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戦後の平和のにおい、そして---



            続・においの記憶(9)

         ☆戦後の平和のにおい、そして----

 戦後はしょっちゅう停電した(註1)。とくに敗戦直後の2~3年がひどかった。もっとも困るのは夕飯の時間ころに突然消えることだ。しかもなかなか点かない。だからろうそくが不可欠となった。しかしろうそくでは長時間にわたる停電には対処できない。そればかりではない、高価だし、なかなか手に入らなくもなっている。それで祖母がまずやったのが、小皿に菜種油を注ぎ、そこに布切れをねじってつくった芯を入れ、油の沁みたその芯を皿の外に少し出し、それに火をつけて灯りとするというものである。これは石油ランプが入る前、つまり明治以前に一般庶民が使っていた灯りらしいが、暗かった。また油くさく、いいにおいではなかった(天ぷらを揚げるときのにおいとも違った)。それでもまあ我慢できた。
 でも、あまりにも暗くて役に立たず、しかも火事の危険性もある。そしたらそのうち祖母が石油ランプをどこからか手に入れてきた(註2)。周辺の家でもそれに代わった。これは明るく、しかも風で消えるなどということもなく、持ち運びも容易、本当に便利だった。これは電気が入る前に使っていたらしく、大人たちは手慣れたものだったが、私たち子どもにとってはまったく新しい体験、最初は楽しささえ感じたし、灯油の燃えるにおいは未知の古い世界のにおいを感じさせ、また高峰三枝子の歌う『湖畔の宿』(註3)のなつかしい歌詞の三番を思い出させて何か洋風のしゃれたものという感じも抱かせた。
   「ランプ引き寄せ ふるさとへ 
   書いてまた消す 湖畔のたより」
 しかしそれも最初だけ、慣れて何とも感じなくなったところに子どもたちの仕事としてその「ほや掃除」が加わることになり、それほどいい感じは持たなくなった。「ほや」とはランプのガラスの部分を言い、そこが煤やほこりなどで汚れて暗くなるので掃除しなければならなくなるのである。ぼろきれで黒く煤けたほやを拭くというだけなので子どももできる、それで子どもの仕事となるのだが、それは遊び時間を減らすもの、しかもガラスだからこわれたら大変、けっこう気を遣うし、においも普通の煤より悪い。私たち子どもはあまりいい感じをもたなくなる。
 それでも前より明るくはなったし、長時間もつ。しかし、一度電灯を経験した者にはやはり暗かった。それでなのだろう、今度は真鍮製のアセチレンガス燈を購入した。これは明るかった。祭りの露店の夜をなつかしく思い出させてもくれた。しかし、そのシューッと燃える音がうるさく、またアセチレンガスの臭いがきつかった。
 戦後数年を過ぎる頃には停電はほとんどなくなってそうした昔の照明器具は使わなくなったが、考えてみればその間の数年、私たちは電灯のない暮らし、江戸時代〈菜種油〉・明治時代〈石油ランプ〉・大正時代〈アセチレンガス灯〉の照明を体験し、そしてその発する古い時代のにおいを日常的にかぐという貴重な体験をしたことになる。
 こうした苦労、工夫をしながらも空襲とか灯火管制とかなしで安心して夜を過ごせる、これだけは気分的に本当に楽だった。蝋燭や菜種油、灯油、アセチレンのにおいは、いまだ混乱状態にありながらも、貧しいながらも、不便はありながらも、着実に復興の進む戦後の平和を感じさせたにおいだった。

 1947年春には私たちの小学校が返還され、米軍によってかなり変えられてはいたものの徐々に昔の校舎のにおいがもどってきた。新しい教科書も渡され、しばらくぶりで新しい真っ白な紙と印刷のにおいをかぐこともできた。
 翌48年、新制中学に入ったが、私たちはそこで使う机と椅子を新校舎に運ばされた(註4)。つくりたてで乾燥もきちんとしていなかったために、塗料のニスが手や服にぺたぺたくっついて気持ちが悪かった。さらにそのニスと木のにおいがすさまじく、これまたいいにおいではなかった。それでも、そのにおいは長くなった通学距離、旧山形城・旧陸軍兵舎の新校舎、新しい学制等々まったく新しい体験を予測させるもので、いやな臭いではあっても何か期待をもたせる明るいものだった。

 この中学校に通う途中にある山形駅、この真ん前の道路に闇市が並んだ。石鹸、売れ残りの雑誌、薬などの叩き売り屋をはじめあらゆる種類の露店が並んだ。学校の帰り道、毎日あきることなしに見て歩いた(註5)のだが、ある日のこと、その店のなかから砂糖を焦がしたような甘いいいにおいがする。早速行ってみた。お玉杓子のようなものに砂糖と水を入れて煮立て、そこに何か白い粉を入れるとぷっくり丸く膨れ、茶色の半球のお菓子ができる。「これがなつかしのカルメ焼き」といいながらその膨らます白い粉を売るのである。しかし私にとってカルメ焼きは生まれて初めて見るものだった。そしてその砂糖の焦げたような甘い匂いは食欲をそそるものだった。駅前交番が近いのに堂々とそれを売っていたということは、砂糖が統制品ではなく自由販売になっていたことを示すのたろう。
 そういえばそのころからだった、アメとかキャラメルとか甘いものが普通の店でも少しずつ売られるようになってきたのは。アメの包み紙=蝋紙のコレクションができるほどだった(註6)。そして昔の懐かしい味が、さまざまな甘さのにおい、蝋紙のにおいが復活してきたのである。

 やはりそのころである、父が「しなそば」を食わせると私を町に連れて行ってくれた(註6)。しなそばとは何かまったく忘れていたのだが、支那そば屋から流れてくるそのにおい、どこかでかいだことがあるような気がした。出てきたどんぶりにたっぷり入っている醤油味の油の浮いたつゆは本当にいい匂い、つるつるして舌触りのいい黄色いそば、その上に載っている味のしみた肉(当時は焼き豚という名前を知らなかった)とタケノコの細切り(シナチクというものだとは後で知った)の舌触りのよさと味の良さ、こんなうまいものがあったのかと驚いた。でも、なぜかなつかしかった。その後しばらく日にちが過ぎてからふと頭に浮かんだ、幼いころ食べたことがあったのではないかと。父はきっと私が幼いころ好きだったことを覚えていて復活した支那そばを食べさせてやろうとしたのではなかろうか。後でそれを確信したのだが、そのときしみじみ思った、戦争の時代が終わったのだ、物不足の時代、戦争による断絶の時代が終わりつつあるのだと。
 やがて支那そばは中華そば、さらにラーメンと名前を変え、焼き豚は後にチャーシュー、シナチクはメンマと呼ばれるようになり、家庭でも店と近い味で食べられるようになって今にいたっているが、ラーメン好きの日本人がまともに食べられなかった時代があったのである。それが終ったのだ、しなそばのにおいは私にとってまさに戦後のいい時代の到来を再確認させるにおいだった。

 戦争で忘れさせられていたにおいや味の復活と言えばバナナがある。
 いうまでもなく戦中はもちろん戦後もバナナの移入(植民地だった台湾からの)がなされなくなり、食べられなくなっていたのだが、やはり私の中学時代だと思う、祖母がどこからかバナナの皮の干物(真っ黒に干からびていた)を手に入れてきた。何に使うためだったのか、実際に何に使ったのかはまったく覚えていないが、その匂いをかがせてもらった。そうだ、これがバナナの匂いだと本当になつかしかった。これも私にとっての戦後の匂い、戦争が終わったことを実感する匂いだった。
 それからまた若干時間が経過してまともにバナナを食べた。本当にしばらくぶりだった。まだかなり高価でめったに食べられなかったが。うまかった、なつかしかった。

 十数年前、私の再就職にともなって住むようになった網走で、家内がある婦人グルーブに入って絵手紙を勉強し始めた。その最初のころの作品に、バナナを書いた絵手紙があった。その絵に添えた文の「戦後のバナナの甘さ 平和であることのしあわせ」が気に入った、私も同感だったからである。家内も私と同年代、やっぱり同じだったのだ。
 そうなのである、私にとってバナナの甘い匂いは「戦後のにおい」(戦前にかいでいたのだけれど、戦争が終わったことを改めて感じさせたにおいだったという意味での)であり、「平和であることのしあわせのにおい」だったのである。
 そこでここに掲載しようとしたら、家内はまだ初心者のころの下手な絵・文だからだめと拒否、何とか頼みこんでようやく承諾してもらった。




 ただし、ちょっと付け加えておかなければならないことがある。戦後20年を過ぎてからのバナナのにおいは、貿易自由化による日本農業崩壊の危機の始まりを示唆するにおいでもあったことである。
 前に書いたように(註7)、1963(昭38)年、輸入自由化でバナナが大量に輸入され、スーパーの目玉商品とされるなど大安売りされた。そのためにリンゴの価格は暴落し、買い手の付かないリンゴが大量に発生した。そしてそれは川に投棄され、あるいは山に野ざらしにされ、川はリンゴで赤く染まり、山には赤い山が築かれたという。リンゴばかりではなかった、貿易自由化は次々と日本のさまざまな農産物に打撃を与え、農業を衰退させていった。バナナはそしてリンゴはその走りだった。もちろん、リンゴは産地の努力によって、そしてあの香ばしいリンゴのにおいと味の力でその後立ち直るのだが、立ち直れず姿を消してしまう作目・部門もあった。絹の自由化による養蚕の絶滅などはその典型だった。
 そうした意味でバナナのにおいは、私にとって戦後の平和のにおいであると同時に、日本の農産物の新たな発展(=たとえばリンゴ)と衰退消滅(=たとえば養蚕)との両面、とりわけ後者を想起させるにおいでもある。何とも複雑な気持ちである。

 もう一つ付け加えさせていただきたい。
 私にとっての戦後のにおいのなかには敗戦の翌年春の夕方、毎日のように家々から流れてきたニシン〈わたくしたちはカドと呼んでいた〉を焼くにおいがある。ちょうどその年はニシンが大豊漁で各家庭に配給されたので、それを焼くにおいが夕方流れてきたのだが、ちょうどまたその時期に私の母が死んでおり、それと結びついてカドを焼くにおいは私にとっての戦後のにおいとなっているのである。このことについては前に述べている(註8)ので詳しくは省略する。
 なお、この母の死後、中国に征かされていた叔父二人の戦死が伝えられた。戦中の妹の死から続いたこうした不幸(註9)は、仏壇の線香のにおいを戦中・戦後のにおい、戦争のもたらしたにおいとも感じさせたものだった。
 あれからもう70年、葬儀での線香のにおいはその後何度もかぐことになった。しかしそれは戦争とは直接的なかかわりはなかった。こうしたなかで、線香のにおいが戦争のにおいという意識は薄れてきた。それでいいのである。それが当たり前なのだ。これからも線香のにおいを戦争のにおいとしない世の中であってほしいものである。

 こうやって見てみると、戦前生まれて戦中戦後に子ども時代を過ごした私たちの世代は、たとえば欧米人とあるいはDDTと出会ってそのにおいをかぐなどというまったく新しい体験をし、またもう消え去りつつあった古い時代のにおいを初めてしかも日常的にかぐという体験をし、さらに幼い時にかいで戦争で忘れさせられていたにおいをふたたびかぐ等々、よくもまあ複雑多様なにおいを、しかも短期間に体験したものである。まさに激動の時代を生きてきたもの、他のことでもそうなのだが、しみじみ感心する。

 戦後の臭いでもう一つ触れなければならないものがあった、それはポマードの臭いだ。これについては次回述べることにしたい。
 なお、次回は8月20日(月)掲載とさせていただく。

(註)
1.11年3月29日掲載・本稿第一部「☆地域格差是正の進展」(1段落)参照
2.前掲(註)1のところには、ランプは「たしか菜種油を使ったはずだ」と書いたが、それは自信がない。もしかすると小皿の灯りに使った菜種油と混同してしまったのかもしれない。でも、もしかしたら灯油が手に入らず一時期菜種油を使ったことがあったのかもしれないが。
 なお、当時、停電などそもそもない地域、つまりまだ電気が来ておらず、菜種油の灯や石油ランプの臭いを常時かいでいた地域が東北の山村や開拓地にあったことを前掲(註)1のところで触れていることも付け加えておきたい。
3.作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一、1940(昭15)年。
 小学校に入る前に聞いただけ、太平洋戦争中は歌われなかったので、私たちにはなつかしかった。なお、この『湖畔の宿』については下記の本稿記事でも触れている。
  13年6月6日掲載・本稿第五部「☆戦時中に歌った替え歌」(1段落)
4.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(1段落)参照
5        同    上                 (4段落)参照
6.11年3月2日掲載・本稿第一部「☆蝋紙、朝鮮特需、屑鉄拾い」(1段落)参照
7.11年5月20日掲載・本稿第二部「☆選択的赤字拡大」(2段落)参照
8.11年10月12日掲載・本稿第三部「☆食べたいときにいつでも食べられる幸せ」(1段落)参照
9.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(5段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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