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養蚕、馬産、養豚と住居の臭い



              においの記憶(10)

          ☆養蚕、馬産、養豚と住居の臭い

 農家の働く場は田畑・林野などの屋外である。もちろん屋内での作業もあるが、それは小屋など住居以外の建物でなされる。だから、農家の住居の中のにおいが農作業で影響を受けるということはほとんどなかった。
 もちろん藁仕事などをいろりのわきの土間に筵を敷いて台所兼居間の電灯の光でやるときがあった。でもそれはあまりにも寒い日の場合、仕事が遅れていて夜なべでやらなければならない場合であって、めったになかった。だから稲わらの臭いが家屋のなかに残るなどということはないといってよかった。
 また、家畜の飼育小屋や漬物小屋等は住居の外に別途建てられているので、天候や作業のかげんでたまに住居に臭いが入ってくることはあるが、それもめったにない。
 田畑の作業や家畜の世話で身体についた臭いも、家に上がる前に井戸水で軽くではあるが流すのでほとんど臭わなくなっているうえに、いろりの煙や台所の料理の臭いなどで消される。
 なお、生家の場合台所兼居間の屋根の太い梁に貯蔵用の米俵が数俵ぶら下がっていた(註1)が、その臭いに気がつくのは秋遅くに米俵をあげた2~3日間くらいであり、頭上高くに煙抜きがあっていろりからの温かい空気といっしょにそこからそのにおいも抜けるからなのだろう、日常は米俵の存在に気が付かないほどにおわなかった。
 だから、家族の生活する住居は農作物、家畜、農作業の臭いの影響はほとんど受けないことになる。
 しかし、それは私の生家やその周辺の農家のことであって、経営する作目・部門によっては臭う場合もあった。住居の中で作業する必要性のある作目・部門を導入している農家がそうだった。

 養蚕をいとなんでいた私の母の実家がまさにそうであり、蚕の飼育作業が屋内でなされる必要があること、蚕の飼育管理は夜中も必要であること、暖房の火気が必要であること等から蚕の飼育は人間の住む住居のなかでなされるので、その飼育期間は独自の臭いが住居のなかを支配したのである(註2)。
 前にも述べたが、蚕を飼う時期になると普通は座敷になっている部屋の畳やござが片づけられて板の間となり、そこで蚕が飼われる。人間様の住むところよりも蚕の住むところがまず確保され、部屋から追い出された家族は蚕に占領されていない部屋に固まって寝ることになる。そして蚕は炭火などの暖房がおかれた暖かい部屋で過ごす。そして食べ物の桑は人間が運んできてくれるので、何の苦労もなしに欲しい時にいつでも新鮮な葉を食べることができる。まさに「おごさま(お蚕さま)」であった。この季節に母の実家に泊まりに行くと、蚕が桑の葉を食べるカシャカシャという音が気になってなかなか眠れなかった。一匹が食べる音は当然小さいが、何千何万匹となるとけっこうすさまじい音になるのである。同時に、蚕とその糞独特の臭い(これまた数が多いのですさまじい)、桑の葉のにおい、蚕座の原材料の竹や簇(まぶし)の原材料の稲わら(註3)のにおい、飼育棚を組み立てている木や竹のにおい等々が蚕室となった部屋だけでなく、家中を支配していた。いい匂いとは必ずしもいえないが、がまんできないほどの悪臭でもない。それで最初はちょっと気になるが、慣れてくると特に何とも感じなかった。
 飼育期間の初夏から初秋を過ぎるとようやく住居はすべて人間の住処となる。においの発生源はなくなる。しかしやはり残り香は強く、それが私にとっての母の実家のにおいだった。
 母の実家は戦後養蚕をやめたが、かなり長い期間住居のなかにその臭いが残っていた。やがて新改築でその臭いは完全に消えてしまった。
 母の実家から約4㌔くらい離れた山奥に嫁に行った叔母の家では養蚕を続けたが、60年代後半から「屋外飼育」(註4)の技術を導入したので住居のなかはかつての残り香しかなくなり、80年代後半に養蚕をやめて酪農に専念するようになって約30年、その残り香もほぼ完全に消えてなくなってしまった。養蚕の盛んだった福島、山形内陸、宮城県南でも90年代の繭と生糸の輸入制限の撤廃で養蚕農家はほとんどいなくなっている(註5)。もうあのなつかしい臭いをかぐことなしに私はこの世を去ることになるのだろう。
 それはそれとして、かつて宮城県南や福島、山形内陸などの養蚕地帯では独特の形をした二階建ての家が見られたが、この二階は生活のためではなく、蚕の飼育のためであった。
 家のつくりは生活よりも生産が優先されていたのである。広い土間も、雨や雪のときの、また冬の、仕事の場としてもつくられたものであった。南部曲がり家などもそうだった。

 岩手県旧南部藩領の地域ではかつて馬の飼育作業を住居の中で行っていた。そのために馬産農家の住居は独特の構造をしていた。人の住む母屋(おもや)と馬の飼われている厩(うまや)=馬小屋が一体となったL字型の家屋で、つまり同じ屋根の下で人と馬が暮らし、人が馬を飼育する作業をしていたのである。
 といっても、私が東北各地を調査等であちこち歩き始めたころの1960年代には馬産は衰退しており、曲がり家にそのまま住んでいるお宅もなくなりつつあり、話に聞くだけでしかなかった。80年代になって遠野で初めて見せてもらったが、それは展示のために移築したもの、生活実感がわかなかった。昔話のような感じだった。
 90年ころではなかったろうか、山形県置賜地方の飯豊山麓の集落でその曲がり家を見たことがあった。山形にも曲り家があったこと、しかも農家が実際に居住していること(もう馬はいなくなっていたと思うが)に驚いたのだが、集落のもっとも奥の林に隠れてひっそりと建っているかなり大きな曲がり家、何かものすごくなつかしくて、寂しくて、息苦しくさえなった。なぜかわからない、先祖から受け継いだ血がそうさせたのだろうか。目的地はその地区ではなく、時間もなかったので立ち寄らせてもらうことはできなかったのだが、無理を言ってお邪魔させてもらえばよかったと今でも後悔している。そこまで思いがありながら、その家のあった地域がどこだったか思い出せない、飯豊町中津川か川西町玉庭かのいずれかのはずなのだが。夢であったわけはないからとパソコンで検索して調べてみたら玉庭地区のようであり、何戸か現存しているとのことである。できたらもう一度行って見せてもらいたいものだ。
 それはそれとして、曲がり家は岩手(旧南部藩地域)を中心に、秋田、山形、青森の一部地域に存在したとのことである。それではなぜ馬を同じ家屋の中で飼育するような建築様式にしたのかだが、いっしょに住むことで馬を冬の厳しい寒さから防ぎ、また馬の監視・管理がしやすいようにするためだったとのことである。たしかに、外に馬小屋をつくって飼育されるよりは、かまどやいろりの火があってつくりの頑丈な人間の居住空間のなかで飼育された方が温かくて馬の健康にはいい。また、家の中にいっしょにいるのだがら絶えず馬を監視することができるので、病気や事故なども防げるはずである。
 しかし、問題は臭いだ。馬の糞尿の臭い、敷き藁の臭い、馬それ自体のにおい等々が厩から直接人間の住む場所、座敷や台所等に入り込み、さらにはそれが住居全体に充満するのではなかろうか。
 ところがそうはならないのだそうだ。
 厩と家族の住居との間に広い土間(えさなどの資材置き場や作業場、煮炊きの場所として利用していた)があること、つまり両者の間に広い空間があること、居間のいろりや土間のかまどで焚く火で温められた空気や煙が厩の屋根裏を通って排出されるようになっていることなどから、厩の臭いが人間の住むところまで来ないのだそうである。これも農家の知恵なのだが、馬を飼育しているときの曲り家に入ったことがないので、実際にどうだったのか私にはわからない。でも、もしかしたら馬ならそんなに臭わないかもしれない、牛でも大丈夫なのではなかろうか。しかし豚や鶏と人間との同居ならそうはいかなかっただろう。だからそういう話は聞かなかったのかもしれない

 馬産が衰退し、曲がり家もなくなっていたころ、1960年代以降のことに話は移るが、農業基本法農政の展開の下で畜産など成長農産物の振興がうたわれるなかで東北の米どころでは養豚の導入・拡大が急激に進んだ。山形県の庄内平野などはその典型だった。どこの農家も住居の裏に豚舎を新築し、10頭、20頭と飼育するようになった。ご存知のように、豚糞は牛馬糞と違って非常にくさい。かつての1~2頭飼いのときでもそうで、だから屋敷地の奥などに小屋をつくって家屋にその臭いが届かないように、ハエなどが飛んでこないようにしていた。その豚糞が10倍にも20倍にもなるのである。しかもそれが蓄積していく。肥料としてすぐに田畑に散布するわけにはいかず、堆積して腐熟を待たなければならないからだ。さらに尿の処理も問題だ。溜まっていく。あふれて畑や田んぼにまで流れる。当然のことながらその臭いは住居の中にもただよってくる。自分の家だけならまだいい、隣近所の住居にも臭いがただよっていく。その隣近所も同様に豚を買っているのだから、集落全部が豚の糞尿の臭いで包まれ、風の具合などで他の集落にまで臭ってくる。蠅も昔以上に飛ぶ。消毒すればその薬に強い蠅が生まれてまた乱れ飛ぶようになり、当然住居まで入ってくる。水路も汚れる。いわゆる畜産公害の発生だった(註6)。その解決には金がかかる。一方で貿易自由化が進む。結局やめざるを得なくなり、農家養豚は消滅し、仕事を失った若者たちは農外に流出するようになり、企業養豚が生産を支配するようになった。
 臭いが農家をつぶしたのである。もちろん根源は貿易自由化・資本の畜産進出にあったのだが。

★JAcomコラム欄への執筆について

 4月半ばのある朝、東京大学の元教授森島賢さんから突然電話が来た。もうしばらくお会いしていないのだが、農業協同組合新聞でその名前をときどきお見受けはしており、元気で活躍なさっていることは知っていた。
 その新聞のことで電話したと森島さんはいう。そしてこう続ける、農協新聞の電子版JAcomのコラム欄に執筆しないかと。私のこのブログを読んでいるが、それをつづめたものでもいいとおっしゃる。
 しかし、私には二つも並行して書く能力はない。それで申し訳ないがとお断りさせてもらった。しかし森島さんの説得にとうとう負けてしまった。新聞を読ませてもらってきた義理もある。それで、私のブログに書いたものをコラムで重複して使うこととコラムに書いたものを私のブログでも使うことをお許し願うという条件で、『昔の農村・今の世の中』という題で、4月末から毎週木曜日に書かせていただくことにした。ご了解願いたい。
 ところで、これからの参考にとコラム欄を拝見していたら、執筆者のなかにもう何十年もお会いしていない佐藤喜作さん(秋田県)や秋田義信さん(青森県)の懐かしい名前を発見した。また、森島さんをはじめ、鈴木宜弘さんなどの研究者もおられる。よろしければ「JAcomコラム」を検索してごらんいただきたい。

(註)
1.10年12月7日掲載・本稿第一部「☆米をつくっても米が食べられない農家」(1段落)参照
2.11年1月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(3段落)参照
3.11年7月18日掲載・本稿第二部「☆養蚕の技術革新と大規模桑園の造成」(2段落)参照
4.11年7月18日掲載・       同        上       (3段落)参照
5.12年2月29日掲載・本稿第三部「☆小かごに摘んだはまぼろしか」(1~5段落)参照
6.11年8月1日掲載・本稿第二部「☆平坦部への施設型畜産の普及」(3段落)参照
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コメント

[C78] わくわくが増えました!

JAcomのコラム、読みました!

読みなれた文章でも、枠?が変わるとまた新鮮ですね!

今の世の中、インターネットも書籍もよく目に付くほとんどが他者の書いた文章の抜出(まとめ?)ばかりな中で、やっぱり酒井さんの文章は輝いています。

今の自分の記憶を自分の言葉で、また、今の大きく変わった世の中に身を置く自身の感動をこめて形づくられる素直な文字の連なりにはいつも大きなパワーを与えられております。
  • 2018-05-20 00:13
  • くもり
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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