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村の呑み助・街のヤミ酒



            戦後昭和の酒と村・街そして私(1)、(2)

                  ☆村の呑み助

 私の子どものころ、太平洋戦争を挟む十数年の間の話である。これまで繰り返し述べたところだが、私の生家は田畑と市街地が隣接し、農家と非農家が半々くらいの今でいう混住地帯にあった。地域のみんな仲良く暮らしていたが、やはり昔からの農家のつながりは強く、生産生活両面でお互いに助け合って生きていた。
 その生家の近所にノミスケとあだ名される人がいた。ノミスケとは、地域行事や農事実行組合の集まり、結婚式や葬式、年忌法要などでの飲み会があると、酒がなくなるまで必ず居座ってへべれけになるまで飲み、人がまったく変わってしまってみんなにさまざま迷惑をかける人のことを言うのである。飲まなければいい人なのに酒の前では人間が変わるのである。飲み助と書くのか呑み助と書くのかわからないが、この場合は「呑み助」の方がふさわしいだろう。
 こういう呑み助が地域に一人は必ずいたものだった。
 あるとき父に聞いたことがある。どうしてあの人はああなるんだろうと(なぜこんなことを聞いたのか覚えていないが)。父はこう答えた、「それは貧乏だからだ」と。酒が高価で(というより貧乏でなのだが)なかなか飲めない、そのめったに飲めない好きな酒がタダであるいは義理で包んだ若干のお金で飲めるとなると、飲まなきゃ損だ、この時とばかりに意地汚くあおるように飲もうとする、それでぐでんぐでんになって他人に迷惑をかけるのだと。
 そう言われてみると、呑み助はどちらかといえば相対的に貧しい家(みんな貧しかったのだがなかでも経営面積の小さい小作農の家)のご主人に多かった。なるほどと納得したものだった。
 1950年を過ぎるころからではなかったろうか、その呑み助の話はあまり聞かなくなった。それでずっと忘れていたのだが、今考えてみるとちょうどその時期は農地改革の成果が出始めたころ、小作料を払わなくともよくなったので濁酒(どぶろく)をつくるだけの米をこっそり隠しておくことができるようになったころだった。つまりどぶろくで晩酌もできるようになった。やがて米価の相対的な上昇で清酒を買って飲めるようにもなってきた。もう呑み助にならなくともよくなった、飲んで騒いでうっぷんを晴らす必要も少なくなった。こういうことからなのだろう。
 そうなのである、呑み助は貧乏がつくっていたのである。貧乏が人間を意地汚く、さもしく、下卑させていたのである(注1)。

 ここまで書いてふと不安になった。酒がバイト賃などに比べて非常に高価だった私の学生のころ、コンパの次の日によく二日酔いになったが、あれは会費以上に飲もうとした結果、貧乏学生のさもしい根性からきたのではなかったか、自分にも呑み助根性があるのではなかろうかと。
 といっても、勤めてからも酒が相対的に安くなってからもしょっちゅう二日酔いになったことは、酒に飲まれる体質、私の自制心のなさから来るものであり、また他人の金で飲むことはあまりなかったことからしても呑み助根性・たかり根性からではないと思いたいのだが(自制心がないのも問題なのだが)。

 私のことは別にして、少なくとも私の祖父と父は呑み助ではなかった。そもそもあまり酒が飲めない質(たち)だったからである。祖父はたまに銚子一本の晩酌をたしなむ程度、何かうれしいことがあったりするともう一本追加という程度であり、父は若いころ模範青年、一滴も酒は飲まず、煙草も飲まずだったからである(私も見習うべきだったのだろうが、不肖の息子である)。身体が受け付けなかったようである(注2)。

 したがって戦時中から戦後にかけて酒が配給制度になっても、つまり前に述べたたばこと同様に酒もビールも自由に買うことができなくなり、配給された量しか飲めなくなっても、とくに不便を感じなかったようである。
 しかし酒好きの人にはこれはつらかった。配給される量がきわめて少なかったからだ。

(追記)
 この記事を掲載してから4日後のこと、東北の地方紙『河北新報』(2018年10月5日)に次のような記事が掲載されているのを見つけた。
 「飲食店でいわゆる『飲み放題』を利用すると、普段の飲酒に比べて飲む量が男子学生で1.8倍、女子学生で1.7倍に増えることが………調査で分かった」
 思わず笑ってしまった。酒が高価だった時代でも、相対的に安くなった時代でも、お金のないことでは共通している若者はただとなると飲みたがる、酒に卑しいのはみな同じ、「呑み助根性」はいつの時代にも、男女を超えて、とくに若者にあるようである。学生時代の私も人並みだったのだ。これで安心した(18年10月6日追記)。

              ☆酒の配給制度と街のヤミ酒

 日中戦争が泥沼状態になったころの1940(昭15)年から酒が配給制度になった。といっても、具体的にどれくらいの量だったか、子どもだった私には知る由もない。そこでパソコンで検索してみたら、「一世帯当り一ケ月酒四合、ビール二~四本、但し冠婚葬祭については一回一升、出征の場合は二升の特配」(注3)だったという記事があったから、その程度だったのだろう。なお、当初は飲める家も飲めない家も同じように配給されたが、後に選択制が採用されるようになって「清酒ならびに合成清酒、焼酎、ビールの三種類から自分の好きなものを選べる」ようになり、「酒一升に対し、焼酎は八合、ビール大びん五本の配給を受けることができる」(注4)ようになったとのことである。まあ、それはいいとしても、1ケ月に酒わずか4合、一週間に一度に分けて飲めばわずか1合、一日にしたら盃1~2杯、これしか飲めなくなったのである。これには酒好きの人は困ったろう。

 戦後、混乱の中でそのわずかな酒もまともに配給されなくなってきた。食料の米ですらまともに配給できなくなっているのにその米を酒の原料として回すわけにはいかず、原料不足で廃業せざるを得ない酒造業者も出てきたからである。だからといってそれに対応して需要が減るわけでもない。そこで、造り酒屋や問屋、小売店がそれぞれ少しずつ水を加えて量を増やし、需要に応えようとする。当然のことながらその酒はきわめて薄い。そのあまりの薄さに頭にきてその酒に金魚を放してみたら金魚が泳げた、フナを泳がせてみたらフナは酔っぱらったらしくて赤くなった=金魚になった、だからそうした酒は「金魚酒」と呼ばれるようになった、という実話とも笑い話ともつかない話が飛び交ったほどだった(私はかなり後で聞いた話だったが)。こんな粗悪な酒がしかもわずかしか配給されないのである。酒飲みにとってはこれはたまらない。
 それで横行したのが正規の配給ルートに乗らないヤミの「酒」(もちろんこれは違法、つくったり売ったりすれば罰せられるのだが)で、カストリ(=濁酒を発酵させてつくった粗悪な焼酎で、日本酒の酒粕を蒸留して作られた本来の「粕取り焼酎」とは別物)や、バクダン(=燃料用アルコールを水で薄めたもの)などのいかがわしい酒だった。それどころかメチルアルコールを薄めたものまで出回り、それで目が見えなくなった、命を落としたと新聞やラジオでよく報道されていたものだった。
 私の学生のころ、先輩の若手教員がこんな話をして笑っていた、戦後すぐのころ研究室の実験用エタノールをこっそり飲んだりしたものだ、うまくなかったがすぐに酔っ払い、二日酔いがひどく、3日も大学を休んだ、メタノールもかなり薄めて飲んだことがあるが何とか命だけは助かった等々、酒飲みには困ったものである(私も酒飲みの部類、入学していたらきっといっしょにやったかもしれないが、そのころはまだ小中学生、これが幸いしたようだ)。
 (次回の掲載は10月15日とする)

(注)
1.ここまでは下記に掲載した拙稿を若干手直しして書いたものである。
  www.jacom.or.jp/column/、コラムjacom|農業協同組合新聞、
  酒井惇一「昔の農村、今の世の中」、2018年7月26日掲載『近所の「ノミスケ」、「さげたがり」』。
2.前にも書いたが、中年になっていろいろ役職につくなかで飲まざるを得なくなり、飲めるようにと3~4年間何回も吐きながら努力し、最終的には私と同様の酒飲みになってしまった。
3.Yahoo!で検索した「戦時下の農村生活  配給制度を主として 上村重雄」から引用させてもらった。
4.これは「酒・飲料の歴史 日本のビールの歴史 酒類の選択制配給」を検索して知ったことである。


 


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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