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ニンニクの臭いの普及



             においの記憶(6)

        ☆ニンニクの臭いの普及―薬用から薬味へ―

 初夏だったと思う、タマネギの細長い茎葉二本を結び、球根(鱗茎)を下にして、籾戸の軒下にかけられている棒にぶらさげ、乾燥させる。それと並んでニンニクも同様にして吊るされていた。必要に応じておろして食べるが、やがてそれらはすべて外されて秋の深まったころには屋内に保存され、かわりに漬物のためのタイコンと青菜(せいさい)が軒先に大量にぶら下げられる。これが毎年のことだったが、私はニンニクがどこの畑に植えられていたのか記憶にない。作業の手伝いをしたことも覚えていない。乾燥し終わったニンニクをどこに貯蔵していたのか、売り物にしたのか自給用だけだったのかもわからない。さらに生家でニンニクをどういう料理に使ったのかも覚えていない。覚えているのは風邪の予防薬として食べさせられたことたけだ。冬の寒さがもつとも厳しくなるころ、風邪をひかないようにと母がいろりの灰の中に入れて焼いたニンニクを私たち子どもに食べさせてくれた(註1)のである。私にとってニンニクは薬用でしかなかった。しかもホクホクして甘く、他の薬のような抵抗感は全然ない。うまい、熱い、身体の芯が温まると感じるだけ、臭みなども一切感じなかった。
 そうなのである、ニンニクを食べた本人は何も感じないのである。しかし、他人はいやな思いをする、それをはっきり認識した時期はなぜか記憶していない。

 ここまで書いてきてふと思い出したことがある。
 私の小学五年(1946年)の初秋のことである、父が友人から借りてきたらしい『釈迦』という戦前出版の分厚い本を見つけた。武者小路実篤という変わった名前の人が著者だった。本に飢えていた時代であり、仏教に関心を持ち始めたころでもあった(註2)ので、早速読み始めた。お釈迦様の名前はしょっちゅう聞いていたが、こういう人だったのか、仏教とはこういうものだったか等々、初めて知ることばかり、すごくおもしろかった(もちろんわからないことだらけだったが)。その本の後ろの方にこんな話が書いてあった。
 あるとき釈迦の弟子の一人が重い病気にかかり、ニンニクを食べなければ治らないという、釈迦はいい顔をしなかったがやむを得ず許可をした、そのときの条件が十日間(だったと思う)他人と顔を合わせないこと、便は土を深く掘って埋めること等々の厳しい条件をつけた(私の記憶であり、不正確だが)というのである。
 なぜ釈迦がそんな条件をつけたのか不思議だった。ニンニクは他人に臭うということも知らず、精力剤として知られているなどはもちろん知らず、寺の門前にある「不許葷酒入山門」の意味も知らない私の子ども時代、わからないのは当たり前だったのだが。

 1950年代後半、食糧難・もの不足・就職難がまだ続いていた私の学生のころ、安く酒を飲み、お腹を満たすために人々が行くのは屋台や場末の飲み屋だった。そこでは家畜の臓物(モツ)を焼き鳥や焼き肉、煮物にして出したが、安くてうまかった。貧乏学生だった私もたまにそこにいったが、そのうまさがニンニクからも来ていると知ったのはいつ頃だったろうか。私の知識としてニンニクと口臭が結びついたのはそのころからだったと思う。でもそれほど気にしたことはなかった。
 少し世の中が落ち着き始めた60年前後から屋台は徐々に少なくなり、そこで出されていたモツ料理はホルモン料理屋、とんちゃん屋、焼き肉屋などの名称で呼ばれる飲食店で出されるようになった。

 ちょうど同じころ、戦後盛んになった綿羊飼育の影響もあってジンギスカン料理が普及してきた。
 私が生まれて初めて食べたのは仙台の綿羊会館(宮城県緬羊農業協同組合連合会の建物、その二階にジンギスカン鍋を食べさせる店を出していた)でだった(註3)。そのとき、成吉思汗(今はチンギスハンと読むのだそうだが、私たちのころはジンギスカンと呼んでいた)の軍隊の兵士たちが鉄兜を鍋にして羊の肉を焼いて食べことからこの料理は始まったものだ、だからジンギスカンという名前がついた、羊の肉は臭いのでそれをニンニクで消して食べるのだという講釈を先輩から聞きながら、肉を焼いてすりおろしたニンニクのたっぷり入った醤油をつけて食べた。うまかった、何しろ肉や脂ものに飢えていたころ、がつがつ食べた。しかし、焼き肉の臭いやたれが服にくっついたりしないようにとビニールの前掛けをつけさせられ、帰りには身体についた臭いを気にしながら歩かなければならないのはいやだつた。しかも翌日は全身から、とくに口から強烈な臭いが発せられる、それが自分でもわかるほどだ、他人は当然いやがるだろう、これには困ったものだった。
 やがてこのジンギスカンは焼き肉屋・ホルモン焼き屋でも出されるようになった。ただしそれは日本の綿羊生産の衰退、オーストラリア産の羊肉輸入と並行して進んだものだった。

 戦後、やはり60年以降だと記憶している、中華そば屋のメニューに「餃子」が載るようになった。中国からの引揚者によって普及するようになったものだとのことだったが、初めて食べたときは本当にうまいと思った。やがて餃子専門店も見られるようになり、餃子づくりは一般家庭にまで普及するようになった。1970年頃、私の家内も近所の奥さんに聞いて餃子をつくるようになった。小麦粉で皮をつくり、それで豚の挽き肉・キャベツもしくはハクサイ・ニンニク・ニラを混ぜ合わせたものを包んでフライパンで蒸しながら焼くのである。皮をつくるのが大変だったようだが(そのうち餃子の皮が売られるようになり、手間がかなり省けた、これも餃子普及に大きな役割をはたしたのではなかろうか)、子どもたちも包むのを手伝って喜んで食べていた。
 ただし、餃子を食べるのは翌日外出しないことがわかっている夕食のときとかぎっていた。口臭が気になるからである。
 焼き肉屋や餃子屋で食べ終わって外に出るときに臭い消しのためのガムをサービスとしてくれるようになったのは80年代からではなかったろうか。
 私の子ども時代は薬用(滋養用)でしかなかったニンニク、これが食用・薬味として普及していく中でその臭いもまたひろまっていったのである。

 このようにニンニクに縁のあるジンギスカンはモンゴル、餃子は中国料理といわれていたせいかどうか、韓国料理とニンニクを特に認識することなしに過ごしてきた。キムチという名前を知ったのはいつ頃だったのか(あのころは今のように日本で普及していなかった)、なぜかまったく覚えていない。勤務先の近くにある焼き肉屋に安くていいので研究室の仲間や院生といっしょによく行くようになった80年ころには間違いなく知っていたが。そのころは韓国料理店が仙台市内にいくつかできたころでもあった。

 それにしてもよく日本人はニンニクを食べるようになったものだ。キムチも食べるようになった。90年代に入ってからではなかったろうか、店頭にキムチが並ぶようになった。
 それに対応してわが国のニンニク生産量も増加し(中国からの輸入でかなり苦しめられたが)、とくに青森県は全国一の産地として確立した。

 1991年のことである、尊農攘夷派・海外旅行拒否派だった私が学部の公用でやむを得ず韓国の済州島に行かざるを得なくなった(註4)。仙台からソウル経由で済州島に行くのであるが、当時の仙台空港は国内線乗り場から離れところに国際線乗り場があり、それも本当に小さな建物だった。そのなかに入ったら、嗅いだことのある臭いが待合室中にただよっている。ニンニクの臭いである。なぜなのだろうと考えた。そうだ、当時の仙台空港は国際空港とはいえ発着するのはソウル往復便だけ、平均すれば搭乗する客の半分は韓国の方、韓国料理にはニンニクがたくさん使われる、それで臭うのだろう。これが私の結論だった。
 そうなると当然ソウルの空港は臭うはずである。当時は金浦空港だったが、想像通り、やはり臭った。
 しかし、帰路の金浦空港、仙台空港はまったくニンニクの臭いはしなかった。四日間の滞在中に食べた韓国料理(済州島の料理だったが、うまかった)のせいでニンニクの臭いに対する敏感さがなくなったのだろう。そして自分の口から、身体から臭いを発するようになっていたのではなかろうか。

 そのときにふと考えた、韓国の人が仙台空港に降りて国内線の建物に入ったとき、どんな臭いを感じるだろうかと。思いついたのはたくあんの臭いだった。当時の日本人はまだたくあんをよく食べていたし、水洗便所ではないところが多かったからだ。でも、私はまったく感じない。慣れているから感じないだけなのだろうか。たくあんはニンニクのように口臭、体臭の原因とはならないようなので臭いがしないのではなかろうか。そんなことも考えたのだが、よくわからなかった。

 それから数年後、またソウルに行く機会があった。
 仙台空港の国際線乗り場はまったく臭わなかった。新しい空港ビルができ、国際線の発着便も韓国からだけでなくなったためだろう。
 ソウルの到着空港はインチョン(仁川)国際空港、ここも臭わなかった。建物が新しくできたばかり、他国の乗降客の多さからなのかもしれない。

 それでは今はどうなっているか。昨年韓国に行ったST君(山形在住の中堅農経研究者)に聞いたら、インチョン空港はニンニクの臭いがするという。建物ができてからもう二十数年、ニンニクの口臭・体臭が蓄積して臭うようになったのだろうか。
 新築から同じくらい年数のたつ仙台空港の方は国内・国際空港線乗り場ともに何も臭わない、と私は思うのだが、ST君に言わせると外国長期出張から帰って来た時空港はたくあんの臭いがするとのことである。しかし私には信じられない。もちろん昭和の時期までなら考えられる。しかし今本当にたくあんの臭いがするだろうか。日本人のとくに若者のたくあん離れが進み、便所の水洗化が進んでいるからだ。よくわからない。

 今たくあん離れといったが、韓国では若者のキムチ離れ、ニンニク離れが進んでいるという話を聞いたことがある。グローバル化の名の下に多国籍企業の世界支配・アメリカンスタンダード化・ファストフード化が進み、世界の多様な食が一律化されつつあるが、それが韓国でも進行しつつあるのだろうか。
 といっても、ニンニクが食卓から完全に追放されることはないだろう。その栄養価、健康への効果が高く評価されているからだ。そのニンニクやキムチが韓国産でなくなりつつあることが問題だが。

 日本でもニンニクが食べられなくなるということはないだろう。健康への関心が強まる中で評価は高まりつつあるし、餃子、焼き肉等は若者に好まれており、洋食にはガーリックということで広く用いられているいるからだ(国内の生産地は相も変わらず輸入で困らされているけれども)。
 しかし、たくあんはそうはいかないだろう。家庭でたくあんを漬けて食べるという風習がなくなりつつあるし、塩分減らせの大運動でたくあんは悪者になって愛好していた高齢者も食べなくなっているし、生まれてから一度も食べたことがないという子どももいるとのことだからだ。欧米崇拝の日本人のことだからやがて消え去ることになるのだろうか。
 もう一方で、たくあんの輸入が増えているという。いうまでもなく大根をつくる土地が足りなくてではない、耕作放棄地をつくりながらだ。やがてたくあんも外国産ということになってしまうのだろうか。それで本当にいいのだろうか。

 また空港での臭いの話に戻るが、先日昔の組合運動で仲間だった連中と飲んだ時、そのうちの一人が言った。外国人旅行客は「日本の空港は醤油の臭いがする」と言っていると。
 たしかに醤油は独特のにおいがする。しかし、醤油が口臭や体臭に影響すると聞いたことはないし、空港で感じさせるほど日本人は醤油を使っているのかと疑問になった。でも、もしかしてラーメン屋や日本そば屋をはじめとする空港の食堂からの醤油の臭いがそうさせているのかもしれない。
 醤油は日本の文化、それほどいやな臭いでもなし(人にもよるかもしれないが)、外国でも「スシ」などといっしょに普及しつつあるとのこと、まあこれはこれでいいのではなかろうか。

 さて、漬物小屋の話からニンニク、空港の話まで来てしまったが、もう一度後戻りして、かつての農家の家屋敷と臭いについてもう少し述べさせてもらいたい。

(註)
1.このことについては本稿のどこかで書いているはずなのだが、どこだったか思い出せない。重複したかもしれないが、お許し願いたい。
2.その年の4月に母が亡くなり、それを契機に毎朝毎晩食事前に祖父といっしょに仏壇の前でお経をあげるようになり、菩提寺に説教を聞きに行くようになったりしていたのである。
  10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」、
  13年6月24日掲載・本稿第五部「☆神仏の祭り今昔」(4段落)参照
3.12年7月23日掲載・本稿第四部「☆消えた麻、綿、桑、羊」(7段落)参照
4.12年3月28日掲載・本稿第三部「☆自国に誇りをもたない風潮」(1段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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