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戦後混乱期の農村(3)

  

           ☆北海道入植、南米移住

 宮城県の蔵王山麓(蔵王町)に北原尾という開拓集落がある。戦後パラオ諸島(註)から引き揚げてきた人たちがここに入植したのだという話をしてくれた調査農家の方が、笑いながらこう付け加えた、実はこの北原尾(きたはらお)という地名は「北のパラオ」ということでつけたのだと。なつかしいパラオをしのびつつ、またいつかはパラオを訪れたいと願ってこの名前にしたのだというのである。
 しかし、このように引き揚げる前に住んでいた土地の名前を開拓地につけるのは珍しい。満蒙開拓団で行った方などはあの引き揚げのときの苦労などを考えれば名前など思い出したくもなかったのではないだろうか。だから入植者は入植地に昔からついていた地名をそのまま使うのが普通であり、自分たちの出身地の名前をつけたところもあった。
 六〇年代に開拓の優良事例として全国に紹介された青森県六ヶ所村の庄内開拓などがその典型である。ここの入植者はそもそも庄内から満蒙開拓に行った人たちだった。苦労して何とか開拓したところに敗戦、這々の体で引き揚げ、故郷の庄内に戻ってきた。しかし、故郷では食っていけない。そもそも食っていけないから満州に渡ったのである。そこで国の勧めにしたがってまたみんなで開拓に向かうことになり、下北に入植して開拓のやり直しをすることになった。二度の苦労をさせられることになったわけだが、そのときに故郷の庄内の名前を開拓地につけ(正式の地名は別にあるが)、それがその地域の通称として使われるようになったのである。

 このような引き揚げ者ばかりでなく、戦争の被災者、都市で職を得ることのできないものは、食と職を求めて、国策として展開された開拓に向かった。
 東北では、奥羽山脈や北上・阿武隈山地、下北半島などなど、そのなかに少しでも平らな未開地があると、そこは開拓地として国から払い下げられた。そのほとんどは厳寒の荒涼たる原野であり、掘っ立て小屋に住みながら鍬一本で開墾していくという厳しいものだったが、さらに条件の厳しい北海道への入植も推進された。東北にはそれほど開拓可能地がなかったからである。
 「広大な沃土の待つ北海道へ」、こんな言葉にひかれて多くの人々が明るい希望を胸に北海道開拓に向かった。

 北海道の山林原野は、戦前からの開拓入植に引き続いて戦後も、鋤や鍬の人力と若干の畜力で切り開かれていった。
 このことから、農業は、農民は北海道の自然を破壊したと言われることがある。
 たとえば、知床半島に開拓農家が入って開墾し、後にはそこを捨てて出て行ったために自然林はクマザサしか生えない土地となった、原始的な貴重な自然が破壊された、農家は、農業は自然破壊者だというのである。そして、これを回復するために百平方メートル運動でその開拓農家が耕作放棄した土地を購入し、木を植えるのだという。この運動自体には大いに賛成である。しかし農業が、開拓農家が、知床の自然を破壊したと言う人がいると反論せざるを得ない。
 開拓農家だってこんなところに入植したくなかった。アイヌの人たちが「シリエトク(大地の行き詰まり、地の涯)」と呼んだという厳しい条件の知床に、好きこのんで開拓しに来たわけではない。戦前のゆがんだ日本資本主義の構造、それが引き起こした植民地獲得戦争、その結果としての戦後の食と職の獲得困難、それへの対策として展開した開拓政策、一種の棄民政策が自然を破壊したのである。
 しかもこうしてやむを得ず苦労に苦労を重ねて自然原野を農地に切り開いても、まともな収穫はできない。結局借金をかかえて離農せざるを得なくなる。その結果がクマザサの原野なのである。まさに不毛の開拓だった。それを押しつけた政策にこそ問題があるのであり、農業が、開拓農家が原野化させたわけではないのである。このことを理解して欲しい。

 もちろん開拓がうまくいった地域もある。こうして開かれた北海道の大地、これは本当にきれいである。あるテレビで白い馬鈴薯の花が一面に咲いた広大な北海道の畑の映像を流していた。その下に「癒しの風景」とのテロップが流れた。たしかにそうである。本当に心が癒される。網走に住んだことのある私などはましてやなつかしくて涙が出そうになる。
 素直にそう見ていればいい。ところが私はついつい考えてしまう。この畑の土に開拓農民の汗と涙と血がどれだけしみ込んでいるのだろうかと。
 東京農大オホーツクキャンパスの農経研究者NMさんがこんな話をしてくれたことがある。
 彼がまだ学生だった一九七二年頃、実習で根室管内の別海町(ここは畑作が出来ず、牧草しかできないところだが、一九五六年から始まる根釧機械開墾による根釧パイロットファーム建設、七三年からの新酪農村建設事業で全国的に有名になった、これらの事業についてはまた後に述べる)に行った。そのころ町に町営墓地ができ、各農家が牧場の隅などに個々ばらばらにつくっていたお墓を町営墓地にまとめようということになり、移動させつつあった。そのさいできればお坊さんに拝んでもらった後に移動させたい。しかし僧侶は少ないし、頼むと金もかかる。たまたま生家がお寺のNMさんは僧侶の資格をもっていた。それを知っているみんなは「お前坊主なんだから拝んでやったらいいではないか」という。農家からもお願いされた。そこでやむを得ず移動する前のお墓で簡単なお経をあげてやった。それから掘り起こしてお骨を移動するわけだが、当時は火葬場もないので土葬だった。しかも冬の寒さはすさまじく、夏も低温である。そのために亡くなってから何年もたっているのにお年寄りとおぼしき遺体の全身に当時の着衣の繊維が付着しており、杖などは腐らずにそのまま残っていた。それを見たときは何とも言葉が出なかった、その記憶は今でも鮮明に残っていると彼は言う。
 まさに北海道の地には血肉がしみついているのだ。その農地がいま自由化、規制緩和のなかで荒廃させられつつある。NMさんたちが当時二週間近く泊めてもらった酪農家も離農したという。何ともやるせない。

 ともかくこの開拓政策で北海道の農村部の人口は大きく増加した。問題となったのは、開拓農家の子弟の教育にあたる教員不足である。中学まで新たにできたのだからますます不足する。それで都府県から教員を募集した。一方都府県の方は、戦後大量に教員を養成していた。ところが都府県には千葉や神奈川のような人口増加地以外就職先はない。それで一九五〇年代後半、府県からかなりの教育学部教員養成過程新卒者が北海道に「流れ」た。私の中学時代の同級生だった二人の女性も北海道の教員となった。
 一九五九年、家内の妹も北海道の小学校教員として採用された。その赴任地は網走だった。汽車と連絡船を乗り継いで二日二晩かかって仙台駅に帰ってきたときの妹の顔は蒸気機関車の煙のすすで真っ黒だった。そのとき妹はこんなことを言っていた。冬になると子どもたちの顔が黄色になると。かぼちゃを多く食べるからである。配給の米では足りず、麦は売って現金収入にしなければならず、他に食料を買い求めるだけの金もなかったのである。食糧不足で悩んだ大都市でさえ米が食べられるようになっていたのに、北海道の開拓農家はまだ代用食だったのだ。これでは離農して都会に出ようとするのは当然であろう。実際に離農が急激に進むことになる。
 それからまた四十年経って私どもはその網走に住むようになった。そんなことは当時考えもしなかったのだが。妹は市街地から三十㌔くらい離れた音根内小学校に勤めていた。すぐにその学校を見に行った。学校の統合で廃校になっていた。戸数は当時の六分の一に減ったのだからやむを得ないのかもしれないが、私たちが行ったときには校舎も、妹が住んでいた教員宿舎も、そのまま残っていた。しかし、それから二年後すべて解体されてしまい、校歌を書いた碑が残されているだけになっていた。

 北海道には、また都府県の山間部には、もはや厳しい条件の土地しか残っておらず、棄民にも限界がある。そこで展開されたのが南米への移民政策であった。それに応じようとする人もたくさんいた。人間が狭い国にあふれている、働き口も土地もない、こんな閉塞感の中で、国策として進められていたブラジルを始めとする南米への移住に夢をたくそうという人もいたのである。
 私の近くにもいた。中学卒業の春(一九五一年)、クラスは違ったが仲の良かった一人の女の子が家族ぐるみでブラジルに移住していった。
 東北大の農学科の同級生二十一人の中にも二人移民希望者がいた。
 そのうちの一人MH君からかなり後になってこんなことを言われた。
 「酒井はあのころ、『この苦しい日本を見捨ててお前は出て行くのか、逃げるのか』と言って、おれを責めた」
 そう言われてみればそんなことを言ったかもしれない。当時の日本からすれば、移住はバラ色にしか見えなかった。政府もそう宣伝した。日本をバラ色にするために努力をせずにバラ色の国に行くのは日本への裏切りに思えたのである。
 いろいろな事情から彼は南米移住をやめた。そして生まれ故郷の高知県の農業講習所に勤めた後、青森県の試験場に移って稲の多収技術の研究をして名をあげ、最後は大阪の公立大学の教授となった。

 もう一人のHA君は初志貫徹で、一九六〇年パラグアイに移住した。花卉栽培の大農場を経営して大成功し、いまも活躍している。
 一九八五年頃だったと思うが、彼が四半世紀ぶりで一時帰国したことがある。それで同級生が集まって彼の歓迎会を開いた。そのとき、みんなが彼に聞いた。
 「日本に帰ってきて、一番変わったと思ったことは何か」
 彼は次のように答えた。
 「日本が車社会になったとは聞いていたし、テレビでも見ていた。でもそれは、東京のような大都会の話だと思っていた。ところが自分のいなか(静岡の山村)に帰って、農家のご婦人が乗用車に乗って畑に行くのを見たときには本当にびっくりした」
 それを聞いて今度はこちらが驚いた。そういえばそうなのである。たしかに大きな変化だ。
 戦前はもちろん戦後の一時期だって、農家が自家用車を持てるようになるなどとは考えも及ばなかった。われわれは毎日連続してその変化を見ているからとくに感じなかったのだが、考えてみたらすさまじい変化だったのである。
 それでは移住した人々はどうなったのか。同級生の彼のように成功した移住者は少なかった。ひどい条件のところに移住させられ、食うや食わずの生活を強いられたものもいた。現在でも多国籍企業の支配と遅れさせられた政治経済構造のもとで生活難に陥れられている人は数多い。そして今、南米に移住した人たちの二世、三世が日本に働きに来ている。故郷に錦を飾るどころか、今はまたもや過剰人口としてブラジルから逆に追い出され、故郷の最底辺労働者として働かされる、何とも辛い。
 開拓政策と同様に移住政策も棄民政策だったのである。

 日本に残った同級生のMH君の場合、移住した方が彼の人生にとってよかったのか、日本に残った方がよかったのか、私にはわからない。それでも彼の娘さんに冗談で言ったことがある。
 「私がブラジル行きに反対したから、あなたたちのお父さんは青森の娘さんと日本で結婚し、あなたたちが生まれることができたのだ、私のおかげだから感謝しろ、結局行かなくてよかったのだ」と。

(註)西太平洋に散在する島々で、第一次世界大戦後日本の委任統治領になって南洋群島とよばれていた島々の一部。第二次大戦後アメリカの信託統治領となり、一九九四年パラオ共和国として独立している。
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コメント

[C8] お早うございます!

酒井先生らしい筆致にワクワクして読ませて頂いています。
別海町でのこと、間違いないと思います。とは言えそうだったかな?と記憶の彼方のこと、やや不安もありますが。。。
 今はホンモノの住職(二足の草鞋生活)ですが、機会があれば別海の墓地を再訪したいのですが・・・。
 国分町、楽しみにしています!
  • 2011-03-09 06:39
  • macy
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[C12] 父と下北の入植

父は現在85歳で、認知証要介護5です。津軽から、入植した当時は父祖もいて、五年後に他界しました。最初から書類には父の名義になっています。今になり、父の弟と妹も 騙された様に言ってます。ずっと苦労して開墾し、土地を守ってきて、質素に生活し金銭面も弟と妹の面倒をみてきました。
その当時祖父はガンだつたから、長男だつたから、父の名義になつたのでしようか?
入植の条件で、長男である父が自動的に土地の名義になつたのでしようか?
ご存知でしたら、教えて頂けませんでしようか?
宜しくお願いいたします。

[C13] Re: 父と下北の入植



 詳しい事情がわかりませんが、お父さんの名前で入植を希望し、それが認められて入植なさったのではないでしょうか。それで土地の名義がお父さんの名前になっているのだと思います。当時は健康であることが入植の条件となっていたはずですので、それでお父さん名義で入植なさったのだと思います。
いろいろご苦労があったと思いますが、そのかいあって今は下北も豊かな農地になりました。その農地をこれからも大事にしていきたいものです。

  • 2011-07-16 09:33
  • 酒井惇一
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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