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山村の米どぶろくと摘発



            戦後昭和の酒と村・街そして私(6)

              ☆山村の米どぶろくと摘発

 戦後、米を栽培することのできない開拓地や山間高冷地の農家に米が配給された。前々節で述べた岩手県葛巻町の場合などは農地改革で巨大山林地主の収奪から解放された上にわずかではあっても米が安く供給されたのである。さらに、寒冷地稲作技術の進展と米価の安定に支えられて1955年前後から開田が始まり、わずかではあっても米を栽培するようになった。つまり米が食べられるようになった。
 そこで疑問となる、はたして開拓地や山間高冷地で、この配給されたあるいは自ら生産した米でどぶろくをつくっただろうかと。
 私はこう考えた。1949年には酒が自由販売になっており、55年ころには相対的に価格も下がっているので無理してどぶろくをつくる必要はなくなっており、つくる農家もかなり少なくなっていた。しかし、山間高冷地の農家の場合は米に対する昔からの思い入れが、自分で作って食べたい、米のどぶろくもつくって飲みたいという願望があったであろうことからして、配給米や作った米でどぶろくをつくったのではなかろうかと。
 そう思って葛巻町出身のNK君に聞いたら、彼の子どもの頃(1970年代)にも米の「どんべ(=どぶろく)」をつくっていた、「青いポリバケツに入っていて、こたつ布団にくるんでこたつの脇に入れ、保温していたこと、また近所からもらうこともあったことを記憶している」という。そのころは彼の集落でも畑地の一部を開田して米をつくっていたので、それを利用してどぶろくをつくったのだろう。私の予想は的中した。
 しかし、私がまったく予想もしていなかったことも彼は言う、
 「米の『どんべ』を小学校から中学校にかけて飲んだことがあります、歯が痛い時とかに『これ飲んどけ』と言って祖母が出してくれたものでした」
 これには驚いた。米のどぶろくはこの地域では薬=鎮痛剤・元気回復剤として子どもにも用いられたようなのである。なぜなのだろうか。
 たしかにアルコールが体内に入れば痛みの感じは弱くなり、一瞬ではあっても元気が回復したように思えるし、催眠にも役に立つので、薬としてはいいかもしれない。これも医師にかかったり、薬屋に行ったりすることが当時の交通条件等々からして難しい山村の知恵だったのだろう。
 それで思い出した、何の映画だったか思い出せないのだが(戦後のアメリカ映画『子鹿物語』だったような気がするのだか)、アメリカの西部の開拓農家が気絶した子どもにウイスキーを口に含ませる場面があった。そのときは子どもに何で酒をと思ったものだが、医者や薬屋などない西部開拓地、これは都市からの遠隔地帯の農家の世界共通の知恵だったのだろう。それが日本にもあったのである。

 それにしても、NK君が子どもの頃から酒を飲んでいたとは驚いた。
 そしてこんなことも彼は言う、「『どんべ』はその時々で味が違った。やたらに米粒が残っていたり、酸っぱい『どんべ』もあった」と。たしかにその通り、どぶろくの品質は家により、時期により、気候により、出来た後の時間の経過等々によって違っていた。それは子どもでもわかったのだろう。
 それに付け加えて彼はこうも言う、「小学校・中学校から帰って何も飲むものがないとき、家で焼酎でつくった梅酒やさくらんぼ酒をちびりちびりと飲んでいた、もちろんごくたまにだけど。本当に美味しかった」と。
 このように子どものころから酒を味わっているからだろう、三つ子の魂百まで、酒はもうやめられなくなっているようである(本当に酒の味がわかっているかどうかは別にして)。おかげさまで私も飲み友達としていまだに付き合ってもらえる、これも酒癖をつけてくれたNK君のお祖母さんのおかげ、私は感謝しなければならない。

 問題はやはり税務署だ。何しろ雑穀どぶろくや山葡萄酒の摘発にさえ、しかも戦後の道路事情の悪い山奥まで摘発に来たという税務署のこと、当然厳しく取り締まられた(注1)。NK君のご父君はそのとき(まだ若かったころ)のことをこう話してくれたとのことである。
 「どの家でもも余ったご飯に麹を入れてこたつの『ほど』(注2)で保温して『どんべ』をつくるようになっていたが、自分の中学生のころ(1960年代初頭)のある日、税務署の職員がどんべ検査に突然やってきて、家の中にズカズカと上がり込んできた。最も気に食わなかったのは、検査のために、職員がどんべを口に含み、それをペッと吐き出す瞬間だった。もちろん検査員は飲むわけにはいかないのだろうが、自分たちが楽しみにして飲んでいるどんべを、目の前で吐き出されると胸糞悪い。せめて手で隠すとか、目に触れないようにするなどしてくれても良いではないか。
 そして言う、『薄いが、どんべだから、五千円を郵便局で支払え』と。摘発されたのは記憶の限りこの一回だけ、回数によって罰金の額が違ったのかもしれないのだが、いずれ当時の五千円は結構な金額だった(注3)。
 当然村のみんなはこれに対する対抗策を考え、同時に、ある家にどんべ検査が入ると、調べている最中にコソッと家族の誰かが抜け出して近隣に『どんべ検査が来たぞー』と知らせに行ったものだった」。
 NK君は言う、
 「この時はムラのツィッターが凄まじい勢いで拡散、機能したよう、もちろん伝達が間に合わない場合もあったが、村が一丸となれる瞬間であり、そのネットワークはまさにWebの原点といえるでしょう」
 みんないっしょになって暮らしをまもってきたこうした村々がいま過疎化で崩壊しつつある、本当にさみしい。

 ところで、このどぶろく=どんべをめぐる新「民話」、やはりこの地域にもできていた。NK君はご父君から次の二つの話を教えてもらったとのことである。
〇恩をあだで返された話
 一台の車が雪道で片方のタイヤを側溝に落として動けなくなっていた。通りかかった地域の青年が車を押して救出してやった。運転手は「ありがどがんした」と丁寧にお礼をした。
 その後、村にどんべ検査が入ったとの知らせが届いた。何とやってきたのは、助けたあの車だった。
 その青年は「どんべ検査だとわかってたら助けなかったのに」と後で口惜しがり、みんなの笑い話になった。
〇しゃれにならない「どんべ検査」
 郵便局からの嘱託で郵便配達をしているおじさんがいた。当時は週に数回、今より狭い範囲にオートバイで郵便物を配達していた。手紙がそんなにあるわけではなかった時代、配達時間もルーズだった。それで、配達ついでに、届け先の家の人と世間話をすることもしばしばだった。
 そのおじさんは酒好きであることが知られていたため、行く先々でどんべを振る舞われ、いつも酔っ払って配達をしていた。
 ある時、気分の良くなったそのおじさんは冗談で『どんべ検査に来たぞ』と言いながらある家の玄関をくぐった。中にいた家の人は、慌ててバケツに作っていたどんべを外に捨てて証拠隠滅を図った。
 ところが玄関にいたのは郵便配達のおじさん。家の人は、誰が来たのかを確認すればせっかく作ったどんべを捨てることはなかったのにと後悔し、配達のおじさんは、自分に振舞われるはずのどんべが飲めずに後悔した。冗談も程々にすべきなのである。

 ところで、さきほど梅酒とさくらんぼ酒の話が出てきたが、いうまでもなくこれは酒税法違反にはならない。焼酎という合法的なアルコールを使って酒にしているからである(注4)。マムシ酒もそうだ。
 NK君のご父君はこのマムシ酒について次のような話をしてくれたという。
 「この地域では春になると出てくるマムシを捕まえて焼酎漬けにしたものだった。そして歯痛、腹痛などのときに薬代わりに飲んでいたが、よく効いた(NK君注:父は「効いた」と言っていますが、単にアルコールで痛みを忘れただけではないかという疑いもあります)。体長30㌢くらいの小さなマムシが効くとされていた。
 首の部分を小さい刺股(さすまた)のような道具で捕まえ、水を入れた蓋付きの瓶に入れる。蓋には空気穴を開けて呼吸ができるようにしておく。しばらくマムシは生きているが、10日くらい放置すると死ぬ(NK君注:これにどのような意味があるのか、毒抜きのためなのかは不明)。それを一升瓶に入れて、焼酎を注ぐ。焼酎を注ぎ足しながら数年にわたって呑んだ。
 ちなみに、家の本家の親父さんはマムシ捕りの名人で、マムシ焼酎だけでなく、マムシを捕まえて皮をむいて生で食べていたそうだ(NK君注:新鮮ならヘビの刺し身もできるんでしょうか)」。
 こういう話、山間部ばかりでなく全国各地にあるはず、消えてなくならないうちに集めて残しておきたいものだ(注5)。

(注)
1.13年2月21日掲載・本稿第五部「☆麦どぶろく、大麦、麦わら細工」(1段落)参照。
2.炭火をおく灰のあるところ。
3.当時の大卒の公務員初任給は一万円、罰金はその半額だから現在でいうと初犯は罰金十万円ということになろうが、現金収入の少ない当時の山村の農家からすると五千円は現在の何十万円にも相当する金額だったのではなかろうか。
4.他にクコ、サルナシ(コクワ)、マタタビ等の酒があるが、これについては本稿下記掲載記事で述べてぃるので参照されたい。
  16年3月28日掲載・本稿第八部「☆コクワ、マタタビ、コケモモ」
5.NK君が秋田県の平坦部のある村の農協職員から聞いたいやな話もある。
 「税務署の職員が摘発にやってきたので、どぶろくを隠そうとある家の嫁さんが外にある小屋にこっそり運んでいった。それに気づいた税務署職員がその嫁さんの後をつけていった。それを遠くから見ていた嫁さんの夫、妻が襲われていると勘違いし、税務署職員に襲いかかり、殺してしまったという事件があった」。
 これは話として遺すべきなのか忘れ去るべきことなのかわからない。民話ではこうしたいやな話も辛い話も語り継いできたのだが。そこで本稿では本文に入れず注記として書いておくことにした。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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