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北見、野付牛、常呂、カーリング



            北見、野付牛、常呂、カーリング

 4年前の晩秋、2ヶ月ばかり入院した時のことである。家内が毎日病院に通ってきてくれたが、そのときの交通手段は北海道から持ってきた自家用車(註1)だった。当然それは病院の駐車場に入れるのだが、ある日のこと珍しく満杯で、やむを得ず駐車場の前に列をなしている車の最後尾に並んだ。どのくらい時間がかかるのか不安になったころ、駐車場の警備員さんが家内の車にこちらに来るようにと指示をする。何事かと思いながらもともかく指示通りに行ったところ、向かい側の職員駐車場の空いているところに止めるようにという。おかげさまで家内は長時間待たされずに済んだのだが、そのとき警備員さんは家内にこう言ったそうである、これまで見たことのない北見ナンバーの車が毎日毎日通って来るのを、北見とはどこにあるのだろう、なぜ通ってくるのだろうと注目して見ていた(しかも年寄りの女性が運転して、と言いたかったのだろうが)、それでちょうど空いていた職員駐車場に案内したのだと。そこで家内は説明した。北見とは北海道の東部、網走の近くにあり、今入院している主人の転勤で網走に住んでいたので車のナンバーがそうなっているのだと。警備員さんはなるほどと納得していたとのことだが、家内は北見ナンバーで得をさせてもらったのである。

 北見の存在を知らないのはこの警備員さんだけではない、北見ナンバーを見て珍しがって写真を撮る人さえいる。札幌ナンバーはよく見かけるのだが。もしかすると北見ナンバーは仙台に家内の車しかないのではなかろうか。
 一方通行を間違って入ろうとしたりすると、このナンバーを見て、きっと遠い北の田舎から旅をして来たのだろう、大きな町の交通ルールに慣れていないのだろうと思うのかどうか、ニコニコしながら親切に間違いを教えてくれる。こんなことがいろいろあったが、この点では本当に助かる。
 一度だけ北見ナンバーの車を見かけたことがある。去年の夏、わが家を訪ねてきてくれた秋田の農家の奥さん3人を家内の車で案内して仙台市内の瑞宝殿(伊達政宗の墓所)に行ったときのことだった。東北観光に来た家族連れのようだったが、ちょうどすれ違い、声をかけることはできなかったが。

 実は私も北見のことをあまり知らなかった。北海道にあること、北見工業大学があることを知っている程度だった。
 一方、北海道の「野付牛」という地名は子どものころから知っていた。誰から聞いたのか、何の本で読んだのか覚えていない。中学の社会研究部(註2)の顧問だった社会科の先生から聞いたような気もするのだが、北海道の野付牛というところは明治初期に山形内陸の特産物だったハッカを導入して地域の特産物にし、世界市場の7割を占めるほどに生産を伸ばして栄え(註3)、世界的に有名なところだと知っていたのである。、しかも「ノツケウシ」という何ともおもしろい名前なので、ずっと記憶に残っていた。
 かなりの年齢になってから、何のためだったか忘れたが、野付牛はどこにあったのか改めて地図で探して見たことがある。ところがどこにもない。たしかにあったはずの野付牛という国鉄の駅もない。
 調べてみたら、野付牛町は改名して「北見」市になっていた。
 この「北見」になってからの(戦後の)ハッカ生産は、安価な外国産の輸入や合成ハッカの登場でほぼ壊滅してしまった。それで北見の地名はあまり知られることがなくなったのではなかろうか。
 幸い私は20世紀末に網走移住、北見はすぐ近く(といっても約50㌔あるが)、交流もさまざまあり、車のナンバーも北見、ということでなじみが深くなったのだが、道外の多くの人は北見のことをほとんど知ることがなくなったのだろう。
 ましてやこの北見の西側にある「常呂」という町の名を知っている人、「トコロ」と読める人はほとんどいなかったのではなかろうか。

 私が99年から06年まで住んでいた網走から国道238号線を西北に進むと左手に網走湖が見え、やがて右手に能取湖が見え、さらに進むとオホーツク海が右手に広がってくる。こうした景観を楽しみながら到着したところが常呂町だ。町の中心部を過ぎたところで左にカーブする国道から別れてまっすぐオホーツク海沿いの道路を進む。すると左手に日本で3番目に大きい湖であるサロマ湖が見えてくる。
 このサロマ湖とオホーツク海の間を通る細い砂州が長く長く続く。そこにはハマナスやエゾスカシユリ、エゾセンテイカ、センダイハギなど何百種類もの花々が咲き乱れる。それで「ワッカ原生花園」と呼ばれているが、そこを馬車に乗って散策する。あるいはレンタサイクルで走る。これはたまらない(網走市の東部にある「小清水原生花園」ももちろんいいが、それとはまた違った美しさだ)。東京から来る幼い孫も大好き、毎年ここに遊びにきたものだった。

 この原生花園を堪能してまた国道に戻り、網走の方・町の中心部に戻ると国道沿いに大きな建物が見える。わが国で最初に建てられたカーリング場(現在はその隣接地に移転新築されているとのことだが)である。その向かい側にある食堂の料理がうまいので、そこで昼飯をよく食べたものだが、カーリング場には入ったことがない(註4)。
 ここにカーリング場があったからだが、私の勤務する東京農大オホーツクキャンパスにカーリング同好会があった。そして常呂のそこが練習の拠点だった。この部員のなかに、私のゼミの大学院生だったSK君がいた。彼は学部時代同好会の中心メンバーであり、後輩連中は彼の華麗なスタイルには惚れ惚れするなどと言っていたものだが、院生になって引退、それでもときどき常呂のカーリング場に行って指導していた。
 その彼からカーリングについていろいろ聞かせてもらった。そのなかで印象に残っているのは、カーリングは単なる体力勝負ではない、だから年齢に関係なくやれる、世界には四〇歳を超えて活躍している医師の女性などもいるし、常呂には優れた能力をもつ中学生や高校生もいる、将来は彼らが日本のカーリング界を背負っていくのではなかろうかなどの話だ。
 そこで私は考えた、農大のカーリング「同好会」を「部」に昇格させ、強化指定部にして常呂などの優秀なカーリング選手を推薦入学させ、日本最強の大学カーリング部にし、世界を制覇するような選手を強化育成して世界に名をとどろかしたらどうかと。
 しかし、何しろマイナースポーツ、世田谷の大学本部の方があまり本気になってくれない。SK君も大学院生でOB部員となっていたために影響力を強く行使できない。結局それが実を結ばないうちにSK君は出身地の富山に帰って県庁に就職、私は定年退職となってしまった。
 それから5年後、彼の結婚式で富山に行ったらカーリングの仲間がたくさん来ていた。そのなかにはカーリングの選手をしていた常呂の女性を嫁さんにして二人いっしょに出席したものもいた。

 そんなことでカーリングに強い関心をもつようになり、仙台に帰ってからもとくに常呂出身者の多い女子のチームの試合がテレビなどで放映されるとよく見ていたものだった。
 そのうち、常呂にチームができたとのことを知った。その名前がいい、ロコ・ソラーレ=「常呂っこ・太陽」だという。常呂町は06年に北見市に合併していたのだが、常呂という名前を忘れずにつけることがますます気に入った。早速家内ともどもファンになり、試合がテレビ放映されると応援してきた。
 そのロコ・ソラーレ(LS北見)が18年2月のピョンチャン・オリンピックに出場するという。うれしかった。
 しかも快進撃である。途中負けが込んであきらめかかったことはあったが、何と準決勝進出、しかし決勝進出はだめ、三位決定戦も第10エンドでもうだめ、とあきらめかけたら何と、勝ったではないか。信じられなかった、思わず驚きの声、喜びの声をあげた、同時に涙が出てきた、本当にうれしかった。

 常呂、北海道の農水産業を中心とする小さな町が世界に輝いたのである。まさにロコ・ソラーレとなったのである。
 「そだねぇー」が流行後になる(私は「~かい?」がそうなるかと思ったのだが)、ハーフタイム(もぐもぐタイム)に食べた北見のチーズケーキ「紅いサイロ」が大人気になる(イチゴは日本の品種であることが後でわかり、それも話題になった)、なつかしい女満別空港がテレビに映される、もと道民、同じ網走管内・隣り町の住民だった私としては涙が出るほどうれしい。
 カーリングの面白さが多くの人に知られた、もちろんこれも喜ばしい。
 家内の車の北見ナンバー、これからは大きな顔をして街の中を走ることができる、これも気分がいい。

 話はさかのぼるが、今から5年前に書いた本稿第四部の最後の節で次のように書いたことがある(註5)。
 「最近、網走にいる女性研究者のWMさんから次のようなメールが届いた。
 『常呂で開かれたある会合で畑作農家の若奥さんに名刺を渡したとき、彼女の手の爪にネイルアートが施されているのに気がつきました。二人の子育てをしている自分の爪がボロボロでいかにも主婦の手だったのとは大きな違いです。
 さらに、どこで買ったのか聞いてみたいような洒落たサンダルをはいた足の爪にもペディキュアが施されていました。
 どうも親と同居している人が綺麗な爪をしている傾向にあるようです。食事の用意をするのは年寄りで、農作業はゴム手袋をはめてしているから、そうなるのでしょう。
 「二世帯同居でネイルアートをしよう」というキャッチコピーで嫁さんを募集したらどうでしょうか』。
 こういうのだが、思わず私の頬がほころんでしまった。
 何と農村は、農家は変わったことだろう。ネイルアートがいいか悪いか、好きか嫌いかはここでは問わない(私はあまり好きではないが)。かつて農家の嫁が化粧するなどということはできなかったのに今はできるようになったこと、隣近所や舅姑から悪口を言われることもなく堂々とおしゃれができる社会に家庭になったこと、都市部と農家の女性の間にかつてのような差異がなくなったこと、これがうれしい。
 このように明るく変えてきた力はまだ農村に農家に残っている。日本農業はまだまだ大丈夫ではないだろうか。」

 WMさんの書いたその常呂町に住むしかも若い女性が、カーリングというスポーツの分野においてではあるが、国内はおろか世界に輝いたのである。
 女性には、地域にはそうした力があるのだ。それを押しつぶすことなく、存分に発揮できるように国が、市町村が支援し、スポーツや文化はもちろん、農林水産業をはじめとする諸産業を発展させ、わが国の農山漁村を、小さな町や村を、ふたたびにぎやかにしてもらいたいものだ。

 三位決定のあの夜、網走のWMさんに、富山のSK君に電話して、おたがいに喜び合い、電話越しにいっしょに祝杯をあげる、そうしたかった。しかしできなかった。SK君は3年前に、いつも本稿に登場してもらっていたWMさんは昨年の晩秋に、この世を去ってしまっていたからである。
 うれしくもさびしくもあった2018年2月24日(ピョンチャンオリンピック最終日前日、LS北見・カーリング女子三位決定の日)の夜だった。

 (次回・3月26日はまた本題に戻って「臭い・匂いの記憶」の話をさせていただく)。

(註)
1.家内が自家用車を利用するにいたった経緯については本稿の下記掲載記事を見ていただきたい。
  12年5月25日掲載・本稿第四部「☆自家用車不可欠の時代へ」
2.社会研究部といっても実質は郷土研究部だったのだが、そのことや先生のことについては本稿の下記掲載記事で触れている。
  17年7月24日掲載・本稿第九部「☆隣りのT村の近距離『修学旅行』」(付記)
3.11年2月8日掲載・本稿第一部「☆土地の取り上げ、自給自足」(3段落)、
  12年7月23日掲載・本稿第四部「☆消えた麻、綿、桑、羊」(4段落)参照
4.私が網走を去る時に引っ越しの手伝いに来た息子夫婦がここに来てカーリングをしていたら、有名なコーチの人がいて指導してくれたとのこと、息子夫婦の自慢の種である。
5.12年9月28日掲載・本稿第四部「☆どっこい『農家』は生きている」(1段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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