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真夏の太陽のにおい



            続・においの記憶(2)

           ☆真夏の太陽のにおい

 干し草はおてんとさまの匂いと前回の記事で書いたが、それは「太陽のにおい」「真夏のにおい」と言い替えることもできる。しかし、真夏といえば、太陽と言えば、ギラギラとした印象がある。一方、干し草のにおいはそんなきつい印象ではなく甘くやわらかい。それで、干し草はやはり「おてんとさまの匂い」と優しく言いたい。

  「真夏のにおい」、「太陽のにおい」と言えば、道端に群生するだんごっぱな(シロツメクサの花=私たちの地域の言葉でいうとミツパの花)のにおいだろう。これを摘んで首飾りをつくって遊んだり、山羊のえさとして採って食べさせたりしたのだが、この花のにおいは悪臭とまではいえないけれどもいい匂いとは決していえず、かなりきつい。このだんごっぱなが江戸時代の帰化植物であったことを知った時、なるほどそういえば洋風のきついにおいがするなどと考えたものだったが、それはそれとして、この花のにおいをかぐとああ夏だなあと改めて感じたものだった。私にとっては夏のにおいだったのである。
 さらに強烈に真夏を感じさせるのはトマト畑のにおいだった。これは匂いではなく、臭いの方である。

 本稿の一番最初の章で私はこう書いた、野菜は「『みんな違ってみんないい』匂い」だと(註1)。しかし、必ずしもそうではない。私の好きな菜の花がそうだ。春に食べる葉やつぼみはそれほど感じないが、満開の菜の花はあまり好きなにおいではない。それが一面に広がると目には見事だが、鼻はあまり喜ばない。それでも菜の花などはまだいい。がまんできる。しかし畑一面のトマトとなると大変だ。
 といっても今のトマトの話ではない。半世紀以上も前の話だ(今の品種は大きく変わっており、臭いはするがそれほどではない、同時に実の甘さも少なくなっているが)。
 また、トマトの実の話ではない。実も臭うのだが、完熟すればまったく違って甘い匂いがする。
 問題は茎葉の匂いだ。幼苗のころから臭うのだが、収穫時期の真夏になって茎葉が繁茂すると一種独特のすさまじく青臭いきつい臭いが畑中にただよう。
 生家では早朝に主作物のキュウリ、午後晩くから同じく主作物のトマト・ナスを収穫するのだが、もちろんみんなにおいを発する。キュウリの茎葉もけっこうきつい、でも同じ青臭さでもどちらかといえばまあいいにおいだ。生のまま味噌をつけて食べようと洗って食卓においたときにただようにおいは本当に食欲をそそる。ナスはそれほどにおわないが、これもいい方の匂いに入る。しかしトマトとなるととんでもない、鼻が痛くなる。
 温床(註2)で種子から育て、畑に移植したトマトの茎はやがて私たちの背丈以上に伸び、葉っぱがトマトの実をかくすくらいに繁る(かくれた実を見落とさないようにするのが大変、しかし完熟した赤い実を収穫するのではないので見落としてしまうこともあった)。そこに真夏の太陽が照り付ける(4時過ぎでもきつい)のだから、その臭いは畑中にむんむんとひろがっており、そのあまりの強烈さに鼻をつまみたくなる。しかし、そのつまむ手も臭くなっている。収穫している最中に茎葉はどうしても手に触ってしまうし、果実はにおわないといっても完熟していない実を素手で(もちろん手袋などない、手袋は冬にするもの、そんな贅沢はしていられないし、そもそもそんなのをしていたら暑くて今で言う熱中症になってしまう)採るのだから、手指も臭くなっているのである。そもそも鼻をつまんでなどいたら仕事にならない。そのトマトの収入で一家が食べているのだから(もちろんトマトだけではないが)そんな贅沢を言っていられない。
 そういうきつい臭いからだろう、かつてトマト嫌いの人がけっこういた。私の祖父も食べなかった。でも、仕事はしないわけにはいかず、畑に入る。私も我慢して畑に入って収穫する。そのうち鼻が慣れてくるせいかあまり気にならなくなる。腰にぶら下げている「はけご(稲わらを編んでつくった入れ物で、手提げ・腰提げとしてあるいは背負い籠として用いられる)」がトマトでいっぱいになったら、あぜ道に出て大きなかごに入れ替える。そこで一息ついてまたもとの場所に帰ってトマトもぎを再開する。
 このトマト畑の、「トマトもぎ」(註3)の臭いが私にとっての真夏のにおいの一つだった。

 旧山形市街地は城下町だけあって道は鍵形に曲げられていたり、袋小路になっていたり、丁字路になっていたり、ともかく複雑だった(私は好きだった、車社会にあわせてもう今はなくなってしまったが)。ところが、市街地から発する道路は真っすぐ、きわめて単純だった(これも戦国時代の戦略上からとのことである)。前に述べた市の東部にある千歳山(註4)の頂上などから見ると田畑の中を四方八方に真っすぐに伸びる道路は本当に見事だった。私たちの習った音楽の教科書にある『長い道』(註5)の唄うところのまさに「どこまで行っても長い道」だった。最初はそれも珍しくて面白いのだが、歩いているうち退屈してくる。変化があまりないからである。
 あのころのことだから道路はもちろん舗装などされていない。だから真夏などは道路の乾いた土が細かい白いほこりとなって舞い上がる。それは下駄の鼻緒と素足を真っ白に染める、足はもう肌色とはいえない。さらさらとなった肌にくっつかなくなったほこりはときどき口元あたりまで上がってくる。真夏の暑い日の光を吸って乾いたほこりとなった土の暑いにおいが鼻をくすぐる。そのうち顔も真っ白になってくる。汗が一筋、二筋と白い顔に肌色の跡をつけて垂れていく。そのうちのいくつかが目に入り、沁みて痛い。ズボンのベルトに下げていた手拭い(通学のときをはじめ遠くに行くときは必ず携えるよう学校や親から言われていた)をとって、顔の汗を拭く。手拭いは真っ黒になる。途中の集落にどっこんすい(自噴水=泉)があったり、井戸があったりすると、水を飲ませてもらい、顔を洗い、手拭いをすすいで元気回復、また歩き出す(註6)。手拭いはすぐに乾き、またさらさらすべすべした白いほこりが手足に顔につく。そんなことを繰り返しながら目的地の親戚の家に着く。この乾いた道路と道端の草、まわりの田畑のまじりあったにおい、そしてほこりのにおい、汗のにおい、私の能力ではうまく表現できない。でもそれは私にとって真夏の太陽のにおいだった。

 そのもっとも強烈なのが、舗装道路のコールタールの溶ける臭いだった。
 真夏、太陽がじりじり照り始め、逃げ水が遠くに見え始めるころ、舗装道路(まだ少なく基幹道路だけだったが)のコールタールがやわらかくなりはじめる。私たちはおもしろがってその上を歩く。下駄の歯の跡がつく。棒きれをさがし、字や絵を描く。しかし太陽の熱ですぐにぐにゃっとなって溶けてしまう。そこを自動車が通るとタイヤの跡がつく。そんなことをしているうちにコールタールの溶けた何ともいやな臭いがしてくる。下駄やズックがコールタールのなかにめりこみ、とれなくなってしまうこともある。もうたまらない、とくにその太陽な暑さとこれまで嗅いだことのなかったコールタールの異様な臭いにはたまらない。みんなでいっせいに逃げ出し、日陰の木の下か軒下に入る。
 翌朝、その道路を通ると2本の平行な線がコールタールに刻まれている。何台かの車が通っているうち復元力がなくなって気温の下がった夜にそのままの形となって残ってしまったのだろう。そのために自動車も人も通りにくくなったでこぼこの道、そしてコールタールのいやな臭いは、改めて灼熱の太陽のすごさ、怖さを感じさせたものだった。戦後の道路の舗装の中心がコールタールだった(註7)ことから、私などはこれを私にとっての「戦後のにおい」の一つとも言いたくなるのだが。

 ところで、私たちにはなじみの深かったコールタールも若い方はご存じないのではなかろうか。石炭からコークスを生成するときに副産物としてできる黒いねばねばした液体で、木材防腐剤や染料,薬品,合成樹脂,可塑剤、道路舗装等々の原料として利用されたものである。やがて道路舗装は石油から精製したアスファルトに切り替えられる等々で、今はあまりコールタールは見られなくなっている。
 なお、コークスという言葉も若い人たちはわからないのではなかろうか。コークスは高熱を発するので製鉄などで重要視され、私たちの身の回りでいえば鍛冶屋さんがよく使っており、さらにコークスストーブ(これは火力が強いので暖かかった)を使っているところもあった。また、蒸気機関車の通った後の線路に石炭の燃え滓のコークスが落ちているときがあり、子どもの頃の私たちはそれを拾って風呂の燃料にしようとポケットに入れて家に持ち帰ったりしたものだった。黒いコールタールが抜けてたくさんの細かい穴の空いた軽いきれいな銀色のコークス、見なくなってもう何年たつだろうか。

 このコールタールのやわらかさと固さで思い出した。桜の木についている茶色のヤニや松ヤニだ。これはコールタールと逆で幹や枝から出たばかりのときはやわらかく、やがて固くなっていくのだが、それを見つけるとそれを人差し指と親指の先っちょにつける。それを何回かくっつけては離し、離してはくっつけているとヤニが両指の間で白い細い糸を何本もひくようになる。その糸がどれだけたくさん出るかを友だちや兄弟と競争する(註8)。こんな遊びをしたのだが、このやにを見つけるのが多い時期は夏である。セミ取りをしているときに近づく桜や松の木でヤニを見つけ、セミ取りを忘れてついついヤニで遊んでしまうからである。このヤニのねばねばした感触と生臭いにおい、これも真夏の太陽のにおいだった。
 遊びのにおいでもう一つ思い出すのは、アオガエルを捕まえ、べっき草(オオバコ)の葉を採って「べっきどん」の遊び(註9)をするときのことだ。アオガエルの生臭さとべっき草の青いにおい、からからに灼けた道路の土と小石のにおい、これも真夏のにおいだった。
 こんなことを書いているうちにまたいろんな遊びのいろんなにおいを思い出してしまうのだが、これはもう省略しよう。

(註)
1.10年12月3日掲載・本稿第一部「☆幼いころの農の情景」(5段落)参照
2.11年3月11日掲載・本稿第一部「☆『循環型』だった農業」(6、7段落)参照
3.トマトの収穫作業については本稿の下記掲載記事を参照されたい。
  10年12月17日掲載・本稿第一部「☆本格的な農作業と技能の伝承」(1段落)、
  11年4月1日掲載・本稿第一部「☆山形発仙台行の野菜」(2段落)、
  16年12月12日掲載・本稿第八部「☆幼い頃の私と外来野菜」
4.16年10月24日掲載・本稿第八部「☆山菜『採り』・『盗り』」(1段落)参照
5.林柳波作詞・下総皖一作曲・文部省唱歌、1941(昭16)年
6.12年7月27日掲載・本稿第四部「☆もらい水からペットボトルへ」(1、2段落)参照
7.山形の戦前の舗装道路はコンクリートだった。これはかなりがっちりしていたが、戦後その補修にコールタールを使うようになり、やがて新たな舗装道路はコールタール舗装が普通になった。これは簡単で安価だったようである。そのかわりに柔らかすぎる等々の問題があったが。
8.11年1月31日掲載・本稿第一部「☆豊富だった遊びの材料」(2段落)参照
9.11年1月28日掲載・本稿第一部「☆べっきどん、おごんつぁん」(1段落)参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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