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その昔の農家の屋敷地からの臭い




              においの記憶(2)

         ☆その昔の農家の屋敷地からの臭い

 米軍の兵舎(=接収された私たちの小学校)の正門の前を通る産業道路(旧国道13号線)を横断して西に向かう道路に入り、角の八百屋さんと一銭店屋さん(=駄菓子屋、敗戦当時は売る品物がなくて閉まっていた)の間を20㍍くらい歩くと右側=北側に生家の畑がある、さらに10㍍くらい過ぎるとその畑のわきを細い小道が南北に走っている(註1)。
 その十字路の角のところに二つの大きな肥溜め(人糞尿を入れて肥料にするために地中に埋められている大きな深い木の桶、私たちは「ダラ桶」と呼んでいた)があった。前にも話したように町場の家々の便所から毎朝早く父が汲み取ってきた人糞尿がその「ダラ桶」の中に入れられており(註2)、その腐熟を待って下肥として田畑に投入されるのである。桶の上には粗末な藁ぶきの片屋根(一方にだけ傾斜をもつ屋根)がかけられているが、それは臭い対策のためではなく、雨水で薄められたり、大雨であふれたりしないようにするためのものだった。
 この生家の肥溜めの右手には10㍍くらい離れて5軒隣の農家の肥溜めがあり、その反対の左手の小道の畑にもちょっと離れて3軒隣りの農家の肥溜めがある。
 だから私たち子どもはその細い道路を「ダラ桶町=だらおげまづ(山形発音)」などと呼んで笑っていた(註3)ほどなのだが、当然この臭いは強烈である。生家の家屋からは若干の距離があるので家までは臭ってこないが、腐熟中だからだろう、便所の臭いとはまた異なり、その前を通るときは鼻をふさぎたくなったものだった(完全に腐熟するとそれほど強烈ではなくなるが)。

 さきほどのアメリカ兵が兵舎から歩いてきてまず嗅いだのはその強烈な臭いだったはずである。彼らにとって日本の臭いはまずこのダラ=半ば腐熟した人糞尿の臭いではなかったろうか。
 これは、近所に住む同級生のヒロちゃん(註4)に後でこのアメリカ兵の話をしたときの二人の結論だった(ちょうど彼はあの事件のとき私たちといっしょにいなかった)。

 次にアメリカ兵の嗅いだのは生家の屋敷地から漏れる臭いだ。ちょうど生家の前を通るからである。つまり、「ダラ桶町」の細い小道と産業道路からくる道路との十字路を過ぎると生家の屋敷地が右側(小道の西側)に短冊形に広がる(註5)からである。さてそこからどんな臭いがするかということだが、それを話すためには敷地内にどのように建物が配置されているかを説明しなければならない。しかし、私の筆力ではそれが困難なので、略図(これもまた見難くてわかりづらいとは思うが)を使いながら説明させていただくすることにする。



 彼らが通った道路の東から西に順次説明していくが、さきほど話したダラ桶のわきを過ぎると、右側に藁ぶきの背の高い大きな「小屋」がある。この小屋では脱穀・籾摺り・縄ない作業などがなされ、同時に稲わらが貯蔵されるので稲の匂いがするはずなのだが、この時期はまだ稲は田んぼで乾燥中、だから小屋には何も入っておらず、何の臭いもしなかったのではなかろうか。
 その小屋の西側に山羊小屋(①)、牛小屋、その軒先にリンゴ箱でつくったウサギ小屋(④)、さらに鶏小屋(➄)があるが、彼らの糞尿は臭いの発生源となる。
 しかし草食動物の牛や山羊、ウサギの糞尿はそれほどくさくないし、しかも牛・山羊はそれぞれ1頭、ウサギは4~5羽飼い、敷き藁をたっぷり使っているので臭いはあまり気にならない。もちろん何日かすると糞尿が蓄積してその臭いがしてくる。そうするとその敷き藁を掻き出して堆肥置き場(②)に積み上げられる。当然それは臭うが、それも苦にならない程度の臭いであり、敷きわらを交換したときの畜舎などからは稲わらのいい匂いがするくらいである。また、牛小屋は道路からするとちょうど籾戸の陰になって直接見えないので気にならない。
 気になるのは鶏小屋の臭いだ。これはかなりくさい。道路に面しているし、周囲は金網で囲ってあるだけなので、その臭いは当然道路に漏れ出す。しかしわずか10羽程度であるし、小さい小屋なので鼻をつまむほどではなく、あっという間に通り過ぎてしまう。だかられほど気にならなかったのではなかろうか。

 もしも気になったとすれば、この鶏小屋と籾戸の間にあるサクランボの木とタマツバキ(と呼んでいたが、正式にはネズミモチのようである)の生垣の間から透けて7~8㍍先に見える便所の臭いだ。
 前にも述べたように当時の農家はみんな外便所(註6)で、小便所はいわゆる便器はなく土の中に埋められた桶のなかにするだけ、したがってその臭いはそのまま外に漂ってくる。生家の場合大便所は二つ並んでいるが、もちろん落下式・汲み取り式(いわゆるボットン便所)である。木製の扉の上の方には格子窓がついているが、それには紙もガラスも張られておらず、素通しである。格子窓は採光と通風を確保するためのものだからである(当然、中を覗こうと思えば覗けるし、冬はきわめて寒い)。便所の前には梅とスモモの木が植えてあるが、これも臭い消しに若干役に立っている程度、当然外に臭う。だから、小便所、大便所の便壺に溜まっているそれぞれ違った臭いがその周囲に充満している。そして風などの具合でたまに道路まで臭うこともある。

 もう一つ、悪臭の発生源として漬物小屋があるのだが、ちょうどこの時期はたくあんなどの漬物がなくなるころ、とくに臭いが漏れ出すなどということはなかったのではなかろうか(漬物の臭いについては別途後に述べる)。
 またその隣に井戸を覆っている井戸小屋があるが、ここでは井戸から絶えずきれいな水をくみ上げ、また流すので、悪臭を放つなどということはない。

 次に家屋だが、ここで悪臭の発生源として考えられるのは台所からの生ごみと下水である。
 しかし戦後の食糧難の時期なので、悪臭の発生源となる肉や魚類は食卓にめったに上がらないし(ましてや生家の地域は内陸で海が遠い)、植物性の食料についてはぎりぎりまで使うので、それらの残滓・生ごみはほとんど出ない。出てもそれを家畜の餌にするのでまた少なくなる。最後に残ったものは堆肥のわらに混ぜてしまう。だから、いわゆる生ごみの悪臭はほとんどしなかったのではなかろうか。私はあまり記憶がない。
 台所からの排水は、下水溝(道路にある側溝)に下水すべてを直接流し込まず、流し台から土中に埋められた木製の桶(註7)に流し込まれる。すると細かい生ごみは桶の底に沈殿し、上澄みだけ(と言っても汚れてはいるが)が下水溝に流れていくようになっている。そして何ヶ月かに一度、下水桶に溜まった細かい生ごみ=汚泥を汲み上げて空にする。そしてその汲み上げられた汚泥は「だら桶」に入れ、糞尿といっしょに腐熟させ、肥料として田畑に使用する。だから下水桶は通常それほど臭わない(汲み上げのときは別だが)。
 だからいわゆる悪臭は家屋からあまり出なかったと記憶している(梅雨時などにかび臭い、饐え臭いと感じることはあったが)。

 そうなると、生家の敷地から通りに漏れる悪臭といえば、家畜の糞尿、堆肥、便所の臭いということになる。それに加えて生家の手前にあるダラ桶の臭いがある。
 いうまでもなく私たちにとってこれは当たり前のこと、自然の臭いなのだし、この臭いがあってみんな生きていけるのだし、その臭いで死ぬわけでもなし、黙ってあきらめるしかなかった。あまりにも臭うときには顔をしかめる程度、特に何とも思わずに暮らしてきた。
 しかし、そうした臭いに慣れていない人たちはちょっとした臭いでも感じるのではなかろうか。あの日、生家の前の道路を歩いた米兵もそうだったのだろうか。

(註)
1.下記の本稿掲載記事で生家の地域の概況について述べているので、参照されたい。
  17年5月22日掲載・本稿第九部「☆私の育った戦前の混住地域」
2.10年12月11日掲載・本稿一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」(5段落)参照。
  生家の所有する肥溜めはこの他にもう一つ田んぼのなかにあった。

3.子どもたちがいたずらで言い合うこの「ダラ桶町」という言葉を思い出したとき、ふと頭に浮かんだのは、私たち悪童がみんなで声をそろえて叫んだ悪口の一節「モッタイナイカラ タベチャッタ」という言葉だった。この前にも言葉があったはず、それも人糞に関すること、友だちの間で言い合う悪口だった、そこまではわかるのだが、なかなか思い出せない。二日間くらいかけて少しずつ思い出してきた。といっても不正確なのだが、ともかく書いてみる。
  「〇〇チャンドウロデ ウンコシタ
  カミガナイノデ テデフイタ
  モッタイナイカラ ナメチャッタ」
 これをみんなで唱和して笑いあったり、けんか相手に言ってやったりしたものだった。この言葉は共通語、とするときっと東京の方から伝わってきたのだろうと思うのだが、他の地域ではどうだったのだろうか。
 こんな汚いことを書くのはどうかと思ったのだが、今は言われなくなっているだろうし、こんな言葉が流行ったこともあったのだと注記するくらいならいいのではないか(どなたか書かれているかもしれないが)、そう思って書かせてもらったものである。
4.「ヒロちゃん」については本稿の下記掲載記事を参照されたい。
  17年6月5日掲載・本稿第九部「☆都市と農村の両面の体験」(追記)

5.生家の「屋敷地」については前掲(註)1の2段落のなかで簡単に紹介しているのだが、重複するけれど改めてそれを紹介させてもらう。
 「屋敷地はちょうど道路の四つ角の北東角にあり、間口は南北に走る道路に面していて13㍍(昔の度量衡でいうと約7間)、そこから短冊形に東に向かって広がっていた。その道路に沿って約50㍍(≒28間)行くと南北の細い小道があるが、屋敷の敷地はそこまでだった。したがって生家の屋敷地は200坪弱だったことになる。なお、この小道の東側には生家の畑があった」。
 なお、家屋への玄関口は間口側に、つまり南北の道路に面した西側に、本来つくられるべきものなのだが(実際にかつてはそうだったらしい)、東西の道路整備にともない、南側に移したらしい。
 他にも下記の本稿掲載記事で生家の屋敷地について書いているので参照さそれたい。
  11年1月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(4段落)

6.かつての農家の便所については下記の本稿掲載記事で詳しく述べているので参照されたい。
  11年1月17日掲載・本稿第一部「☆外便所、外風呂」、
  12年7月18日掲載・本稿第四部「☆便所と風呂、外から内へ」
7.この下水桶のことを「ながすおげ=流し桶」と呼んでいたのではなかったろうか。なお、台所は「流し」(山形発音では「ながす」)と呼ばれていた。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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