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戦後混乱期の農村(6)

  

            ☆集団就職列車

 私が中学を卒業する頃(一九五〇年頃)から、徐々に戦後の混乱が収まってきた。それでもまだみんな貧しかった。高校に進学できない子どもも多かった。私のような町場の中学校でも同級生の四分の一は就職組だった。農村部ではさらに進学は少なかった。もちろん戦前から比べたら格段の差で進学はできるようになっている。農地改革で小作料はなくなり、米価はいくら低いと言っても戦前から比べると高くしかも安定しており、他の農産物価格も食糧不足時代だったために高かったからである。それでも子どものすべてが進学するまでにはいかなかった。
 それをねらったのが戦前の伝統を引き継ぐ繊維関連工場などの都市工業であった。戦後復活しつつあった製糸、紡績、織物、縫製などの大小さまざまの工場が若い労働力、とくに女子労働力を必要とするようになり、中学校や高校に、また卒業近い女の子の家庭に、ブローカーのような就職斡旋人が顔を出すようになったのである。学校に求人に来るのは職安などをきちんと通しているからまだいいが、卒業生のいる貧しそうな家を訪ねて支度金を出すからとか言って身売りに近い条件で連れ行くものも多かった。
 高校生のころの家内のところにも就職しないかと来たという。進学するといったら、家をじろじろと見てこんな家で進学などできるかという顔をして、就職するとたくさんカネが入っていい暮らしができるよと言ったという。実際にそうした誘いで就職した同級生がいた。卒業後仙台に出た家内が夏休みに帰ったら、その同級生は家に戻っていた。裸足で命からがら逃げ帰ってきたという。それ以上詳しくは話さなかったというが、近江絹糸以下の労働条件だったのだろう。
 さらに戦災から復活した零細な商工業の労働需要も拡大し、低賃金で雇える中学、高校卒の労働力を求めるようになってきた。

 こうした状況を背景として、一九五四(昭和二十九)年四月初めのある夜、中学を卒業したばかりの子どもたちを乗せた集団就職列車が上野駅に向かって青森駅を出発した。これを皮切りに、毎年毎年、東北各地から、全国各地から東京へ、大阪へ向けて、下積みの低賃金長時間労働力となる子どもたちの悲しい思いを乗せた集団就職列車が走った。
 それでも戦前よりはよかった。戦前は、小学校を出るか出ないかで、身売りに近い形でふるさとから連れて行かれた。そして女工哀史以上のきびしい労働を強いられたものもいた。それでも働き口があればよい。どこにもなくて肩身のせまい思いで家のやっかいになり、少ない食い扶持を分け合って貧しい生活をしなければならないものもいた。
 しかし、一九五〇年代からは、たとえ遠方であってもともかく働き口は見つかるようになった。しかも、中学卒業まで、十五歳まではふるさとにいることができる。近江絹糸のような問題はあっても、学校なり、職安なりの保証がある職場に勤められた。
 だから集団就職列車は相対的に近代的な労働条件の下で当時の農村過剰人口問題の一定の解決を示すものだったと言う意味で、明るいニュースでもあったと私は思う。
 それでもふるさとに残った親や長男は、東京に出した子ども、あるいは弟妹に負い目があった。自分たちのふがいなさのために遠い遠い東京で苦労させて申し訳ない、できるならふるさとに呼び戻したいという気持ちでいっぱいだった。

 そうした親の気持ちを痛感したのが、一九六九(昭和四十四)年の青森県津軽の調査でだった。
 当時農林省は八郎潟に次いで十三湖も干拓しようと考えており、それに関して農家がどう考えるかの意向調査だったが、ほとんどの農家の方が開田は必要だと答えた。それでは開田で増えた水田をどうするのかと聞くと、東京などに出ていった次三男を呼び戻し、土地を分けて分家させるという。自分の家の経営規模を拡大するという予測していた答えは返って来なかった。
 その少し前に岩手県の和賀町(現・北上市)の調査をしたときには、開田で面積を大きく増やした農家は自分の家の規模を拡大させただけで、分家などさせていなかった。これとまったく違う。
 なぜなのだろうか。考えついたのが十三湖周辺の農家の子弟の多くが中学卒だったことである。高校は五所川原市にしかなく、当時の交通事情のもとでは冬期間下宿させざるを得ない。しかし、それだけの経済的ゆとりはなく、高校には出せない。しかも地元には農外の就業機会はない。だから中卒で集団就職列車などに乗せるなどして東京などに出してきた。しかし、中卒では東京でもろくな就職先はなく、子どもに苦労をさせている。土地があれば呼び戻してふるさとで農業をさせてやりたい。だから、開田で次三男に土地を分け与えたいという回答になったのである。
 これに対して和賀の場合は当時ほとんどの農家が子どもを北上などの近くの高校に出すようになっていた。また和賀町に隣接する北上市にもようやく高度経済成長の波が押し寄せ、工場誘致も進みつつある。だから次三男の分家などまったく考えなくなっていたのである。

 七〇年ころだと思う、『家の光』の記者と取材のことで打ち合わせをした後食事をし、アルコールが入った勢いで行きつけのバーに入った。そのとき私は『家の光』の雑誌を脇にかかえていた。それを見たママやホステスさんたちが「あら、なつかしい」と寄ってきた。みんなで雑誌を広げながら、子どもの頃に家にあった、よく読んだものだなどという話になってかなり盛り上がった。ということは彼女たちは全員農家の生まれと言うことになる。『家の光』は戦後全国で最大発行部数を誇った雑誌であり、農家にいけば必ずあった。一方、非農家はこの雑誌を見たこともない。ある大学教授の取材に『家の光』の記者が行ったら、家の光とはどういう宗教団体か聞かれたという。農学部の教授なのに『家の光』も知らないようではどうしようもない。それは農家を、農業を知らないと言うことを意味するものだったからである。それはおいて、ともかく農家出身の女性であれば必ず『家の光』を知っていた。
 その後二、三回、『家の光』をたずさえて他の飲み屋に行ってみた。ほとんど同じ反応である。やはりなつかしいと近寄ってくる。当時の夜の第三次産業、飲食産業は農村出身の女性によって担われていたのである。
 こんな問題はあっても、ともかく農村の過剰人口問題は徐々に解決されつつあった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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