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林立していた屋台の飲み屋



            戦後昭和の酒と村・街そして私(9)

         ☆林立していた屋台の飲み屋ー戦後焼け跡時代ー

 私が大学に入って仙台にやってきた1954(昭29)年、仙台駅前や県庁前などの中心街の路上に夕方になると屋台の飲み屋がずらりと並んだ。それまで私の住んでいた山形にももちろんあったが、そんなに数はなかった。さすが仙台は大都会とも思ったのだが、そのせいだけではなかった。戦災を受けたかどうかの違いにもあった。仙台は焼け跡がまだかなり残っており、住宅難でバラック(注1)住宅の多かったころ、盛り場に飲み屋をやれるような建物も多くないし、簡単につくることもできない。一方、戦災と経済混乱のため就職難でもある。そこで道端や空き地で簡単にやれ、建物に金をかけなくてすむ屋台で飲み屋を開業し、糊口をしのごうとしたのだろう。
 でも私は屋台に入って飲んだことはなかった。だれも連れて行ってくれなかったし、大学一~二年のときのキャンパスと寮は仙台駅からバスで30分くらいの農村部(今はすべて街になってしまったが)にあったし、屋台が学生の入っていいところなのかどうかわからなかったからである。

 1956年、三年生になって街の真ん中にある農学部キャンパスに通うことになった。その敷地は旧制二高の跡地で、空襲による焼け跡がまだ残っていた。何日か過ぎたある日、何でだったか夕方少し暗くなって学部の正門を出た。そしたら何と門の両側の生垣に沿って道端に屋台が数軒並んでいる。驚いた。昼はないのでまったく気が付かなかったのだが。この農学部キャンパスから四~五百㍍離れたところに医学部・大学病院(ここは戦災に会わなかった)があるが、その門の両側の道端にも屋台がずらりと並んでいた。
 誰が屋台にその道端の使用許可を与えたのかわからない。大学が与えるわけはないし、そもそも道路においてあるのだから大学に許認可の権限はない。道路は建設省か県、市の管轄なのだろうが、戦後の混乱期、そのころは黙認したのかもしれない。近隣の家々も大学という公共施設の前におかれたもの、文句を言う人もいなかったのだろう。大学としてもとくにじゃまになるわけでもないし、事情もわかるので放置していたのかもしれない。

 夕方になると、屋台(注2)を人が牽いて、あるいは屋台を自転車の後ろにくっつけて引っ張ってくる。そしてその道端の屋台を開く場所=一定の決まった場所(だれがそれを決めたのか不思議である)に来るとそこに止め、屋台の下の車を動かないように固定させ、組み立てを始める。
 まず、屋台の道路に面した正面の半分に戸障子がくっつけられ、残りの半分の屋台の軒先にのれんがぶらさがり、座ると尻が落ちそうな小さい長椅子がその中に並べられる。その前に机があり、机の真ん中にはおでん鍋もしくは焼き鳥用コンロがおかれ、机の後ろ側は屋台の主人が立って料理をしたり客の相手をしたりするところで何にもなく(冬になると戸障子でその後ろをある程度囲うが)、そのさらに後ろにバケツが2~3個あり、どこから汲んできたのかたっぷり水が入っている。水道などないからこの水を料理や洗い物に使うのである(水がなくなったらどこから汲んでくるのか不思議だったが、どこか近くの家に頼んでもらってくるのだろう)。こうやっていろいろ準備の終わって夕闇が濃くなった頃、薄暗い電灯が屋台の天井に一つ点く(この電気をどこから引いたのか、今になって疑問に思う)。外の赤ちょうちんにも灯が入る。そして焼鳥やおでんの匂いがし始める。にぎにぎしく並んだ赤ちょうちんが夕闇の中に浮かび上がり、食べ物の匂いが道路に流れ始めるころ、何人かの客の後ろ姿が外から暖簾越しに見える。盛り場からちょっと離れているのによく客がいるものだと不思議だった。
 翌朝、路上には何もない。とくに汚れているわけでもない。昨夜の景色は何処へやらである。

 屋台はここ以外にも本当に各所にあった。街の中心部の盛り場や路上ばかりでなく、焼け跡、住宅街の空き地や道路等々、よくもこんなにと思うくらい、たくさんあった。戦災の後も残る住宅難のころ、飲み屋のためのまともな建物がまだつくれなかったことにもよるのだろうが、そんな時代でも家の外で飲みたいと思う人間はやはりいたのである(やがては私もそうなるのだが)。旧市内には数百軒あったのではないかと誰だったか言っていたが、そうかもしれない。
 このように、しかも通学先の農学部の前にも屋台が並んのだけど、私は入ったことがなかった。盛り場にあった屋台の支那そば屋に行ったことが一度あるが。
 安いらしいとは聞いていてもどれだけお金が取られるか不安、学生が入るところではないような気もしたからもある。

 学部生活にも慣れたころ、若手の先生方や先輩から行きつけの屋台に連れて行ってもらった。キャンパスから歩いて数分のところの空き地にあった(下には車が四っつちゃんとついてはいたが、固定されていた)が、たまに先輩や友人といっしょに割り酎をすすりながらおでんをつついたり、カレーライスを食べたり(ともにうまかった)したものだった。
 「割り酎」、これは焼酎にピンク色の梅シロップをちょっぴり垂らしたもの(だから「割り酎」を「梅割り」とも言った)、コップ一杯30円、焼酎だけの20円よりは高いが、生臭さがシロップで消えており、本当においしかった。しかも日本酒の半値、安くてうまくて早く酔えて、きわめて経済的だつた(注3)。当時の日本酒は高いばかり高くて、何かべとついてうまいとは思わなかったからなおのことだった。垂れた酒が徳利の底につくとべったりテーブルにくっついて離れなくなるのもいやだった。後でわかったのだが、それも当然だった。当時の酒の多くは米と米麹で作ったもろみに醸造アルコールを入れ、これにぶどう糖や水あめ、酸味料、グルタミン酸ソーダなどを添加して味を調えたものだったそうだからである。
 たった一つ、割り酎の欠陥はその飲みやすさについつい飲み過ぎてしまってバタンキュー(そういえばこの言葉をこのごろ聞かないが、もう死語となっているのだろうか)となってしまうことである。先輩からは飲みすぎると腰が抜けるから気を付けろと言われていた。
 何かの用事で昼飯抜きで過ごしたある日の夕方、同級生三人とその屋台に行ったときのこと、お腹がすき、のども乾いていたので立て続けに二杯キューッと割り酎を飲み、三杯目なかばまでいったとき、ふっと眠くなった。後はわからず、はっと気が付いたら、二人に両脇から肩を担がれて歩かされていた。
 そういえば、屋台ではシャンとして割り酎を飲んでいた人が、外に出て数㍍先の電柱につかまったまま動けなくなっている姿を見かけたことがあるが、私もその状態、腰が抜けてしまったようなのである。
 こんなことは当然生まれて初めての経験、それからはかなり気をつけるようになったので、最後の経験ともなった。

 私が勤めはじめたころの1960年代後半ころからではなかったろうか、屋台が少なくなりはじめた。
 高度成長が東北に波及して焼け跡がほとんどなくなり、盛り場に料理屋や居酒屋、バー等の多種多様の飲み屋が並ぶようになったこと、就業機会も増えたこと、酒も相対的に安くなったことなどから、屋台を止める人が増え、新たに始める人や屋台に入る客が相対的に少なくなったからなのだろう。
 もう一つ、道路交通法とか食品衛生法、景観等々から屋台に対する規制が厳しくなったこともあるようである。これに対して屋台存続の運動も起き、屋台は「一代限り営業免許」とするということで決着がついたということだった。つまり現在の経営者がやめたらその営業権は消滅するというのである。それで徐々に少なくなり、20世紀末には駅前の大通りの路上に数軒ある程度になっていたが、今はどうなっているのだろうか。最近は見ていないのだが。

 こうして屋台が少なくなっていた80年前後のある夜、住宅不足問題を取り上げていたテレビを何の気なしに見ていたら、そのバックにこんな歌が流されてきた。
 「あなたとわたしの アパートは
  裸電球 まぶしくて
  貨物列車が 通ると揺れた
  二人に似合いの 部屋でした
  覚えてますか 寒い夜
  赤ちょうちんに 誘われて
  おでんをたくさん 買いました
  月に一度の ぜいたくだけど
  お酒もちょっぴり 飲んだわね」
 驚いた、初めて聞いたのだが、これは60年前後の私と家内の青春ではないか。ぜひきちんと聞いて覚えたい、そう思ったのだが、何という歌で誰がうたうのかわからない。大学院生ならわかるだろうと思って聞いたら、それは「かぐや姫」の歌う『赤ちょうちん』(注4)ではないかという。まさしくそうだった。そしてこの歌を正確に覚えたのだが、同時に『神田川』も知った。これも私たちの青春だった。でも、どちらかといえば『赤ちょうちん』の方が好きだった。

 仙台の屋台・赤ちょうちんにご無沙汰して何年か過ぎ、学会があって行った博多の街を仲間と夜いっしょに歩いたとき、屋台の多さに驚いた。客の多さにも驚いた。博多では仙台のような規制はしていないのだろうか。みんなで入ってみた。なつかしかった。それで福岡にいる三日間そこに通ったが、客はみんななじみのようで何となくいづらくなるのと、最後に食べる豚骨ラーメンのあまりにも脂っこかったことで、その後行くことはなくなった。でも、もしも福岡に行く機会があったなら最後の思い出にともう一度屋台に行ってみたいと思っている。

(注)
1.急造の粗末な仮設の建物のこと。
2.説明するまでもないとは思うが、屋台とは下記のようなものと言っていいのではなかろうか。「上に屋根があり、下に四輪の車がついていて牽引できるようになっており、両脇に板壁があり、真ん中に飲食物を載せられる机のついている一坪から一坪半の建物」。

3.あのころ私たちの飲んだ焼酎は「焼酎甲類」=「廃糖蜜や酒粕などを原料とした発酵液をもとに、連続式蒸留器で蒸留して高純度エタノールを生成し、これに加水したもの」=「連続式蒸留焼酎」(ja.wikipedia.org/wiki/焼酎より引用)であり、私などは薬臭く、生臭く感じたものだった。なお、当時の焼酎のことに関しては下記の本稿掲載記事でも述べているので参照されたい。
  13年2月4日掲載・本稿第五部「☆焼酎とイモ」(1段落)
4.歌:かぐや姫、作詞:喜多条忠、作曲:南こうせつ、1974年


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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