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仙台空襲、油の臭い、火傷



            続・においの記憶(12)

          ☆仙台空襲、油の臭い、火傷

 異常な暑さと豪雨の続いた今年の7月末、後輩の畜産研究者のKT君といきつけの小さな居酒屋で暑気払いをしたとき、たまたま私の執筆途中だった戦後の「モク拾い」を話題にした。そしたら、居酒屋の亭主のAさん(これまで何回か本稿に登場してもらった)が子どもの頃アメリカ兵のシケモク(=吸いかけの煙草の吸い殻)を拾ったものだという。
 アメリカ軍の東北方面の司令部(日本陸軍第二師団・仙台城の跡地)の敷地の出入り口にある歩哨所(営門の歩哨のいる所=兵舎のある地域の警戒及び出入者の監視に当たる兵士のいる所)に立っている歩哨のアメリカ兵がたばこを吸いたくなると歩哨所の裏に来て吸う、用事ができるとあわてて吸いかけの煙草を捨てて戻る、それでまだ長いシケモクがたくさん捨ててある、それを近所の友だちといっしょにこっそり拾いに行き、家に帰ってほぐし、家にあったたばこの紙巻き器で紙に巻いて近所の大人に売って小遣い稼ぎをした、アメリカのタバコだからけっこう高く売れたというのである。

 こうしたたばこの話が一段落した後、戦後の髪の毛の話になった。これも私が執筆途中、そこで1950年前後に入学したKT君やAさんたちの頭がいつごろ坊主頭から坊ちゃん刈りに変わったかを聞いてみた。そしたら1955年前後にはみんな坊ちゃん刈りになっていたのではなかったかという。私の思っていた通りだったことになる。
 こんな戦後の悪ガキだったころの話をして盛り上がっているとき、Aさんがふとこんな話をした。

 1950年前後、まだ子どもたちが坊主頭だったころの話だが、一面焼け跡だった仙台の小学校に入学したAさんの同級生のなかにナットウパゲの頭をした子どもがたくさんいた、納豆粒くらいの大きさの小さいはげが頭にたくさんある、それで「納豆禿(なっとうぱげ)」と呼んでいた、みんな坊主頭だったからそのハゲが目立ったものだ、こう言うのである。
 そんな話は聞いたことがなかった。彼と同年代のKT君も、聞いたことはないし、クラスにもいなかったと言う。
 当然それはどういうことなのかという話になった。そしたらAさんはそれは仙台空襲による被害、火傷の痕なのだという。

 1945(昭20)年7月9日の夜、仙台市内の上空にアメリカの飛行機が2~3機飛んできた。その爆音が聞こえてから警戒警報のサイレンが鳴ったという。そのうちシャーッという音がする、何かと思って外に出て見ると、生臭い油の臭いがし、油が雨のように降っていた。後でわかったのだが、焼夷弾爆撃で日本の木の家がよく燃えるように飛行機が撒いたのである。しかも市の中心部ではなく周囲の町々に円状にぐるりと撒いて飛び去った。爆撃の対象とする中心市街地の人々が郊外に逃げられないように、市全体が効率的に燃えるようにでは撒いたのではなかったかと後でみんなはうわさしあったという。
 それから何時間か過ぎた翌10日の午前〇時過ぎ、仙台の中心部・住宅密集地帯はアメリカ軍のB29爆撃機約100機により約2時間にわたって焼夷弾1万発による絨毯爆撃を受けた。
 若い方も聞いたことがあると思うのだが、改めて説明すると、焼夷弾とは攻撃対象を焼き払うために油などの発火性の薬剤を装填した爆弾のことであり、絨毯爆撃とは一定の地域を一面無差別にすきまなく徹底的に爆撃することである。こうした爆撃の下では住宅等の非軍事施設はもちろん非戦闘員である女子どもまで犠牲を受けることになるのだが、さらにそれを効率的に行うために普通の焼夷弾の他に「集束焼夷弾」を投下した。一つの大きな焼夷弾の中に50発近い小型の焼夷弾弾を内蔵して一定の高度で破裂させてそれらをまき散らすのである。被災者は後に「親子焼夷弾」とそれを呼んだそうだが、まさに的確な表現、これはすさもじい威力を発揮したらしい。何しろ上から一面油まじりの火の玉が降ってくるのだからあっという間に燃え広がり、火の粉が舞い散り、逃げるのも容易ではない。街のまわりに油が撒かれているのだからなおのことだ。
 それても必死になってみんな逃げた。四方八方から火の粉が頭に降りかかる。でも防空頭巾で髪の毛や皮膚に直接あたらないようになるので(だから防空頭巾は焼け焦げでぼろほろになっていたという)逃げ延びることができた人もいた。しかし、幼い赤ちゃんの防空頭巾をつくっていない人が多かった。火の粉がこんなに飛び散るなどとは考えてもいなかったし、何しろ東京大空襲の被害のことなどの詳細な情報は軍により秘匿されているのでその経験から学ぶこともできない。ともかく赤ちゃんをおんぶして逃げるしかない。集束爆弾や火の粉により一気に火災が広がり、火の中、火の粉の中を逃げる。当然おんぶしている赤ちゃんの頭に火の粉が飛び散る。赤ちゃんは泣く、それを振り返って見る余裕などない。ともかく火の海からどう逃げ出すかだ。こうして親子は何とか助かった。しかし、赤ちゃんの頭は火の粉で大やけどだった。それでもがんばって生き延びた赤ちゃん、火の粉のついたところの頭の皮膚は焼け、そこには毛が生えず、ハゲになってしまった。その一つがちょうど納豆粒くらいの大きさと色、それが頭のあちこちにあり、納豆が頭にたくさん貼り付いている感じ、それでそれを納豆禿=ナットウパゲと言ったのだそうである。
 大空襲の時に〇~3歳の赤ちゃんで、お母さんか家族の誰かにおんぶして逃げたAさんたち年代の学年にこうしたナットウパゲが多かった。だから、そのハゲをめぐってのいじめとか差別とかはなかったようである。しかし、お金持ちの家の子どもで親が坊ちゃん刈りでハゲを隠してやろうとした子どもはいじめられたという。ただしそれは当時の子どもがまだほとんどしていなかった坊ちゃん刈り(金持ちの家であることの誇示となる)に対するいやがらせだったという。
 ところで、女の子のなかにも当然頭に火傷を負ったものがいたと思うのだが、それについては聞くのを忘れてしまった。でも、当時の小学生はおかっぱ頭が普通で髪を伸ばしていたので、細かい火傷の痕は髪の毛で隠すことができたのではなかろうか。そうであればいやな思いをしないですんだはず、そうであってほしいのだが。

 Aさんは幸い火傷を負わずに逃げることができたと言う。それからAさんの二年下のKT君だが、彼もお母さんにおんぶして逃げた、しかし火傷は負わなかった、クラスにもナットウパゲはいなかったとのことである。これは地域による爆撃の時間(遠くに逃げる時間的余裕があったかどうか)とか投下爆弾の質と量の差異、逃げた場所の差異等々のからんだ偶然、まさに僥倖だったと言えよう。
 Aさんはいう、あの集束型焼夷弾は今で言うクラスター爆弾であり、あまりの危険性に国際的に禁止することになったようなしろもの、それを日本人の上に振りまき、さらに世界のあちこちで使ってきた、とんでもない話だと。KT君はそのクラスター禁止条約にアメリカは参加していないとため息をつく。
 AさんやKT君が小学校高学年になったころから、坊主頭が減って坊ちゃん刈りに変わった。これであのハゲ=火傷の痕はそれほど目立たなくなった。ちょうど思春期を迎えるころ、本当によかった。
 そんなことを語り合っていたら、客が入ってきた。それを契機に話はまた別のことに移った。

 家に帰ってすぐに家内にこのナットウパゲの話をした。初めて聞いたとのことだが、もうそれ以上聞きたくないと耳をふさいだ。赤ん坊がきっとあげたであろう泣き声とおんぶしていた母親の気持ち、そしてその後の苦しみを考えて耐えられなくなったのだろう。

 仙台空襲による被災人口は5万人、被災戸数1万戸、死者1千人、負傷者千数百人を超す被害を受けたとのことだが、この負傷者のなかにあのナットウパゲの子どもたちは含まれているのだろうか。あの子どもたちはあの後、どんな人生を送っただろうか。あの空襲の時、油の刺激的な臭いがしたという話を何人かから聞いたが、それは記憶に残っているだろうか。

 仙台空襲の年から今年で73年、戦争のない年月、国家権力による髪型の強要などのない時代を私たちは過ごしてきた。いい時代になったものだと思うのだが、これが全世界にひろまり、そして平和の日が永遠に続くことを、先日迎えた敗戦の日の8月15日、「すいとん」を食べながら(註)、改めて思ったものだった。

(註)拙宅では、戦時中のことを忘れないようにするため、毎年敗戦の日の昼は「すいとん」を食べることにしている。
  11年9月30日掲載・本稿第三部「☆消えていく伝統料理、家庭料理」(5段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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