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戦後混乱期の農村(5)

  

            ☆蝋紙、朝鮮特需、鉄くず拾い

 ちょっと戦時中の話に戻るが、一九四四(昭和十九)年ころになると砂糖など甘いものはほとんど手に入らなくなった。困ったのはお菓子屋で、砂糖ばかりでなく他の原料も手に入らないものだから、ほとんど何も作れなくなった。そうなるとせっかく準備していた飴の包み紙などが大量に余る。使い道のなくなったその包み紙が子どもたちのおもちゃとなった。同級生だった近所のお菓子屋の息子がみんなに分けてくれたのである。蝋をしみこませた飴の包み紙は、何ともいえないすべすべとしてやわらかい感触をし、そして表現のしようがないいい匂いをしていた。われわれはそれを「蝋紙(ろうがみ)」と呼んでいた。いろいろな模様の蝋紙があるが、とくに印象に残っているのは日独伊それぞれの国旗を紫、青、緑の色でアレンジしたものである。まだ包む前だからピンとしている新品のこの蝋紙が十枚、二十枚と重なるとその模様がさらにきれいに見える。それは子どもたちの蒐集品となった。お互いに交換したりして、何種類の蝋紙を何枚集めたかが競争となった。
 これは私だけの経験ではなかった。家内もやはり近くのお菓子屋の同級生から蝋紙をたくさんもらったという。
 戦争が激しくなり、疎開騒ぎが始まるなかでそんなことはもう忘れ去っていたが、戦後四~五年たったころから少しずつお菓子が出回り始め、なつかしい蝋紙に包まれた飴も売られるようになるなかで、また思い出した。それで、飴を食べ終わった後に残るこの包み紙、つまり蝋紙を私は捨てる気にならなくなった。非常に思い出深かったし、伸ばして見るとやはり非常にきれいだからである。しかもさまざまな種類の模様がある。そこで私はこの蝋紙のコレクションを始めた。たまたま中学校の遠足のときみんながもってきた飴の蝋紙をもらい歩いたことから私の趣味が同級生と先生に知られてしまった。最初はみんな笑った。しかし私の言うようによく蝋紙を見たらきれいである。それでクラス中に蝋紙コレクションが流行り、担任の先生までも集め始めた。しかしそれは半年も続かなかった。種類が多いので集めても集めてもきりがなく、みんなあきてしまったのである。私も切手のコレクションに興味が移ってやめてしまった。当然集めたものはどこかに行方不明になった。自分で捨てたのかもしれない。今になって考えれば捨てなければよかったと思う。当時の生活をしのばせるものとして貴重な資料となったかもしれないからである。
 ともかくこのように包み紙のコレクションができるほど、集めても集めきれないくらいになるほど、多くの種類の飴が出回り始めた。それ以外にもキャラメルなどのお菓子も出回り始めた。戦前のなつかしい味、もう忘れかけていた味に再び出会えるようになってきた。ただしバナナだけはまだだった。祖母がどこからか干して黒くなったバナナの皮を手に入れてきた。その匂いをかいだとき、あ、これがバナナの匂いだったのだと思い出した。約十年ぶりだったのである。なお、このバナナの皮を何に使ったのかは記憶にない。
 一九四八(昭和二十三)年の春ではなかったかと思う。しなそばを食わせると父が私を町に連れて行ってくれた。しなそばとは何かまったく忘れていた。うまかった。なつかしかった。小さい頃食べたことのある味だった。しなそば屋(当時は中華そばとかラーメンとかは言わなかった)も復活したのである。
 このように食糧事情は少しずつよくなってきた。世の中も落ち着いてきた。

 都市や工業も戦争の傷跡から少しずつ復興し、疎開していた農村部から人々が都会に戻って行きつつあった。しかし、まだ失業者は多く、農村の次三男はどこにも出て行くところがなかった。農地改革で小作料がなくなったとはいえ、零細な農家は自家農業だけで家族労働力を燃焼することはできず、暮らしは大変だった。こうした状況の下で農村過剰人口が大きな社会問題として取り上げられた。
 その問題は朝鮮特需による労働力需要の増大で若干解決された。一九五〇(昭和二十五)年から始まったすぐ隣の国の朝鮮半島でのすさまじい戦いが日本の工業復興と雇用拡大に寄与したのである。
 しかし中学生だった私たちはその戦争をそんなに深刻に受け止めることなく、これまでとあまり変わりない日常生活を送っていた。ただ一つ、それまでただ同然だった鉄屑等の金属廃品がべらぼうに値上がりしたことが、私にとっての朝鮮戦争の影響であった。
 第二次大戦中は金属はすべて貴重品であり、金属廃品も非常に大事にされた。軍需用として不可欠だったからである。最後には、戦争に使うのだからと各家庭からなかば強制的に供出させられ、学校の鉄棒、すべり台、屋上のてすりまでもっていかれた。しかし戦後の軍需産業の禁止、壊滅状態に陥れられた工業のもとで、金属の需要は激減し、鉄くずなどは見向きもされなくなった。
 ところが朝鮮戦争が始まると、くず屋さんが金属廃品を高く買うようになった。朝鮮特需とそれにともなう工業の復活で金属の需要が増加し、それが鉄くず等の需要を高めたのである。
 日に日に金属廃品の価格は上がっていった。とくに高かったのが銅・真鍮(しんちゅう)だ。子どもの間で噂が広まった。射的場(しゃてきば)と呼んでいた陸軍第百三十二連隊の実弾射撃演習場の跡に行くと、戦前に兵隊が演習で撃った鉄砲の弾がたくさん落ちている、それを拾って売るとかなりの値段になるというのである。早速友だちといっしょに約四十分田畑のなかを歩いて山麓にある演習場に行ってみた。いるわいるわ、子どもばかりでなく大人まで、手でだけではなくてシャベルまで使って、かつて射撃の的だった傾斜地の赤土を掘っている。自分も掘ってみた。少したつと緑色に錆びた真鍮製の潰れた弾が出てくる。みんなはハケゴや袋を持ってきていて、それに入れている。こちらは持ってこないのでどうしようかと思ったら、ちゃんとくず屋さんがいて、その場で重さを秤で量って買い上げてくれることがわかったので、安心して掘った。慣れていないのでそんなに掘れないが、小遣い銭にはなる。これで味を占めて三~四回行ったが、すでにかなり掘られていたこととその後も何十人も連日のように掘るものだから、一ヶ月もしたらあまりとれなくなっており、行くのはやめた。
 替わりに私のくず鉄拾いの場となったのは畑である。畑には市役所のゴミ収集車(といっても人力で牽く荷車)がもってくる都市ゴミをわらや下肥などと混ぜ合わせて堆肥にして畑に散布する(これについては後に述べる)が、そのなかに入っていた鉄、銅線(アカセンとわれわれは呼んだ)等の銅、真鍮、鉛、アルミ等々の金属くずが腐らないので畑に残る。石と同じで畑にとってはじゃまものなので採って捨てるが、それがわれわれ農家の子どもたちの拾得物となる。農作業を手伝いながら、目を皿のようにして畑の土の表面を見る。鉄くずやアカセンが土のなかから顔を出していると、しめたである。こうやって集めた金属くずが一定の量になると、近くのくず屋にもっていく。くず屋は目方を量って買い取る。こうした金属廃品買いでくず屋は大もうけをし、家を立派に新築したものもあるほどだった。一方、われわれ子どもは小遣いを手に入れた。朝鮮の人々には申し訳ないが、朝鮮戦争は私の修学旅行の小遣いを豊かにし、その頃凝っていた切手の蒐集を助けてくれた。
 朝鮮戦争は戦後壊滅状態にあった日本経済の復興に大きく寄与した。そして都市や工業の労働力需要も増え、農村部からも過剰人口と称されていた労働力が都市に流出するようになった。もちろん私がそういうことを知り、理解したのはかなり後のことだったが。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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