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未成年者の飲酒と戦後青年世代



            戦後昭和の酒と村・街そして私(8)

         ☆未成年者の飲酒と私たち戦後青年世代

 なぜか知らないが、高校時代(50年代前半)の私はみんなから不良少年、ワルと思われていた。軟派であり(たとえば演劇部に入って女生徒とつきあっていたり、授業をさぼって映画を見に行ったり)、硬派でもあって(剣道部の復活に取り組んだり、応援団に入ったり、先生に抵抗したり)目立ったからなのだろう。いや、そもそもむくつけき風貌、性格俗物、言動粗野等々からしてそう思われるのもしかたがなかったのかもしれない。
 先生方もみんな私を不良と見ていたようである。たとえば私の高校二年の夏、あるサークルの蔵王登山(今と違ってすべて歩きだった)で山小屋一泊、その翌日温泉に一泊した時のことのことである。夜の食事の時、ウィスキーの小瓶(注1)を出してチビチビ飲み始めた顧問のN先生が笑いながら私にこう言う、
 「飲みたそうな顔をしているな、いつも隠れて飲んでいるんだろう、まあ飲め」
 そして小瓶の蓋に注いで(当時はそうやって飲んだものだった)私に差し出した。男である、そう言われたら飲まないわけにはいかない。
 「ありがどさまっす(ありがとうさまです)、ごっつおになるっす(ごちそうになります)」
 知ったかぶりをして、ごくりと飲んだ。とたんにむせった。実はウィスキーなど飲むのは生まれて初めて、あんなにきついとは思わなかった。のどに引っかかってしまい、涙まで出てしまったのである。
 それを見てN先生はまた笑う、
 「喜んで涙を流してる」
 これでまた一つ私の不良の評判が高まることになった。
 N先生のために弁護しておくが、あのころの先生と生徒の関係というのはこんなもの、隠れて悪いことをしなければ先生たちは大目に見たものだった。たばこについては厳しかったが。このときのウィスキーもこの一杯で終っている。

 もちろん私は自分を模範生だなどとは思ってはいない。でも不良でもない。本当の不良の連中(盛り場など街の中心部で育ったものに多かった)は私が小中時代に酒もたばこも一度も飲んだことがないことをなぜか直感的にわかっていた。そして私のことを何かあるとからかった。それが口惜しくて酒、たばこをやることになる(そこが私のだめなところ)のだが、高校卒業の年度末はクラスやサークルの分散会、送別会等々ではみんなで酒を飲んだ。もちろん学校では禁止だが、18歳になったのだからまあいいだろうと先生方も見て見ぬふりだった。飲み屋も何も言わずに酒を出した。

 高校を卒業するとみんな大手を振って飲んだ。働くようになったものは一人前として扱われて職場の先輩や同僚と、大学に入ったものは寮やサークルのコンパで飲んだ。農家の子どもも家で働くようになれば一人前として扱われ、村の集まりなどでは酒を飲まされた。街の飲み屋でも飲んだ。煙草もほとんどみんな飲んだ。もちろん何も言われなかった。
 20歳未満は未成年、飲酒や喫煙が禁止されているとみんな薄々は知ってはいても、18にもなればかつてはほとんど働いていて大人といっしょに飲むのが世の中の常識、そうなれば学生であっても何でも18歳はみんな一人前とみなされ、まあまあいいだろうと見過ごされてきたし、見過ごしてもきた。私の両親も私が18になったとき飲むことを許可したし、私も自分の子どもに対してそうした。

 にもかかわらず私は、大学三年=20歳になってから63歳の東北大定年まで、未成年の学生といっしょに飲むことなく過ごしてきた。一~二年生とはキャンパスが違うし、教員になってからも三年生以上を対象に教育することになっていたので接触する機会がなく過ごしたからである。
 ところが、第二の職場の東京農大では一~二年生も含めて教育するようになった。当然、新入生歓迎のコンパなどをクラスや研究室、サークル単位でやり、そこには指導教員が出席していっしょに飲むのだろうと思っていた。そしたら大学本部の方から、教員全員に新入生といっしょにお酒を飲んでは絶対にだめ、飲ませてはだめという通知がきた。まあこれは問題となっている「一気飲み」などさせなければいいということなのだろう、歓迎会には酒がつきものだなどと考えていたら、また厳しい通知がくる、18歳未満に飲ませたら飲ませたものも罰せられる、未成年者飲酒禁止法が改正されたのだ、絶対にやめてくれとのことである。そういえば新聞にそんなことが書いてあった、ということでジュースで乾杯、何ともしまらない歓迎会だった。

 だからといって私たちの時代がよかったとか何だとかいうつもりはまったくない。そもそも黙認されているとはいえ私たちはめったに飲めなかった。飲む金などなかったからである。たまにバイト賃が入ったから、仕送りがあったから飲もう(というより飲んでみよう)などと友人3~4人と安い居酒屋に行ったり、安酒を買ってきて飲んだりする程度だった。もちろん「ただ酒」は飲んだ。たとえば大学生協の理事や寮の役員をやっていたためにごちそうになることがあったし、友人の家で酒を出されることもあったからである。うまいも何もなかった、ともかく大人になったふりをしたかっただけだった。
 また、大人になったら試してみたいと思っていたことをやってみたかった、それで飲んだ、飲みに行ったということもあった。
 子どもの頃読んだ大人の雑誌や本(注2)のなかに、ビヤホールとかカフェー、喫茶店とかが出てくる。山形市内にはなかったので、何をするところかよくわからないけれど、大人になったら一度入ってみたかった。
 ポートワイン、電気ブランなどという酒があるようだが、これもどんなものか試してみたかった。

 ポートワインは高校三年の終り、クラス分散コンパのときに日本酒やビールといっしょに料理屋が出してくれた。子どもの頃からポスターや新聞・雑誌などの広告で知っており、しかも葡萄酒とのこと、いつか飲んでみたいと思っていたのだが、甘くて飲みやすかった。そしたら不良同級生は私に忠告した、飲みやすいのでついつい飲みすぎて二日酔いになる、ポートワインの二日酔いはひどいものだから注意しろと。言われなくともあの甘みがあまり好きでなく、あのとき以後ほとんど飲んでいない。いわゆるワインもそんなものだろうとずっと思っており、かなり経ってからまともなワインを飲んでその違いに驚いたものだった。

 仙台に来たら喫茶店があった。友だちと恐る恐る入っみたが、「レジ」と言う言葉がわからず恥をかいたものだった。
 何とビヤホールもあってそこはビールを飲むところとわかったものの高級な感じでなかなか入れなかった(注3)。初めて入ったのは三年になってから、何か大人になったような気がしたものだった。
 カフェーなる名前をつけた店(注4)はもう見当たらなかった。

 電気ブラン、この名前は戦後どこでも聞かなくなっていた。仙台にもなかった。何でだったか覚えていないが、かなりの年齢になってから父に聞いたことがある、電気ブランてどんなものか知ってるかと。そしたら、ブランデーに何か混ぜたものとのことだが、まずくって飲めたしろものではない、だから戦後なくなったのだろうと笑いながら言う。「電気」とどんな関係があるかと重ねて聞いたら、特に関係がない、何かモダンだからつけたただけではないかと言う。
 数年前のことである、たまたま仙台駅前の細い路地を歩いていたら昭和レトロの店というのを見つけた。後輩といっしょに入ってみたら何とメニューに「電気ブラン」があった。早速飲んで見た。もう一度飲みたいとは思わなかった。それでも年来の思いはこの年になってようやく達せられた。

 大学二年のとき、同じ寮に入っていた同郷の友人がこう言う。
 「夏休みで一ヶ月以上も帰省すると布団が湿って悪くなるが、質屋に入れておくときちんと管理してくれるし、お金も借りられる、利息はかかるがそれは布団管理の手数料だと思えばいい、こう先輩から教えられた。自分もやってみようと思うが、いっしょに質屋に行ってくれ。入ったお金で一杯飲もう、ご馳走する」。
 そこで二人で彼の布団を背負って質屋に生まれて初めて入った。300円(だったはずだ)借りることができ、夜の街に繰り出した。といってもどこの店に入っていいかわからない。小さな店ならまあ大丈夫だろうと入ってカウンターに座った。品書きの短冊のなかに「天丼」とあった。二人とも食べたことがない、値段は書いていないが、ともかくそれにしようと頼んだ。酒も一本頼んだ。こんなうまい酒は飲んだことがなかった。天丼が出てきた。エビの天ぷら、そのタレ、ご飯、そのうまいこと、二人とも目を丸くして顔を見合わせた。さていよいよ支払い、そしたら何と220円ときたもんだ。当時の学生のバイト賃は一日200円、それがそっくり飛んでしまい、80円しか残らなくなったのである。店は小さいが高級料理屋だったよう、しかも当時食べ物は相対的に高価、驚いてしまったが払わないわけにはいかない。二人でしょんぼり、でもうまかったなあなどといいながら最終列車に乗って帰郷した。これが忘れられない。
 何とも哀れな青春時代だった。

 いずれにせよお金がなかった。わずかな奨学金、しかも仕送りしてもらうお金は両親や祖父母が朝から晩まで汗水たらして稼いだもの、酒で使うなどと言うことはよほどのことでないとできなかった。あまり飲まなかったのは未成年だからではなかった。

(注)
1.登山で何かあった時の気付け薬用として、残りは晩酌用として先生は持って行ったもののようである。
2.前にも述べたが当時読む本がなくて大人の本まで読んだ。当時はほとんどルビがついていたので子どもも読むことができた。
3.11年6月3日掲載・本稿第二部「☆三種の神器、格差の縮小、中流意識」(4段落)参照
4.そもそもカフェとはコーヒーを飲ませる店(喫茶店)を言うものなのだそうだが、私が本で読んだ頃つまり昭和初期のカフェは女給がサービスしてお酒を飲ませる戦後のキャバレーのような店を称したものだったとのことである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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