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車社会初期の農村部の飲み屋



            戦後昭和の酒と村・街そして私(11)

            ☆車社会初期の農村部の飲み屋

 戦後十年も過ぎ、農地改革や食糧増産政策の展開等の戦後民主化の成果が少しずつ現れ始めてきた頃、農家のどぶろく晩酌もそろそろ終わりをつげ、酒はもちろんビールでの晩酌もできるようになってきた(注)。また飲み屋で一杯飲むくらいのゆとりも出てきた。
 しかし村(1954年の昭和の大合併以前の村)には飲み屋がなかった。戸数が少ないし、貧しい農家も多く、その上交通も不便なので飲みに来る客も少なく引き合わないからである。だから飲み屋が一軒もない村もあった。
 もちろん地域の中心部の町、たとえばその昔の郡役所、今の県の地方事務所などがあって人の集まってくるような中心部の地区、人口の多い村の役場がある集落、交通の要衝や観光地のある集落などには、商店や飲食店、旅館などが集まった繁華街(その大小は別にして)があった。だからそこで飲むこともできるが、徒歩中心の時代ではそれもきわめて難しかった。
 このように農村部に住むと都市部の人間が享受し得る夜の灯り、賑わいなどなかなか味わえなかった。

 宮城県北の平坦部にある旧Y村もそうだった。村内に飲み屋は一軒もなかった。
 70年代前半のある夏の日、そのY村の調査に一人で出かけたときのことである。夕方、役場での聞き取りが終ってバスと汽車を乗り継いで帰ろうと思ったら、旧知の農業青年Wさん、農協職員Yさん、農業改良普及員Gさんの三人が私に会いに来た。そしてこう言う、私か役場に来てるのを聞きっけたので迎えに来た、これから飲みに行こうと。私もしばらくぶりでその三人と飲みたかったし、本当にうれしかったのだが、汽車の時間があるからと断った。そしたら、大丈夫だ、最終列車に間に合うようにするからと言う。そこまで言われたら断る理由はない。それならと付き合うことにした。とは言うものの村内には飲み屋がない。どうするのかと思ったら、Wさんが自分の車に乗れという。農協のYさんもいっしょに乗せて北の方に向かって走り始めた。普及員のGさんはというと、通勤用のオートバイでこの車の後ろを走っている。そして向かったのは何と、Y村の隣の隣、10㌔くらい離れた(旧)H町、県の地方事務所のあるこの地方の中心の街だった。
 当時のことだからこの辺のような農村部は国道たりといえどもすべて未舗装のでこぼこ道、車の後ろには土ぼこりが舞い上がる。オートバイのYさんはそのほこりを吸い込まないように手拭いをマスクがわりにして口と鼻を覆っている。まさに当時子どもたちに人気だった「月光仮面」スタイルだった。
 30分くらいしてH町の中心部に入り、繁華街(もちろん規模は小さかったが)のなかの小料理屋の裏に車を止め、店の中に入った。まだ日は落ちていなかったが、奥の小座敷に上がり、早速乾杯である。店の中はこぎれい、出てくる料理も仙台の店などにひけはとらない。話は盛り上がり、いい気分になったころ、二次会に行こうという。でも、私としては帰りのバス、乗り継ぐべき最終列車の時間が心配、聞くとまだ大丈夫だという。それで外に出た、もう暗くなっていたが、何とまわりはネオンがともり、大小の飲み屋、バー、料理量、寿司屋が立ち並んでおり、まさにミニ仙台だった。そして次に連れていかれたのは何とキャバレーだった。といっても仙台のアルサロ並みで小さいとのこと、それでも接客の女性はたくさんいた。そこの踊り場でWさんが飛び入り、神社の祭りで踊ったというやくざ踊りを披露する等盛り上がったのだが、私は帰りが気になる。ともかく帰ると言ったら、もう最終列車は行ってしまった、家に泊まっていけとのことである。驚いてしまったが、最初からその計画だったようで、それにひっかかってしまったわけだ。やむを得ず最後の中華そば屋までつきあい、いよいよ帰途につくことになった。
 問題はどうやって家に帰るのかだ。そしたら何と、前と同じ車に乗せられた。しかもWさんの運転(運転代行などなかった時代だ)、まさに飲酒運転、Gさんもやはりオートバイである(今なら懲戒免職というところだが)。真っ暗な田んぼの中(当時は主要道路でも街灯がなく、車がまだ少なくてヘッドライトもほとんど見なかった)を走り、Gさんとは途中で別れ、Wさんの家に到着した。
 恐縮しながら家に上がり、わが家に今日は帰れないと電話をさせてもらい、茶の間で奥さんの出してくれたお茶を飲みながら雑談をしているときのことである。ふと長押のところを見上げたらそこにいろいろな賞状が掲げてあった。その一つを見て驚いた。何とそれはWさんが警察署からもらった優良運転手の表彰状ではないか。もう笑うしかなかった。そして翌日、二日酔いの頭をかかえながら仙台に帰った。

 やがてそんなことを言って笑っていられる時代ではなくなった。
 本格的な車社会になって交通事故が深刻な問題となり、とりわけ酔っ払い運転による事故が大きな社会問題となってきたからである。そして飲酒運転は80年代に入ってとくに厳しく取り締まられるようになった。そうなると農村部はきわめて困る。町に飲みに行けなくなる。行きは公共交通機関、帰りはタクシーにすればいいといっても、列車はなし、バスの停留所は遠く、本数も少なくて不便、タクシーは距離が長いからすさまじく金がかかる。
 そこで考えたのが、いっしょに行った仲間のうちの一人だけ酒を飲まないで帰りに運転することである。当然酒を飲めない人は面白くないが、そのかわりに次回は別の人が運転をするつまり持ち回り運転ということで納得しており、みんなをそれぞれ家に送ってから帰る。
 そうこうしているうちに運転代行ができ、行きは自家用車、帰りは代行運転で全員で飲むことができるようになった。料金は何人かいっしょに乗っているから安上がりだ。もちろん宮城泉北の旧Y町から仙台まで来るのは金も時間も大変である。しかし、この地方の中心部の旧H町の繁華街ならそれほどではない。そこでみんなは飲みに行ける。そうなると地域の中心部の街の商店街は繁華街としてその繁栄を維持できる。
 こうして自然に恵まれた農村部に住みながら都市部のもっているものを享受できる。そう言う点では、町と村の格差が少なくなった(もちろん規模の差はあるが、それはそれでまたいいものである)。いい世の中になったと思ったものだった。
 しかし、それは長く続かなかった。車社会化の深まりは日米の大企業優遇政策の展開とあいまって、都市部と農村部の格差を大きく広げることになったからである。

 あれから約50年、旧H町など農村地域の中核的な地位をしめる市や町のの繁華街は今どうなっているだろうか。私の東北大定年から約20年、東北の農村地域に行く機会もなく過ごして来たからどうなっているかわからないが、もしかしてシャッター通りなどになっているのではなかろうか。それは私が東北を離れて北海道に行く前世紀末に見られるようになってきていたのだが。
 このことについてはまた後で述べることにしよう。

(注)11年3月30日掲載・本稿第一部「☆どぶろくから酒、ビールへ」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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