法が試みられた」とのことなのである。
 そしてこのやりかたは西洋に近かったという。西洋の「作文」教育は文章の構造などノウハウを教えることを重視する「型」から学ぶ形式模倣主義で、厳しい文章の「型」の訓練と、技術的指導や添削が行われたとのことなのである。
 わが国の学校制度はそもそも欧米からの移入だったので、作文についてもそれをそのまま受け入れたのではなかろうか。そしてその欧米流は「読み書きそろばん」つまり実用の学問を教えた寺子屋=日本の庶民の教育機関の伝統とほぼ一致したので受け入れやすかったこともあろう。
 この明治の少女の「作文」帳はまさに「範文模倣」のためのものであり、先生が黒板に書いたあるいは作文の教科書に載っている例文等を模写させて覚えさせるためのノート(帳面)だったと考えられるのである。

 もちろん、単に先生の言うことや教科書を模写するだけではなく、範例をもとに自分の生活の実態に合わせて書いてみる訓練もさせられている。
 たとえば少女の書いたお祭りの招待文などがその一例だ。そこに八幡神社の祭りとあるが、これは生家の近くにある神社の祭りを頭に浮かべて書いたものだろう。なお、「明日ハけい馬見に御同伴致兼候」の「けい馬」は祭りの前日に境内で行われる「流鏑馬(やぶさめ)」(註4)のことだろうと推測される。
 また、稲刈りの手伝いを頼む文などは学区内に私の生家のような農家があり、その子弟が生徒にいたことの実態を反映しているといえよう。しかし、稲刈りの手伝いを「文書」で頼まなければならないような状況に農村、農家があったとは思えない。また、生家や近隣の農家は稲刈りの手伝いを口頭で近所の人や親戚に頼んでいた。こんなことからすると、手伝いをわざわざ文書で依頼するなどということは現実にはあり得ず、実態に即していないと思われる。したがって、当時の作文教育が地域の実態にあった実用文の勉強になっているとは必ずしも思えないのだが、でもまあ何かの折にはその応用ができるだろうということで書かせたのかもしれない。
 面白かったのは作文帳の最後に書かれている欠席届だ。上山に湯治に行くため欠席すると書いてあるが、これは山形市中心部から十数㌔にある上山温泉のことであり、一週間も休むということはかつての湯治が長期にわたるのが普通だったこと、子どもだけで湯治に行くわけではないので祖父母などに連れられて行っていたのだろうこと、そしてそれが当時は欠席理由として認められていたこと(これはおもしろい)を示すものなのだろう。
 その他にも当時の生活の実態をうかがわせる文があって非常に面白いのだが、それはおこう。

 このように明治期の作文教育は実用文中心の画一的範文模倣的教育だったのだが、こうしたスタイルから現在のような子どもの関心や感動を中心にして文章表現力を育てる方向へと転換するのは、大正デモクラシーの考え方の広まる大正期からだったとのことである。
 さらに、こうした作文教育をさらに発展させようとして昭和初期に生活綴り方運動や北方性教育運動が展開されたのだが、戦時中それは厳しく弾圧された。それでも実用主義的範文模倣的作文教育に逆戻りすることはなかった。私たちの国民学校時代もそうだった。そして戦後もそれは引き継がれ、さらに前に述べた『やまびこ学校』にみられるような作文教育の発展を図る運動も起きた(註5)のだが、今の作文教育はどうなっているのだろうか。ここではそれについて触れないことにし、また19世紀末に話を戻そう。

 この作文帖でもう一つ気になるのは、すべて文語体で書かれていることだ。当時は手紙も文語体であり、明治末はまだ文章は文語で書くものとして話し言葉の口語と区別していたことがわかる。これは明治初頭から始まる言文一致運動、大正デモクラシーのもとでの小説や新聞記事の口語文化の進展等のなかで変化し、私たちのころ、昭和初頭の教科書や作文は口語体に変わっていたが、そのころは書き言葉がまだ文語体中心だったのである。
 それから、片仮名と平仮名の両方が入り混じっていること(少女が書き間違えたのは別にして)だが、このころは小学三年でも片仮名と平仮名の両方を使い、堅い文章は片仮名、やわらかい文章は平仮名で書いていたようである。昭和初頭の私たちのころは一年生は片仮名、一年の三学期からは平仮名を使っていたが、新聞書籍等々、普通は平仮名になっていた。ただし勅語をはじめとする公文書は相変わらず文語体、片仮名だった。それが変わるのは戦後だった。
 また、句読点のうち「。」は使われているが、「、」がまったくついていないことも気になる。調べてみたら、句読点が公に定められたのは1906(明治39)年とのこと、この作文帖の書かれたころは「。」だけが使われていたのだろう。

 さらにもう一つ、一年間にわたる作文帖にしては半紙わずか5枚の片面だけというのも気になる。
 これは当時の筆記用具がまだ毛筆の時代であり、紙は高価な和紙の時代であったことからきているのではなかろうか。
 そこで調べてみたらやはりそうだつた。鉛筆と洋紙の国産が本格化するのは1900年ころから、鉛筆と洋紙を閉じた帳面(ものを書くために紙をとじて作った冊子=ノートブック)が安価に供給されるようになったのは1910年ころ、子どもの学習での使用が普及するようになったのは1920年ころからなのだそうである。とすると、1900年に書かれたこの少女の作文帖は毛筆・和紙の時代の最後のころのものということになるのである。
 いうまでもなく、毛筆で書くとなれば準備をしたり、墨を磨ったり、終わった後に硯や筆を洗ったり等々、かなりの時間がかかる。毛筆の場合には鉛筆と違って消しゴムで消したりすることができないので間違わないように一字一句気を付けて書くのでこのことでも時間がかかる。一方、毛筆では鉛筆のように字を細く小さく書くことはできないので、同じ字を書くのにどうしても紙が多く必要となる。また間違って書いても消せないので、書き改めなければならず、この点でも紙は多く必要となる。和紙は高価なのにである。そうなると自由に書く、たくさん書いて練習するなどというわけにはいかない。そして、先生の書いたあるいは教科書にある模範文を模写、模倣するくらいしかできない。その結果がこのきわめて薄い和紙の手製の作文帖なのではなかろうか。

 私の子どものころの1930年代は、鉛筆と消しゴム、洋紙のノート(私たちは帳面と呼んでいた)は学校教育における必需品となっており、私たちはそういうものだと思って育った。でもよくよく考えてみればそのわずか20~30年前までは筆と墨、和紙の時代だったのである。
 その時代の子どもたちは大変だったろう、この作文帖を見てしみじみそう思う。習字が苦手で、字の形をとるのが下手、不器用で筆で細い字などなかなか書けない私のようなものは、かなり苦労したのではなかろうか。その点では私はいい時代に生まれたものだと思う。ただし、戦中戦後は鉛筆やノート等の品不足と品質の悪さで苦労させられたが。

 鉛筆と消しゴム、ノートブックは今も小中学校で使われている。しかもその品質はよく、豊かに安く供給されている。
 ところが、最近は大人になるとあまり使わなくなってきた。筆記用具と紙・ノートブックはパソコンに変わってきたのである。若い人たちなどはノートというとノートバソコンを想起する時代になってきた。小学校でもパソコン教育をやり、小中学生は手紙を書くよりスマホでメールするようになってきた。字を書かない時代になってきたのである。毛筆の時代は千年以上も続いたのだが、鉛筆・ノート時代は百年で終わってしまうのだろうか。
 それでもやはり字を書く、書いて覚えるという教育は不可欠である。したがって、小中学校での鉛筆・ノートブックの利用はこれからも続くと考えられるのだがどうだろうか。

 自分の書いた作文帖がこうして一世紀も過ぎてから公開される、若くして死んだ少女・酒井なおは考えもしなかったことだろう。もしもあの世というものがあるならば、あの世で少女はどう思っているだろうか。いずれにせよ無断で公表した私は謝らなければならないのだが、もしかして何かの役に立ったのならと、また自分の存在していたことを百年以上経ってよくも思い出してくれたと、喜んでくれているのならいいのだが。
 (次回掲載は2月26日〈月〉とさせていただく)

(註)
1.世界大百科事典第2版では「作文教育」を次のように定義している。
 「児童・生徒を主たる対象として,学校などにおいて意図的,計画的に文章表現の能力の育成をはかろうとして行われる教育の総称。綴方教育あるいは文章表現指導ということもある。日常生活の具体的経験を素材にして,具象的に記述したり,考えをまとめたりする生活文だけでなく,調査・観察の結果をまとめる記録文(観察文),何らかの主題についての意見をまとめる意見文,手紙やはがきを書く書簡文,読後の感想を書く読書感想文,物語や詩,シナリオなどを創作する創作文などの文章表現指導もそのなかに含まれる」

2.当時の小学校の歴史教育は歴史上の人物伝が中心だったが、それにしてもこの作文教育で楠木正成・加藤清正・武内宿襧・井上でんなど、なぜこの四人だけ、しかも脈絡もなしに出てくるのかがよくわからない。加藤清正はその前の「虎」とのかかわりで出てきたのかもしれないが。

3.日本の形・支那人・日本人・五港などの人文地理分野の語彙の解説文、桜・海苔・軍艦・蚕・虎・空氣などの理科分野の語彙の解説文、これも何の脈絡もなし、関連性もなしに出てくる。これもよくわからない。もしかすると他の教科で習っている項目を作文の教材として適宜使って書かせたのかもしれないが、どうなのだろうか。
4.私の幼いころはやっていたが、戦後はやられなくなった。
5.17年8月7日掲載・本稿第九部「☆山村の貧困と修学旅行」(付記)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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