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山形の草履表生産


              においの記憶(11)

         ☆山形の草履表生産―臭いからの想起―

 前回掲載記事の最後に集落の悪臭のことを書いたが、それでふと思い出したことがある。誰に聞いたのかも忘れたし(山形県農試に勤めていたIHさんではなかったかと思うのだが)、その内容も極めて不確かなのだが、それはこんなことだった。
 「山形の西村山郡で戦前盛んだった草履表づくりの農家の副業がすたれはじめた戦後、スリッパ(だったかサンダルだったか)の底=台部に表(この具体的な素材は覚えていない)を貼り付ける内職が農家でなされるようになった。その張り付けるときに使う薬剤(ゴム糊と言ったような気もする)のいやな臭い(硫黄の臭いと言っていたような気もするのだが)が家の中からもれてきて集落中にただよい、そこを通ると気持ちが悪くなったものだった、数年で衰退してなくなったが」
 戦前の草履表生産については私も調べたことがあるのに、なぜあのときこの話をきちんと聞いて正確に記録しておかなかったのか、後悔している。もしもこれが事実に近いとするなら、負の歴史は残されないものなので記録されておらず、やがて忘れ去られてしまうかもしれないからだ。どなたか記録しておいてくれているといいのたが。
 それはそれとして、農家の副業として行われた戦前の草履表生産について私がかつて調べた話、これは書き残しておいてもいいのではないかと思い、ここで触れさせていただくことにする。

 私の研究者としての駆け出しのころ(1960年ころ)、昭和初期の山形県村山地方における小作争議の調査で小田島村(現・東根市)に行った時のことである。この村の農家が稲作と養蚕を営んでいることは知っていたのだが、冬期間の副業として草履表の生産を行っていることをその時に初めて知った。そして隣町の谷地町(現・河北町)を中心に周辺の町村とともに全国的に知られる大産地を形成していたというのである。戦後の草履需要の急激な衰退でほぼ姿を消したので、つまり私の子どものころに衰退してしまったので、そんなことを私はまったく知らないで育ったのだが、その草履表が小作争議発生の一因となっていた。それを論文(註1)のなかに書いたのだが、いま家屋の中の作業ということを書いていたらしばらくぶりでその草履表のことを思い出した。

 ところで、この「草履表」とはどういうものか、今の若い方々はわかるだろうか。いくら何でも草履は知っているだろうし、それにもいろいろな種類があることも知っているだろうが、一度も履いたことがない人もいるのではなかろうか(ついでにいえば、下駄を履いたことのない人もいるのではなかろうか、何とも悲しい現象である、などだと思うのは年寄りの感傷だろうが)。
 そうなると草履表を説明しなければならなくなる。しかし、いざ説明しようとなるときわめて難しい。辞書にも書いていないので全国共通の理解もわからない。ネットで検索すると写真がでてくるのでそれで理解してもらえればいいと思うが、この地域でかつてつくった草履表について私なりに説明すれば「草履の表面上部(足の当たる部分)を覆うもの」であり、山形村山の場合は稲わらのみごをその素材(註2)として畳表のように織ってそれをつくった、こういうことになろう。なお、『みご』とは「稲わらの外側の葉や葉鞘を取り除いた茎の部分」で、畳表のイグサに似て細く長くつややかで丈夫であり、これを漂白して編んで草履の表面に張り付けるときわめて履きやすくまたきれいになるので、草履表の素材としてぴったりだった。なお、この山形の草履表は下駄の表面上部を覆う「下駄表」としても使われたとのことである。

 この草履表の生産は長い冬期間の農家の副業として江戸末期に導入され、明治期に行政が推奨して普及したとのことだが、技術改良を重ねて昭和の初めには西村山郡を中心とする山形内陸は全国一の草履表の産地となった(註3)。小田島村でもほとんどの農家が草履表を生産するようになり、そこから得られる収入は欠かせないものとなった。一戸平均の経営面積は1㌶未満、稲作と養蚕を中心に生計を営んでいるのだが、当然生活は苦しく、土地を手放して小作農になり、高額高率の小作料を地主に納めなければならなくなっていた農家が大半だったからなおのことだった。農閑期の冬期間稼ぐ場所がないときに副産物の稲わらで収入を得ることができるのである。
 そうなると稲わらは非常に貴重なものとなる。したがって、小田島村を含む山形内陸西北部の農家にとって稲作は、米の多収に加えて、草履表に適する良質のわらの確保が目標となった。幸いなことにそれに適合する品種があった。「豊国(とよくに)」である。山形県庄内の農家が明治中期に選抜した品種なのだが、当時普及した大豆粕や魚粕などの有機質肥料に対応した多収品種である上にその稲わらは背丈が高く、節間が強く、漂白が効くことから草履表には最適の品種だったのである。
 この稲わらを小屋などに貯蔵し、必要に応じて稲の葉などを取り除いてみご状にして家のなかに入れ、いろりのまわりなどに働ける家族みんなが座って草履表をつくる、こうした情景がどこの家でも見られたものだったという。
 となると、冬期間の家の中はみごのにおいでいっぱいだったはずである。稲わらのようなきついにおいではなく、けっこういい匂いなので、気分がよかったのではなかろうか。
 しかしそれは冬期間のみ、夏には家の中で蚕を飼うので、今度は蚕と桑の葉と蚕具(わら・竹工品)のにおいで包まれることになる。
 ただし、私が小田島村の農家におじゃましたのは草履表の生産や養蚕をやめて十数年経っていたころ、もうそんなにおいはしなくなっていたが。

 さて、さきほどこの草履表生産が昭和初頭の小作争議発生の一因となったと述べたことについて若干触れておきたい。
 大正末から昭和にかけて稲作技術は一つの転換期を迎えていた。これまでの有機質肥料(大豆粕と魚粕)とそれに対応する品種から、硫安など化学肥料とそれに対応する多肥多収品種への切り替えによって米の増収を図るという方向に変わってきていたのである。ところが、この地域でつくっている品種の「豊国(とよくに)」は明治期に開発された品種で、化学肥料を投入すると徒長して倒伏してしまう。これでは米が減収するばかりでなく稲わらが使えなくなって草履表の生産ができなくなる。そこでやむを得ず今まで通り「豊国(とよくに)」をつくる。そうなると米の収量はあがらない。
 そこに昭和2年の金融恐慌、昭和4(1929)年の世界大恐慌で米価は大暴落とくる。当然、草履表の価格も暴落、さらには繭の価格も大暴落、普通の年でさえ高い小作料はおさめられず、高利の借金は返せず増えるだけ、食べるものもろくになく(註4)、もう生きていけない。そこで農家は農民組合をつくり、地主や高利貸しに対する小作料引き下げ、借金棒引きの運動を展開した。それは激しく弾圧され、とくに小田島村では「小田島事件」として当時有名になるのだが、こうした運動の展開が戦後の農地改革の基礎となったのである。

 明るさの見えたその戦後に、それを勝ち取るために闘ったこの西村山で、そしてみごのいい匂いのしていた家々のなかにもしも貼り付け剤のいやな臭いがただよい、集落内にもただよったとするならちょっとがっかりなのだが、草履表生産の伝統がこの地域のスリッパ産業の生成へと引き継がれ(註3)、地場産業として定着しているとのこと、これはこれでうれしい(最近は途上国からの輸入でかなり大変とのことだが、がんばってほしい)。
 話はちょっと飛んでしまったが、次回からまた「におい」の話に戻ろう。

(註)
1.酒井惇一『昭和恐慌期における「貧農的」農民運動の研究―山形県村山地方の運動史から―』、1965年6月、「農業経済研究報告」6号、59~103頁
2.この地域では「みご」が草履表の素材だったが、他の地域には竹皮、棕櫚葉、藤皮等を素材としてつくっているところがあった。
3・http://www.pref.yamagata.jp/ou/shokokanko/110010/kogeihin/cate11-02.html 品目紹介山形県ホームページ、
  http://slippers.kahoku-shokokai.jp/pages/ayumi.html 物の歩み/山形県スリッパ工業組合
4.10年12月07日掲載・本稿第一部「☆米をつくっても米が食べられない農家」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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