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居酒屋から小料理屋・バーへ




            戦後昭和の酒と村・街そして私(10)

          ☆居酒屋から小料理屋・バーへ―高度成長時代―

 屋台の数が急激に減少しはじめたころからだったと思う、安サラリーマンは居酒屋に行くようになった。当時私たちの研究室の助教授だったKT先生や技官のTKさんたちとたまに行った仙台駅前の居酒屋は床がまだ土間で、そこに机と椅子がおかれ、またカウンターもあった。そこで私たちが飲んだのはもはや「割り酎」ではなく、「もっきり」(注1)だった。
 もっきりを注文すると、店の人がガラスの小さな受け皿にガラスのコップを載せて私たちの前に出してそのコップにあふれるほど日本酒を注いでくれる(普通は冷や=常温だが、燗もしてくれた)。するとコップから酒が下の受け皿にこぼれる。その受け皿にこぼれた酒は店からのサービスである。私たちはまず満杯のコップに口をつけて一口飲んでこぼれないようにしてから、受け皿にこぼれている酒をすする。これをもっきりと私たちは呼んでいたのだが、このコップからあふれる酒、この粋な計らい、これがうれしい。何となくもうかったような気がする。ついつい「もう一杯」となる。
 ところでこの「もっきり」とはそもそも「盛り切り酒」で「盛り切り一杯いくらと定めて売る酒」の転訛・省略したものとのこと(注2) だが、私たちは今述べたようなコップから酒をあふれさせてサービスしてくれる酒をもっきりという理解でかつては過ごしてきた(今もこうした「もっきり」を出してくれる店はあるのだろうか)。
 もちろん、焼酎も出すし、ビールも出す。しかし焼酎を飲む人は少なくなっていた。日本酒が相対的に安くなっていたし、生活も相対的に安定してきていたからなのだろう。おつまみの種類も多くなっていた。ビールも安くはなっていたが、手軽にしかも安心していい気持ちになるのはやはり日本酒だったのだろう、もっきりを飲んでいる人がほとんどだった。
 こうした居酒屋には夕方5時半ころから7時ころまでびっしり勤め帰りの客が入り、一人で、あるいは仲間と飲んでいた。
 街もにぎやかになっていた。ようやく世の中、戦後の混乱から立ち直った、という感じだった。

 暖簾をかきわけて小さな引き戸を開けると、細長い一間に調理場、カウンター・椅子、小上がり、そして主人と何人かの客が目に飛び込む。ぎっしり詰めると十数人の客が座れるだろうか。主人とあいさつを交わし、空いている席とこちらの人数を考えて適当な席に座り、酒とちょっとした料理を頼む。一人の時はもちろんカウンターだ。主人とぽつりぽつり会話を交わしながら手酌で酒を飲む。なじみの客が多いので、隣に座った客との会話もある。
 こんな小料理屋が60年代後半になると盛り場にたくさんできた。そして多くの人がなじみの店を持つようになった。
 私もその一人で、70年代になってからだったが、若いころ知り合いだった山形出身の女性の開いたある小料理屋に行くようになった。仙台では食べられないなつかしい山形の料理をつまみに、研究室のメンバーや友人と飲んだり、遠来の客があると連れてきて飲んだものだった。春と秋の山菜の季節になるとおかみが山形内陸の実家に休日に帰り、山に行って自ら採って持ってくるわらびやきのこ等の山菜料理はたまらなかった。そんなこともあるのだろう、山形出身者や宮城の農協県連、ジャーナリスト等々がなじみの客となっていった。この小料理屋はこうした特徴を持っているのだが、さまざまな個性を持った小料理屋が、さきほど述べた居酒屋に加えて、たくさん立ち並ぶようになった。
 さらに、寿司屋が増え、おでん屋、焼き肉屋などもでき、こうしたところでも飲めるようになった。
 こうした和風の飲み屋が盛んになる一方、洋風のバーも数多く見られるようになってきた。もう焼酎の時代、焼き鳥の時代ではなくなっていた、

 ちょっと時間をさかのぼるが、戦後3~4年過ぎたころ、こんな歌が日曜の昼休みにラジオから繰り返し繰り返しうるさいほど聞こえてくるようになった。
  「晴れた空 そよぐ風
   港出船の ドラの音愉し
   別れテープを 笑顔で切れば
   希望はてない 遥かな潮路
   ああ憧れの ハワイ航路」(注2)
 NHKの「のど自慢」だから大半は鐘一つで歌が途中で終る、それどころか「晴れた空」と出だしを歌ったところで下手だと鐘がなって終わらされた時代だからまだいいが、それにしても耳についていやになるくらいだった。
 しかも私にはこの歌はどうしてもしっくり来なかった。目にも心にもまだ強く残る戦争の傷痕とこの明るい歌、それも敗戦国民が勝者の国にあこがれて讃える歌、この何とも奇妙な取り合わせが気になり、今もあまり好きになれない歌なのである。でも、あの殺伐とした暗い、身も心も寒い時代、豊かな国アメリカ(内実は別にしてそう見えた)、明るい暖かい常夏のハワイ、行きたくともいけないまさに「夢」の島を思い浮かべることで一瞬でも忘れたい、こういうことからもこの歌が大ヒットしたのだろう。

 それから10年以上たち、テレビ(もちろん白黒だったが)が一般家庭に普及しつつあった1961年、「トリスを飲んでハワイに行こう」というコマーシャルが繰り返し繰り返し流され、耳について離れなくなった。もはや「ハワイ航路」の時代ではなく飛行機の時代で早くは行けるようになっていたけれども、飛行機などは一般庶民の手も足も出ないころ、しかもドル高円安、ハワイはまだまだ遠かった時代に、トリスウイスキーの瓶に付いている抽選券が当たれば行けるようになるというのである。このコマーシャルは大ヒット、ウイスキーを飲んで、しかもハワイの夢がかなうかもしれない、ということでかなり売れたらしい。

 ウイスキーといえば、私たちにとってはアメリカだった。ガンマンがスタンドバーのカウンターの前に立つと茶色のウィスキーの入った小さなグラスがカウンターの上を滑ってきて目の前に止まり、それをグイッとあおる、こうしたシーンが西部劇の映画によく出てきたからである。そのアメリカとウィスキーが結びついた宣伝、これまたぴったりだったのだろう(注3)。
 もちろん私はトリスを買わなかった。アメリカなど行きたくもなかったし、そもそもウイスキーが好きではなかったからもある。友人が私の家に来た時に父がウイスキーをお湯で割り、砂糖を入れて飲ませてくれたことがあったが、この時だけは甘くてうまいと思ったが、ウィスキーそのものは辛いだけでうまいと思ったことはなかった。

 ちょうどその「ハワイに行こう」のころ、バーとかいう洋風の飲み屋が仙台の繁華街のあちこちに見られるようになっていた。
 西部劇で見たようなカウンターの後ろにママと蝶ネクタイを締めたバーテンダー(ほとんど男性)、女性1~2名(いつのころからかホステスと呼ぶようになった)がおり、その背後には色とりどり、大小・形さまざまの洋酒の瓶がまばゆい光に照らされて輝いている。客はカウンターの前に並ぶ高い丸椅子に座り、カウンターの下にある長い棒(ここから「バー」と言う名前がついたのだそうだが)に足を乗せる。何となくぜいたくな気分、外国に行ったような気分になる。
 一番安いのはウイスキーのシングルで、ボトルから小さいグラス(ショットグラスというらしい)に半分くらい注いでくれる。これで30円だ。あっと言う間になくなってしまう。割り酎と同じ値段なのに、これではさっぱり酔わない。ダブルを注文するとその倍の量、値段は50円で少し割安となる(注5)。それでも飲んだ気がしない。特別うまいわけでもない。
 それでも何となく雰囲気が違うのでたまに行く。そのうちにハイボールとかジンフィーズとかいうカクテルがあることを知った。そしてバーテンダーなる男性は接客と同時にシェーカーを振ったりしながらこうしたカクテルをつくるのが役割だということも知った。見ていると客の多くがハイボールを頼んでいる。そこで頼んでみた。するとバーテンがシングルと同じ量のウィスキーとソーダ水と氷をシェーカーなるものに入れてそれを両手で持って振り、混ざったところでコップに継いでくれる。とくにおいしいわけではない。アルコール分も薄い。でも二次会などで来ると、酔い覚まし兼酔いの維持に役立つし、飲み干すのにシングルより時間がかかるので間がもつ。これが一杯50円、もう私も勤めているころ、インフレに対応して給料もそれなりに上がっているので、何とか小遣いで飲める。そんなことからだろう、夜の8時過ぎころから宴会帰りや小料理屋でできあがった男たち(やがて女性たちも来るようになるのだが)でいっぱいになった。

 今宴会帰りと言ったが、宴会用の座敷をいくつかもつ大きな料理屋もあった。寿司屋、天ぷら屋などの店で宴会用の座敷をもつところもできた。私たちはこのうちの相対的に安いところを選んで研究室の忘年会と暑気払いの年2回いくだけ、高くてめったに行けなかった。
 ましてや芸妓をあげるいわゆる料亭などには行けるわけはなかった。この料亭に最近田中角栄が来たそうだなどいう話を噂で聞くだけだった。
 行けないところといえばキャバレーもそうだった。バンドがあって、サービスする女性がたくさんいて、ダンスのできるところということ、とてもじゃないが高そうでいけなかった。それよりはかなり安いというミニキャバレー的なアルサロには研究室のメンバーと行ったことはあるが。

 このように和洋、大小、形式さまざまな飲み屋が高度経済成長の進展、仙台の人口増加とともにでき、盛り場はかつての住宅地まで侵食して大きくなり、1970年代から80年代にかけての仙台は夜中までネオンサインや電飾看板が輝くようになった。戦争の傷痕などまったく見られなくなっていた。
 都市部ばかりではなかった。農村部の中心的位置にあった町の商店街もミニ仙台の様相を示すようになった。

(注)
1.「もっきり」については前に本稿で書いたような気がするのだが思い出せない。もしかして重複していたら、これも「歳による記憶力低下のせい」、お許し願いたい。
2.「盛り切り酒(モッキリザケ)とは コトバンク」『大辞林』より引用
3.「憧れのハワイ航路」、歌:岡晴夫、作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩、1948年

4.西部劇に出てくるのはトウモロコシでつくるバーボンウィスキーであり、本来のウイスキーの本場はイギリスなのだそうだと、高校のころ同級生が教えてくれたことがあったが、あのころは私と同じように多くの人がアメリカとウィスキーをむすびつけていたのではなかろうか。
5.今回調べてみたらシングルは一オンスで約30㎖、ダブルはその2倍の量なのだそうである。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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