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酒の種類・飲み方の多様化



            戦後昭和の酒と村・街そして私(12)

             ☆酒の種類・飲み方の多様化

 「60年代後半ではなかったろうか、まだ明るさの残る夏の夕方、農家調査が終わったので調査員みんなでバスに乗り、宮城県北のある駅に着いた。仙台に向かう列車が来るまでまだかなり時間がある。暇つぶしのために飲み屋にでもと思ってもそんなものはない。しかたなく駅前をうろついていたら、酒屋があった。その店のなかに仕事帰りかと思われる人が二、三人、コップを持って立っている。コップには酒が入っているようだ。さきイカなどの入った袋を買い、それをつまみにしてコップを傾けている。酒がなくなると店の人が一升びんからコップに酒を注いでくれる。バスが駅に着いた。彼らは勘定を払い、そのバスに乗り込む。夕方、仕事帰りの待ち時間潰しにキュッと一杯ひっかけ、いい気持ちになって家路につくのだろう、何ともほほえましい。しかも飲み屋と違って原価で安く飲めるのだから、家族にも迷惑をかけない。
 これを見た私たちはすぐにまねをした。何しろ値段は安いし、待ち時間つぶしには最高だった。いいことを覚えた。それから農村部の駅で待ち時間があれば駅前の酒屋で立ち飲みをするようになった。」
 本稿の第三部でこんなことを書いた(注1)のだが、酒に関するその続きを書けば次のようになる。

 やがて駅構内の売店や車内販売で「ワンカップ」という一合のガラス瓶に入った酒を売るようになった。それから数年して缶ビールも販売されるようになった。これは便利だった。しかも安上がりだった。調査が終わった後、それぞれ自分の好みでワンカップもしくは缶ビールを買い、おつまみを買って飲みながら、調査の感想やさまざまな雑談をしながら、楽しく帰路についたものだった。
 私たちだけではなかった。夕方以降、車内でワンカップや缶ビールを一人で静かに、あるいは何人かでにぎやかに飲んでいる通勤客や旅行客をよく見かけるようになった。
 70年代に普及したこのワンカップ、缶ビール、これはきわめて便利だった。でもそれは、農村部の駅前にあった酒屋や飲み屋の衰退、大手の酒造業者による零細な造り酒屋の駆逐、農村部の衰退に拍車をかけるものでもあった。このことに気が付いたのはそれからかなり経ってからだったが。

 かつて各町村の中心地域にはほとんどといっていいほど小さな造り酒屋がいくつかあった。そしてその多くは地主だった。戦後の農地改革で土地はなくなったが、酒造りは続けた。続けることができたと言った方がいいだろう。1940(昭15)年に始まる戦時国家統制により酒の原料米が当時の各業者の製造石数に応じて割り当てられていたので、業者間の競争はなく、しかも米不足・酒不足、つくったものは何とか売れたからである。たとえ売れ残っても大手の酒造業者が桶ごと買ってくれた。大手の販売力のある酒造業者はいくら需要があっても原料調達が割り当て石数で制限されて増やせないので、零細業者の売れ残りのあるいは売れ残る危険性のある酒を買い(これを「桶買い」と言つた)、それをブレンドして販売するしかなかったからである。さらに大手の業者のなかには零細業者に国から割り当てられた酒の原料米を買う権利=酒を何石か造る権利を買い、その権利を行使して米を自ら買い、酒を造って売るというものさえ現れた。
 こうした「桶売り」や「造石権売り」などでもって潰れずに生き延びてきた零細酒造業者があったのだが、1969(昭44)年から始まる自主流通米制度(注2)によってそれができなくなってしまった。この制度で酒造業者は酒の原料米を自由に米の卸売業者などから直接購入できるようになったからである。つまり桶買いなどしなくとも、零細業者に依存しなくとも、自分で欲しいだけ原料米を購入して酒を造り、それを販売することができるようになったのである。当然のことながら大手をはじめとする酒造業者はそうしたのだが、そうすると困るのはこれまで桶売りなどしてきた業者である。大手に売れなくなった酒を自ら販売しなければならない。しかし競争激化の中で販路の新規開拓、拡大は容易ではない。どうしても販売力のある大手の酒造業者には負けてしまう。ワンカップ製造などに乗り出すのも容易ではない。しかも、大企業の生産するビールやウイスキーとの競争、飲食や飲み屋の洋風化による日本酒の需要の停滞のなかでますます販路拡大は困難になっている。
 こうして弱小造り酒屋は競争に負けて赤字倒産で、倒産とまでいかなくとも赤字になることを見越して将来性に早々と見切りをつけて、廃業ということになった。とくに販路の少ない小さな町村の造り酒屋がそうなった。私はこうした「造り酒屋」の廃業から農村部の町村の盛り場のシャッター通り化は始まったと思っているのだが、どうだろうか。
 もちろん、零細な造り酒屋が合併して技術力と販売力を強化したり、さまざまな技術的経営的努力をして生き延びた経営はあったが。

 やがて、なじんでいた「特級」「一級」「二級」などの酒の等級はなくなり、各酒造業者が「特撰」「上撰」「佳撰」、「吟醸酒」「純米酒」「本醸造酒」等々の区分けをして、価格もさまざまで販売されるようになった。そして小料理屋などの飲み屋はいくつかの銘柄を値段を違えて、お燗ばかりでなく「冷酒」としても飲ませるようになり、飲み方はバラエティに富むようになった。

 ビールは4大メーカーで実質独占されている(注3)が、その販売競争のなかで缶ビールに関してはさまざまな種類が販売されるようになった。また、かつてはビヤホールとかでしか生ビールをジョッキで飲むことはできなかったが、小さな飲み屋でも樽からジョッキに注いで飲ませるようになった。しかし、飲み屋では注文のときどのメーカーのビールか、瓶か生か聞くだけ、日本酒よりは単純化しているようだ。

 単純化といえばバーで飲ませる洋酒がそうなってきた。前に述べたようにかつてはさまざまな色や形の多様な酒の瓶が照明に照らされて輝いていたのだが、いつの間にかウイスキーのボトルと称する同じ形の瓶がずらりと並び、茶色一色となり、かつてのきらびやかさがなくなったのである。そしてそのボトルの首には小さな名札がぶら下げられている。そのボトルは名札に書かれている名前の客がその店で購入したもの、つまり所有物であり、そうやって飲むと本来の定価よりも安く飲めるとのことなのである。それでお得意さんは「ボトルキープ」し、そのボトルが棚に並ぶということになるのである。そして客が普通飲むのはそのボトルウィスキーの水割りもしくはオンザロック(ロックと省略して呼んだ)となってきた。同時にハイボールはまったく見なくなった(最近復活しているようだが、なぜなのだろうか)。私もそもそもハイボールがあまり好きではなかったので水割りに切り替えた。日本酒などほかの酒も頼めば出してくれるが、かつてのようなカクテルはほとんど出さず、まともに飲みたければ専門化したカクテルバー(本当にわずかしかなかったが)に行くしかなかった。
 そのころからではなかったろうか、バーをスナックと呼ぶ人が出て来たのは。バーとスナックは同じものなのか、違うとすればどこが違うのか、私にはいまだによくわからない。

 もう一つ変わったのは、かつての焼酎(戦後私たちが普通飲んでいた「甲類」)を飲ませる店は少なくなり、麦焼酎、そば焼酎、鹿児島の芋焼酎、沖縄の泡盛、熊本の球磨焼酎など(「乙類」)を出してくれる店が出てきたことである。しかもそれを小料理屋やバーでも出すようになり、好みに応じてお湯割り、お燗、水割り、オンザロックで飲むようになった。これは80年代に入ってからではなかったろうか。焼酎ブームと言われたような記憶もあるのだが、どうしてこうなったのか記憶にない。この時期にはかつての焼酎のイメージ、貧しい人の飲む低級なまずい酒という認識は完全に払拭されていた。もしかして、焼酎のかつてのイメージを知らない世代が酒を飲む年代になり、彼らが抵抗感なく焼酎を飲んだことがブームをもたらしたのかもしれない(注4)。

 1970年代、バーや小料理屋に入ると流行歌など歌が流れてくるようになった。さらには聞きたい歌があればリクェストもできると言う。有線放送なのだそうである。歌を聴きながら酒が飲める時代になってきたのである。
 1980年ころではなかったろうか、いろいろな流行歌の歌詞が書いてある分厚い冊子のおいてある小料理屋やバーが見られるようになった。その冊子を開いて自分の歌いたい歌を言い、100円硬貨を出すと、店の人がカセットテープを探してそれと硬貨をカラオケと称する電気機器に入れて操作してくれる。するとそこからその歌のメロディが流れてくる。それに合わせてさきほどの冊子の歌詞を見ながらマイクを持って歌う。自分の歌声が伴奏付きで機器のスピーカーから流れてくる。歌手になったようできわめて気分がよく、うまく歌えたような気がする。酒を飲みながらみんなでかわるがわるカラオケで歌う。こんな光景がよく盛られるようになった(注5)。
 やがて、テレビ画面に歌詞とそれに合わせた背景が映り、それを見ながら歌うようになってきた。さらに90年代(だったと思う)、今の通信カラオケとなり、リモコンで思うように操作できるようになってきた(私は難しくてできないが)。
 伴奏付きで歌いながら、あるいは飲み仲間の歌を聴きながら、酒を飲み交わす、こういう飲み方、楽しみ方もできるようになった(あまりにも歌がうるさいので、その逆にカラオケボックスで歌うようになって歌う客が少なくなったので、カラオケをやめる店も出てきたが)。

 今から10年くらい前のことである。農大のときの教え子の結婚式で富山に行ったとき、時間の空いている午前中に街を散歩した。暑い日で喉が渇いたので、コンビニに入り果物の缶ジュースを買った。早速蓋を開けてグイっと飲んだところ、冷たくて甘い果汁サイダーのような感じ、それにしても何かきつい、ハッと気が付いた、アルコールが入っていると。そしたら、いっしょに歩いていた教え子の同窓生が「先生、それ発泡酒ですよ」と言う。慌てた、これでは式でのお祝いの挨拶ができなくなってしまう。そこであわてて飲料水のペットボトルを買ってがぶがぶ飲み、体内のアルコール濃度を下げて何とかなったのだが、そうなのである、こんな酒も出てきていたのだった。
 生協ストアの酒のコーナーに行くとチューハイなどの多種多様の缶カクテルが並んでいる。今の若い人たちは酒に非ざる酒を飲んでいるらしい。その変わり方に、私たち世代との違いにただただ驚くのみである。
 シャンペン、ワインも並んでいるが、西洋料理店や洋風宴会で出される程度で普通の飲み屋で出すところを私はあまり見たことがない。なお、ワインについては後でまた触れることにする。

 いずれにせよ飲む酒、飲み方、飲み屋、まさに多様になってきた。どう評価すべきなのか、まだよくわからないのだが、ともかく世の中(少なくとも国内は)とりあえず戦争だけはなく酒が飲める、きっといいことなのだろう。。

(注)
1.11年11月18日掲載・本稿第三部「☆『飲む』『打つ』と農地手放し」(1段落)参照
2.自主流通米制度とは「米の生産者が、政府の定めた計画に則して出荷された米のうち、政府指定の業者を通じて直接消費者へ販売する米の流通制度」を言い、それまでの政府による米の売買の統制を弱めるためのものだった。
3.沖縄には「オリオンビール」があり、県内消費の大半を抑えている。これは戦後占領下にあったことからできたものであり、そんなことから私は沖縄ではオリオンビールを飲むことにしている。なお、他にいわゆる地ビールがあるが、これについては後に述べる。
4.13年2月4日掲載・本稿第五部「☆イモと焼酎」参照
5.12年6月25日掲載・本稿第四部「☆無伴奏からカラオケへ」(3段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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