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戦後の屈辱のにおい



            続・においの記憶(8)

           ☆戦後の屈辱のにおい

 「あなたにとって『戦後のにおい』とは何ですか」
 こう聞かれたら、空襲を受けた大都市部のあるいは引き揚げの子どもたちはどう答えるだろうか。私たち山形に生まれ育った子どもたちは空襲とか引き揚げとかの被害を直接的に受けなかったので、同じ混乱した状況の中でも、きっと彼らとはかなり大きく異なるだろう。
 私の場合の戦後のにおいはまず、本稿第九部の「においの記憶」の章の一番最初に書いたアメリカ兵の体臭だった(註1)。これまでかいだことのない、戦後もっとも早く印象に刻まれたにおいだったからである。しかもいまだに忘れられない。
 このアメリカ兵を私たちは45年9月から毎日見て過ごすようになった。占領軍は私の家の目の前にある小学校を接収して兵舎とし、同時に私の家から畑越しに見える内務省最上川工事事務所も接収し、さらに同じ学区内にある商人地主の大邸宅を高級将校の邸宅として、また陸軍憲兵隊の施設を同じくMPの施設として接収したのだから、そしてそこに住む兵士たちが町の中を、近所を闊歩して歩くのだから、見たくなくとも見ざるを得なかった。そしてときどきあの体臭を嗅がされた。
 でも、徐々に少なくなってきた。戦後2年目には小学校が返還され、3年目を過ぎたころではなかったろうか、GHQなど日本統治のための施設と要員を残して、市内のアメリカ兵は旧日本軍の神町航空隊の跡地に移ったからである。
 それでも町の中でよく彼らを見かけた。「神町キャンプ」と呼ばれた米軍基地は、山形駅から北に五つ目(註2)の神町駅のところにあったので、列車に乗って山形に遊びに来るからである。もちろん県庁の近くにあったGHQへの公用で来るものもいたろうが。 
 そのために山形駅の一部は米軍の兵士や家族の専用の待合室として接収された。改札口ももちろん日本人とは違った。たまたま開けてあった待合室をのぞくと改修されていて広々としており、内装も椅子も本当にきれいだった。列車の1両は必ず米軍兵士専用(日本人立ち入り禁止)車両として使われた。それは日本の二等車(当時は三等車が今の普通車で、奥羽本線は一等車が走っていなかったはず、だから最高級車両だったである)並みだった。日本人専用車両は超満員、窓から出入りをしなければならない時代だったのに、彼らの車両はゆったり、あの広い車両に1人か2人しか乗っていないときすらあった。その彼らとすれちがうときのあのわが物顔をした尊大な態度、日本人を人とも思わない態度をする彼らの体臭をかぐとき、そのにおいはやがて私にとって屈辱のにおいとなった。
 こうした屈辱的な差別待遇はサンフランシスコ条約締結によりなくなってしかるべきたったのだが、アメリカ兵はいなくならなかった。神町キャンプはそのまま残り、私が大学に入るために来た仙台にもたくさんの米軍キャンプがあった。そして神町は「パンパン町」「オンリーさんの町」と呼ばれ、空襲の焼け跡の臭いのかすかに残る仙台では日本人が停電や断水で苦しんでいるときに基地内だけは煌々と電気がつき、プールの水を垂れ流しにして1人か2人ゆうゆうと泳いでいた。米軍専用として接収されたままの映画館もあった。
 1956年、ようやく神町基地と仙台の基地が返還された。これで差別待遇はなくなった、戦後の臭いであると同時に屈辱の臭いとなっていたあのアメリカ兵の体臭をかがなくともよくなった、と思ったのだがそうではなかった。占領軍の兵士は東北でいうと三沢で、首都東京のどまんなかで、そして沖縄本島の2割の土地等々でいまだに実質的に占領を継続し、特別待遇を受けていたのである。
 もう30年も前になるが、三沢の米軍基地のなかに入ってなかを見せてもらったことがある。そのとき彼らに対するあまりの特別待遇に驚いた(註2)のだが、それはそれとして、しばらくぶりで何十人かの制服を来た将校や兵士とすれちがった。そして戦後かいだあのにおいに近いにおいを何人かからかいだ。そのとき、まだ戦後は終わっていない、敗戦から40年も経っているのにと思ったものだったが、あれからまた30年、敗戦から4分の3世紀も経っているのにその状態はいまだに続いている。
 あの敗戦直後の臭い、屈辱の臭いが国内からなくなるのを見ることなしに私はあの世に行くことになるのだろうか。

 アメリカ兵とのかかわりでいうともう一つ、「戦後の臭いと言えばDDTの臭いだ」という人がいるのではなかろうか。
 敗戦後、ノミ、シラミ、ダニ、南京虫などを退治するためにとアメリカ兵からDDTを頭から振りかけられ、頭の髪の毛が真っ白にさせられた〈シラミは頭の髪の毛の中によくいたからである〉、もちろん拒否などできず、言うがままに頭から、顔から、背中と服の隙間から真っ白にさせられる、着替えなどもちろんなしでそのまま歩いて帰される。そのときには本当にいやな思いをした、屈辱を感じたという話を当時よく聞いたからである。
 しかし私はその体験がない。でも、私の一年下だった妹は小学校でやられている (米軍兵士によってではなかったようだが)。家内も、県は違うが、学校で頭に降りかけられたとのことである。頭の髪の毛が長くてシラミの繁殖しやすい女の子だけやられたのかもしれない。
 そうした問題はあっても、このDDTは本当に効き目があった(それまで蚤取粉とかいろいろな薬があったが、効き目はあまりなかった)。戦後流行した発疹チフス(シラミが伝染させた)の蔓延を抑える上でも大きな役割をはたした。
 やがてDDTは市販されるようになり、生家などでは大掃除のときには畳をあげた後の床板にまき、ノミやシラミが潜り込めないようにした。その結果、私たちのノミ・シラミによる痒さは本当に軽減した。私はそのころ初めてそのにおいをかいだのだが、これまでの薬品のイメージとはまったく質の異なるにおいだった(本節の最後に書いた「補記」を参照されたい)。
 アメリカ兵に振りかけられた人たちにとってそのにおいはまさしく戦後のにおい、敗戦の屈辱のにおいだったのではなかろうか。

 私たちの世代のなかにはこう言う人もいるのではなかろうか、アメリカ兵のくれたチューインガムやチョコレート、それを口の中に入れたときの甘い味、そして鼻を刺激する甘い香り、これが自分にとっての戦後の味、敗戦直後のにおいだったと。
 前にも書いたように(註3)、進駐してきたアメリカ兵が子どもたちにチューインガムやチョコレートをくれた。飢えていた子どもたちは争ってそれをもらい、さらにはゲブミーチューインガムと言いながらアメリカ兵に群がった。アメリカ兵はガムやチョコレートをばらまいて自分のまわりから追っ払い、子どもたちは争ってそれを拾って食べた。その子どもたちにはきっと戦後の味、戦後を思い出させるにおいとなったと思われるのである。
 でも、私たち兄弟は両親や祖父母から乞食のような真似はするなときつく言われていたので、うらやましく見ているだけ、したがってガムは戦後のにおいではなかった。
 しかし、チョコレートは戦後のにおいとなった。ちょっとだけ違った経緯でだったが。
 前に米軍兵舎のゴミ捨て場からものをひろってきた同級生が先生から怒られたという話をした(註4)が、その事件の2ヶ月くらい前。兵舎として接収された最上川工事事務所の近くで近所の友だちと遊んでいるときのことである(註5)。そこのゴミ捨て場で何かゴミを燃やしていた。そしたら一人の子どもがこっそりそこにしのびこんだ。まだ進駐してきたばかりで塀とか有刺鉄線で囲われていないときだから、簡単に入れた。そしてそのごみをあさって何か食べ物らしいものを拾ってきた。みんな興味深々、何だろうと思って見たら、銀紙に包まれていてその上の方が破れている。銀紙の中には、白い粒々が入っている焦げ茶色の板状をしたものが包まれていた。半分焼けこげていてまだ暖かく、ともかく甘いいい匂いがする。みんなでそれを少しずつ分けて食べようということになった。そんな乞食みたいなマネをするなと家族からは言われているものの、あまりのいい匂いの誘惑に私も負けて一口もらって食べた。ちょっとほろ苦いが、いい匂いがしてこんなに甘くておいしいもの、とろけるように柔らかい食べ物が世の中にあったのかと思うほどおいしかった。しかも、初めて食べるはずなのにそのにおいが、味がとても懐かしい。いつか出会ったことのある味である。そうだ、幼いころに食べたことのある味、戦争で完全に忘れさせられていた味だった。だからといって家族に聞くわけにもいかない。2、3日たってようやく思い出した。チョコレートだった。でも細かい白い粒々はわからなかった。これは、かなり後でわかったのだが、ピーナッツだった。要するにピーナッツ入りのチョコレートだったのである。
 このチョコレートのにおい、これも私にとっての「敗戦直後のにおい」だった。もちろん、幼いころ、つまり戦前にこの匂いはかいでいる、しかしその後あの激動の何年かをすごしたために完全に忘れさせられていた。だからこの匂いと味は太平洋戦争以前の相対的に豊かだった幼年時代をなつかしく思い出させたまさに「なつかしい匂い」だった。同時に、征服者であるアメリカ兵のゴミ捨て場から乞食のようにあさって拾ったものを、誘惑に負けてもらって食べるという恥ずべき行為をした自分の弱さ、卑しさを感じさせたにおいでもあった。なつかしくて甘くてしかも物心両面からのまさに「苦い」においであり、味だった。

 戦後1、2年目、脱脂粉乳など米軍払い下げの物資を中心につくられた学校給食のおつゆのあのいやなにおい(註5)、今でもそれに近い臭いをかぐと吐き気をもよおしてしまう、あのにおいも私にとっての戦後の臭いであり、敗戦のにおいだった。

 話は1950年以降に飛ぶが、そのころから先ほど述べたDDTが農薬としても使われるようになった。さらに強力なBHCという薬も手に入るようになった。そのころからではなかろうか、DDTやBHCを水稲や野菜に撒いて害虫にやられないようにするようになった。
 たとえばお盆明けに始まるハクサイの播種のとき、畝立てした畝の上を藁打ちに使う木槌の下の方でトンと突いて丸い円形の浅い穴をあけ、そこに3~4粒の種を撒き、さらにその上にDDTかBHCの粉をほんのちょっぴり撒いて土をかぶせる。こうすると幼苗を食べに来た虫が死んでしまう、あるいは寄ってこないので、本当に助かるのである。この種撒きの作業はちょうど夏休みの最後の頃なのでよく手伝わされたのだが、結婚したばかりのころの家内がその手伝いをしたことがあり、木槌の穴あけが面白かったと今でも話すのだから1960年ころまではまちがいなくやっていた。その後DDTやBHCの毒性が問題になってやらなくなるのだが、今考えてみたらとんでもない薬品を使っていたものである。あのDDT、BHCの臭い、これが田畑の生態系を大きく変える臭いともなったのである。でもあの当時は生産者消費者ともにみんな食料不足の解決、食料増産にしか目がいかなかった。
 こうして私はこのDDT、BHCの臭いと約20年付き合ったことになるのだが、いまだに忘れられない。それではどんな臭いがしたのかと聞かれても私の能力では説明できない。せめて無機的・化学的な臭いである、刺激臭だがそれほどひどくないくらいしか言えない。それでも、もしも今両方の白い粉を並べて嗅げば、これがDDTのにおい、これがBHCだと判断できると思う、のだが、はたしてどうだろうか。

(註)
1.18年2月26日掲載・本稿第九部「☆身体の臭いの記憶」(1~5段落)参照
2.これは当時のことで現在は7番目の駅となっている。
3.11年5月11日掲載・本稿第二部「☆水田面積の拡大」(4段落)参照
4.11年2月18日掲載・本稿第一部「☆ゲブミーチューインガム」(1段落)参照
5.       同   上                 (6段落)参照
6.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(2、4段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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