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たばこの煙とにおい



            続・においの記憶(11)

           ☆たばこの煙とにおい

 においを語るならたばこのにおいを書き落とすわけにはいかないだろう。たばこをやめた今でもその煙のにおいが好きな文字通りの「愛煙」家だったし、さまざまな思い出があり、さまざま迷惑をかけてもきたからである。
 それをどう書くか考えているとき、私の高校・大学の同期でこれまで何度も本稿に登場してもらっている医師AH君からメールが届いた。敗戦直後の煙草の配給時代のころの思い出話である。それが非常におもしろいので紹介したいのだが、それを理解してもらうためにちょっとだけその当時のタバコ事情について述べておきたい。

 太平洋戦争開戦直前、たばこは配給制になり、隣組単位(今の町内会の範囲を考えてもらえばいい)に成人男子の喫煙者名簿をまとめ、たばこ屋がその人数に対して一人当たり一日6本を配給することになった。
 しかし、戦争激化による品不足のために配給本数は年々減らされ、敗戦の年の8月には一日3本になってしまった。
 さらに、工場が戦災で壊滅する等々して刻んだたばこを紙に巻くこともできなくなったため、刻んだたばこを紙に巻かないでそのまま配給することにした。そのとき同時にたばこを巻く紙も配給したところもあったが、そうしたところでは自分で巻いて吸った。しかし、紙不足できわめてわずかしか配給されないとき、まったく紙が配給されないとき(ところ)もあった。そのときは、それをそのままキセルで吸う(当時はキセルで吸う刻みたばこを飲む人も多く、キセルは大体どこの家にもあった)か、自分で適当な紙に煙草を巻いてあるいは煙草の紙巻き器を手に入れて巻くかして吸うしかなかった。

 私の生家の場合、巻きたばこを吸うものはいなかった。祖父がたまにキセルできざみ煙草を飲む程度なので、はたして喫煙者として国に届けたかどうかわからない。またきざみ煙草愛飲者にどのように割り当てられて配給されたかわからない。
 だからさきほど述べたたばこ情報は近所の友だちから得たものだが、そのなかには煙草の紙巻き器(木製とアルミ製の二種類あったらしい)というのがあってそれで巻くと上手に巻ける、そのときの紙は英語の辞書の紙が薄さや丈夫さ、火をつけたときの味などからして非常にいいのだというものがあった。
 いずれにせよ私はそうした話はうわさとして聞いただけ、煙草に関してはそれよりもその後に聞いた「モク拾い」、紙巻き器によるシケモク(タバコの吸い殻)の再生と販売の話の方が強く印象に残った(註1)。

 さて、話はAH君のメールに戻るが、彼の話は今言った敗戦直後、私たちが小学四年生の時のことだった。
 AH君の生家は旧山形市の西北方10㌔くらいのところに位置する純農村にあるが、彼の家には煙草飲みはいなかったという。ところが、彼の地域では全家庭の大人すべてを喫煙者として国に届けた。だから煙草は大人の数に応じて、飲む飲まないにかかわらず各家庭に配給され、AH君の家にも配給された。
 戦後になり、さきに述べた事情で、他の地域と同様に紙に巻かれていないたばこが配給された(註2)が、同時にたばこを巻く紙(無地の白いかなり上質の紙だったとのことである)と木製の巻きたばこを作る道具も配られた。
 このたばこ巻き、子どもでもできるので、農作業や家事で忙しい大人はそれを子どもの仕事にした。どこの家でもそれは同じだったが、好奇心の強い子どもたちは、そのうちの何本かをごまかしてみんなで試しに吸った。吸った後、小学二、三年の子どもたちは20~30分ほんやり休んでいたという。しかし、やがてくせになり、みんなやめられなくなった。AH君もそうだった。
 ところが、そのうちきちんとした紙巻きたばこが配給されるようになった。そうなると、たばこの紙巻きの仕事がなくなり、同時にたばこをごまかして吸うこともできなくなった。もうたばこが癖になっていた子どもたち、当然禁断症状に悩むことになった。
 ちょうど時期は晩秋、そこでみんなは枯れ草、枯れ葉を代用品として紙に巻いて吸った。AK君ももちろんそうした。
 しかしやがて雪が降り、枯れ草や枯れ葉が採れなくなった。困ったAH君、一人でこっそり、枯れた松葉を紙に巻いて吸ってみた。ところが松ヤニの臭いが強く、がまんして半分吸ったが、気分が悪くなって止めた。しかし、気持ちの悪い状態は治らない。家に帰ってもふらふらして、吐き気がひどく、食欲もない。やむを得ず親には風邪をひいたと言って寝込み、学校を三日休んでしまった。
 そのとき以来たばこは止めたが、この松葉煙草の話はこれまでだれにもしたことはない、と彼は言う。そして付け加える、私も同様の体験をしただろうと。

 この話をメールで見たとき、思わず笑ってしまった。戦後の混乱のなかでのこれに類する子どもとたばこの話はいろいろ聞いていたが、AH君もまともに体験していたのである。
 しかし、私は子ども時代に煙草を吸ったことなどなかった。
 いつも高校のころの私を「お前は『不良』だった」と模範少年・青年だったような顔をしてなじるAK君、私など足元にも及ばない「不良少年」、しかも小学時代からの根っからの「悪」だったのである。その彼に「不良」だったなどと言われたくないものである。今度会ったときはその慰謝料として一杯ごちそうになろうと思っている。

 さて、また私の話に戻ろう。私とたばこのことについては前に詳しく書いた(註1)ので省略するが、においと煙にかかわることだけ若干書かせてもらう。
 生家では祖父がたまにきざみ煙草をキセルで吸う程度だったし、後は客が茶の間の長火鉢のところで飲む程度、あまり関心をもたないで小さいころを過ごしたのだが、戦後の混乱期のときは前に書いたようにさまざまなたばこ情報が私たち子どもにも伝わってきた。同時に、同居していた私の8歳上のM叔父(父の末弟)が予科練から復員して復学、翌年春卒業して専売局(註3)に勤め、たばこを吸い始めたので、身近にたばこのにおいをかぐようになった。
 最初にも書いたように、私はこのにおいが好きだった。ただし、火をつけたまま放置しておいた吸いかけのたばこから出る煙とにおいは大きらいである。生木や葉っぱを燃やした煙と同じで鼻を刺激し、目に染みて痛くなるからである。自分が吸った煙も、うまい、香りがいいなどとはまったく思わない。ところが、おかしなことに、人が吸った後に吐き出すたばこの煙のにおいはそういうことはなく、私にとっては非常にいいにおいに感じるのである。そう言ったらM叔父はお前は煙草飲みになるなと驚いていたのだが、においばかりではない、吸いかけのたばこから、光線や空気の流れの加減で変化しながら、ゆらゆらと立ち上るあの青紫の煙、その色と形も何ともいえず好きだった。
 昭和初期の髪型と洋装をした細面の憂い顔をした美人女性がちょっと首をかしげて頬杖をついている、もう片方の手の細い人差し指と中指にはさんだ紙巻タバコから青い煙がゆらめきながら立ち上っている、その上半身を描いたポスター、どこの店でいつ頃見たのか、何を目的としたポスターだったのか覚えていない(色刷りだったが、絵だったか写真に色をつけたものだったのかもはっきりしない)のだが、これはあこがれだった。
 農家そして年寄りはキセルたばこ、大都会そして若者は巻きたばこであり、私たち田舎の子どもにとってはまだ見たことのない都会へのあこがれ、ちょっと崩れたような美しさへのあこがれは、巻きたばこの青い煙へのあこがれでもあった。
 しかし、たまにいたずらで一口吸ってみてもうまいものではなかった。父はたばこは一切吸わないし、吸っていた叔父は結婚して家を出て行った。そんなことでたばことは縁がなくなった。そしたらそのまま一生を過ごせばいいのに、たばこを吸い始めた友だちに負けたくなくて、自分も大人だと生意気がりたくて、高校卒業後気持ち悪さをがまんしながらたばこを覚えた。そのうちたばこはやめられなくなった。そしてすさまじいヘビースモーカーとなった。

 おかげさまでそうでなくてさえ弱い胃腸や肺がたばこで痛めつけられ、何度も入院して家内や両親に心配をかけるようになった。さらに、煙草の煙に本当に弱かった家内に迷惑をかけ、そればかりでなく煙草のヤニでガラス窓をはじめいろんなところを真っ黄色にしてその拭き掃除で苦労をかけた。子どもや孫にも悪影響を与えたのではなかろうか。
 加えて、私の研究室に煙草の臭いをしみ込ませて、同僚や教え子に迷惑をかけた。
 なお、かつて中山間地農業の振興の一つの方向として当時高収益作物だった葉たばこ作の振興を位置づけたこと、これをどう評価していいのか、迷うところである。

 たばこが豊富に出回るようになった60年代、男性のほとんどが喫煙者だった。女性も飲むようになった。かつては高年齢層に多かったのだが、女子学生が吸っている姿が見られるようになるなど、若い女性の喫煙者が珍しくなくなった。

 思い出した、そのころ、アルミ製のシガレットケース・高級ライター・パイプ(巻きたばこ用)が、たばこ飲みのおしゃれとして流行った。私はそうした趣味はなかったし、金もなかったのでその流行には乗らなかったが。やがてたばこの包装がおしゃれでしっかりしてくる、百円ライターが出る、フィルター付きのたばこが普通になってきたことからなのだろうが、あまり見られなくなった。
 それから、一時期だが木製のパイプを買ってパイプたばこを飲んだことがある。火をつけずにパイプをくわえるだけにする時間を長くしてたばこの吸い過ぎを抑えようと思ったからである。これはうまかった、本当にいい匂いがした、かっこよかった。しかし高価だった。それから火のつけ方やパイプの手入れがめんどうだった。そんなことで半年もしないでやめてしまつた。
 なお、キセルを買ってきざみたばこを飲んだこともある。においはあまりよくなかったが、これもたばこの吸い過ぎを抑えようと思ったからである。しかしこれも長く続かなかった。すぐに飲み終わってしまうので、またきざみをキセルに詰めて火を点けるのがめんどうだったからである。

 話をもとに戻す、喫煙者の増加とたばこの豊富な出回りは、道端等にポイ捨てされている吸い殻の多さと、列車内や店の中に立ち込める煙草の煙と臭いが示していた。
 80年代に入ってからではなかったろうか。たばこのポイ捨てをやめるためにと吸い殻入れを持ち歩くようにしようという運動が展開されたり、列車に禁煙席とか禁煙車両が設けられたりするようになってきた。世の中は私の家内のような嫌煙者の権利を認めるようになってきたのである。そして大学でも会議の時は禁煙となり、航空機は全席禁煙となった。

 こうして喫煙者の肩身が狭くなったころの今から十数年前、私はたばこをやめた。その経緯は前に書いた(註1)ので省略するが、今はたばこの煙で他人に迷惑をかけることもなく、家内もがん検診では大丈夫のよう、これで私の「罪一等を減じ」(古い言葉で申し訳ない、私の子ども時代はよく使われていたのだが)てもらいたいものだ。
 おかしなもので今はたばこを吸いたいとはまったく思わない。しかし、他人の吸うたばこの煙のにおいは嗅ぎたい。やはり好きなのである。しかし、身の回りにたばこを吸う人はいない。もう何年嗅いでいないだろうか。それでいいのだろうけれど、何かさびしい。

(註)
1.12年1月13日掲載・本稿第三部「☆たばこをやめた話」参照
2.AH君によると、彼の地域でこのとき配給されたたばこは日本陸軍の解体にともなう軍用物資の放出品だったとのことである。ただし、私の地域で配給された軍の放出物資は鮭の缶詰などの食料品や毛布などの衣類で、たばこは専売局からの普通の配給品だった。一般的にはそうだったようである。
3.明治から敗戦直後まで大蔵省の管理下でタバコ・塩・樟脳・アルコールの製造・販売などを独占的に行ってきた部局。のちに専売公社と名前を変え、現在は民営化して日本たばこ産業=JTとなっている。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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