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宴会とお酌



            戦後昭和の酒と村・街そして私(13)

                ☆宴会とお酌

 農家調査は憂鬱だった。自分の職業上必要不可欠であるのに、何度も何度も調査をしているのに何を言うと思われるかもしれないが、まったく見知らない人から話を聞くわけだから、果たしてうまく聞けるかどうか、十分に聞き取れるか、調査票を埋められるのか等々不安で、朝調査に出かけるとき胃がおかしくなるほどだったのである。
 しかし、夕方調査が終わって宿で調査員みんなでビールを軽く飲むとき、ほっしたものだった。とくに最終日の夜、ご苦労さん会と称してみんなで宴会をしたり、帰りの列車でワンカップや缶ビールを一杯飲むときの開放感、充実感は何ともいえず、本当に楽しかった。

 もう一つ、調査の終わりころの夜、調査地の農家の方や役場・農協の職員、同行してくれた県や農政局の人たちと私たち調査員といっしょに飲む、これも楽しかった。
 調査で聞けなかった話、聞かなかった話、昔の話から裏話等々、さまざまな話を聞くのが本当に勉強になる(といっても聞いたことを酔っぱらって忘れてしまうことがあるのが困るのだが)。ときによっては、地域の民謡を歌ってくれたり、踊りを踊ってくれたりもし、本当に楽しいひと時を過ごさせてくれる。翌日の二日酔いが大変だが、そんなことを忘れて飲んでしまう。

 温泉の旅館などでの一泊を前提とする講演会の講師として頼まれ(注)、昼の講演が終った後の夜に開かれる懇親会=宴会に同席させてもらうのも楽しい。ただし、最初は気づまりである。何しろ上座に据えられ、両隣にはお偉方が座り、酒もあまり回っていないので会話はどうしても固くなり、話もあまりはずまないからだ。やがて座が乱れ、徳利やビール瓶をもってみんなが酒注ぎにまわるようになると、私のところにも農家や農協・役場等の方々が代わる代わる来て酒を注ぎ、講演内容に対する感想や意見、飲まなければ言えないような本音の話、地域の歴史や名産品の話等々、さまざまな話を聞かせてくれる。これもまた楽しいし、勉強になる。

 ところでこうした懇親会・宴会に、いつのころからか「お酌」と称する女性が何人か出てきてお酌をするようになってきた。それまでは宿の女中さんがちょっとの時間お酌のサービスをするということはあったし、温泉の旅館などでは芸者を頼んでお酌をしてもらうという話を聞いたことはあるが、専門にお酌と会話だけをする女性かいるということは知らなかった。さらにそれから何年か過ぎてその「お酌」は「コンパニオン」と名称を変えて宴席に侍るようになってきた。
 この「お酌」という言葉を私が初めて認識したのはある温泉の旅館でだった。

 話の時代をちょっと戻すが、1963(昭38)年夏、私の20代後半のころ、岩手県奥羽山麓のある村の調査に当時助教授だったKT先生を中心に研究室のメンバー数名で行ったときのことである。いろいろごたごたのあった調査を何とかやり終えたので、最後の夜には近くの山間部の温泉の旅館に宿泊しで気分直しの打ち上げ会をやることになった。夕方旅館に到着し、夕食にビールとお酒をと仲居さんにお願いしたら、「芸者を頼みますか、お酌にしますか」と言う。客は飲むときに接待の女性を侍らせるもの、それが常識となっているようである。しかし、そういうことをしたことがない。つまり常識のなかった私たちがどうかしていたのかもしれないが、非常識と思われるのもどうかということで、それにしたがってお願いすることにした。しかしよくわからないので聞いてみた、芸者とお酌はどう違うのか、どちらがおすすめかと、そしたら、芸者は一時間400円、お酌は350円だが、お酌の方がおすすめだという。その助言にしたがいお酌を頼んだ。
 打ち揚げ会が始まり、乾杯がすむと同時に洋服を着た二人の女性が入ってきて上座のKT先生から順次お酌をしてくれたが、私たちも調査マン、聞くは一時の恥、ある程度お酒がまわってからその彼女らに聞いてみた、芸者とお酌とはどう違うのかと。そしたらこう説明してくれた。
 ここでいう「芸者」とは、日本髪の鬘(かつら)をかぶり、和服を着て夜の宴席に侍ることを専業にしているものである。しかし、三味線や踊りなどのいわゆるお座敷芸はしない、というよりできない。これに対して「お酌」とは、いわゆるアルバイトで宴席に出るもので、たとえば我々の座敷に来てくれた二人の場合は近くのバーを共同経営しながらホステスをやっており、早い時間だと客が来ないのでその時間を利用してアルバイトでお酌に来ているのだという。この辺の聞き取りはお手のもの、何しろこちらは調査を商売にしているプロである、そのほか二人の話はいろいろと本当におもしろかった。勉強になった。仲居さんのおすすめは正解だった。当然二次会は外出して彼女らの経営しているバーへということになった(こうした誘客も二人のお酌バイトの理由のようである、なお当時は旅館内に二次会場のあるところなどまったくなかった)。

 それにしても驚いた、芸者の揚げ代がそんなに安いとは。まともな芸はしないというのだからそれは当然のことだろう。要するにこうした芸者は和風お酌であり、「温泉芸者」とも呼ばれたもので、大都市の料亭などに出入りする「芸妓」とは違うものらしい。
 もちろん、温泉にも吉永小百合の『夢千代日記』のようなまともな芸者=芸妓もいたようだが、私はお目にかかったことがない。また、いわゆる料亭で芸妓をあげるほどの「高級」な宴会に出る機会など私にあるわけはなし、芸者のことなと頭にも浮かべることなしに過ごしてきたのだが、やがて鬘をつけ和服を着て温泉旅館等の宴席に侍る名ばかり芸者は少なくなってすべて「お酌」となり、それと並行して都市部の料理屋の宴会にも「お酌」が登場するようになってきた。

 そんな時代になって何年か過ぎた80年代初頭の頃の話である。農家調査で秋田に行ったとき、私の後輩研究者で当時秋田のある大学に勤めていたKA君が運転してくれる車で調査地に向かっていたときのことである。その途中、たまたまある有名な温泉の近くを通った。私はそこに泊まったことがなかった。そこでふと思いついてこの温泉には芸者がいるかと彼に聞いてみた。そしたら「いますよ、『旗振り芸者』だけど」と答える。一瞬とまどった、旗振り芸者?、今まで聞いたことがない、何のことか理解できない。そしたら彼は苦笑いをしながら、こう説明してくれた。
 この周辺は出稼ぎ地帯で、農家の男はほとんど出稼ぎに行っている。嫁さんも農閑期は農外で働きたいが、誘致企業もなく、地元に働き口がない。何とか探せる仕事は道路工事の現場で旗を振る交通整理、つまり「旗振り」だ。しかしそれは不定期・低賃金、それで夜になると温泉旅館に頼まれて「お酌」のアルバイトをする。昼は旗振り、夜は紅白粉をつけてお酌、だから『旗振り芸者』と言うのだ。
 この話はショックだった。当時は女性の旗振りなどはほとんどいなかったころだ。また農家の嫁さんがお酌のバイトに出る、これも初めて聞いた。言葉が出なかった。KA君は続けて言う、だからあの温泉での宴会に出るのはどうも気が進まないんだと。

 それから少し経ってからの話である、何の用事で行ったのか忘れたが、宮城県北のある町役場の車に乗せてもらって田んぼの中の道路を移動しているときのことである。向こうからダンプカーが来た。なぜか知らないが、ダンプカーがスピードを緩め、止まった。同時に私の乗っていた車も止まり、運転してくれていた役場の職員が窓を開けた。同時に、隣のダンプの運転席の窓も開いた。何と若い女性である。しかも美人だった。これには驚いた。ダンプカーの運転手が女性なのである。私は見たことも聞いたこともなかった。もう女性がダンプ運転するそんな時代になったのかと驚いたのだが、彼女は役場の職員と知り合いらしい。何かしゃべっていたが、最後に「それじゃまた今晩」とお互いにあいさつして別れ、それぞれの車が出発した。それで聞いてみた、お知り合いですかと。そしたら彼は笑いながら言う、「今晩、会わせますから」。何のことかわからないでいたが、仕事が終わっ夕方、私の宿泊する旅館で役場の職員の方々との懇親会が始まった。そこにお酌の女性が二人現れた。そのうちの一人、よくよく見たらお昼にちらっと見たダンプ運転の女性ではないか。これでまた驚いた。昼は男の仕事と当時言われていたダンプの運転、夜は女の仕事になっているお酌、まさに「ダンプ芸者」(和服ではなかったが)、いろいろ事情はあるのだろうけれど、彼女は明るくたくましかった。世の中本当に変わったもの、女も強くなったもの、ただただ感心するばかりだった。

 やがてパーティ形式の宴席も増え、それに対応してかどうか「コンパニオン」という言葉が使われるようになり、「お酌」という言葉は聞かなくなってきた。
 90年前後ではなかったろうか、たまたま山間部にある温泉で開かれた農協青年部の懇親会に出席した時のことである。お酌をしてくれたコンパニオンの女性がくれた名刺を見たらコンパニオン派遣会社の名前があり、しかもその所在地は30㌔くらい離れた大都市だった。驚いた、どうやって遠隔地のここに来て、また帰るのだろうか。自分で運転して通勤しているのだろうか。それにしては返杯を受けて酒を飲む。それではここに泊まって明朝帰るのだろうか。不思議に思って聞いてみた。そしたらこう答えた、会社のマイクロバスの送迎で往来しているのだと。さすが車社会、世の中変わったものだと驚いた。同時に、コンパニオンさんたちに払うお金は温泉のある農村部ではなくて都市部に行ってしまうことに気がついた。車は農村部から都市にお金を運ぶためのものだということをここでも感じさせられた。
 (次回は1月7日掲載とさせていただく)

(注) なぜこうした講師を引き受けたかについてはまた別の機会に述べたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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