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料亭と芸者



            戦後昭和の酒と村・街そして私(14)

                 ☆料亭と芸者

 もう40年も前になる話だが、カナダからの留学生で研究室の大学院生だったD君(日本語が堪能だった)がある日こんなことを私に言う、「実は今ある娘さんの英語の家庭教師をしているが、その教え子のお母さんから、あなたがお世話になっている先生方をご招待してご馳走したいから連れてきなさいと言われた、いっしょに行ってくれないか」と。よくよく聞いてみると、家庭教師に行っている家は仙台でも五本の指に入る高名な料亭、お母さんはその女将をしているというのである。驚いた、彼が家庭教師をしているのは知っていたが、まさかその料亭Sの娘が生徒とは知らなかった。きっと女将は、せっかく日本に来ているのだからD君に日本の料亭文化を味わわせてやりたい、ただし一人だけしかも若い外人だけの席では座がもたない、そこでお世話になっている先生への御礼としていっしょに連れてきなさいということなのだろう。しかし、私たちがまともに行けるようなところではない、どうしようか迷ったが、ぜひにとお母さん=女将から言われているとD君はいう。結局、ご厚意に甘えて当時研究室の教授をしていたKT先生と助教授の私がお招きに預かることになった。
 さて当日である、打ち水をしてある立派な玄関(いつもは道路から遠くのぞいているだけだったのだが)から上がって長い廊下を通り、奥のしゃれた小座敷に通された。床の間、そこに飾られている掛け軸や生け花、戸障子等々、何ともゆかしく感じられる(そういうところに慣れていないからそう感じただけなのかもしれないのだが)。先生と私が上席、そのわきにD君が座らされた。やがてお膳が運ばれ、酒も来たところで女将が挨拶に来た。お世話になっている、ゆっくりどうぞと挨拶した後、歓談が始まった。女将の話題の洗練されていること、話の引き出し方、まずそれに感心する。そして料理の見事さうまさ、驚くばかりである。特に豪勢、豪華なわけではない。量が多いわけでもない。器、盛り付け方、彩り、味のよさ、私には言葉でうまく表現できないが、ともかく品がある(こう感じるのも貧民のせいかもしれないが)。もちろんうまい。
 やがて芸者さんが三人入ってきた。もちろん、髪を島田に結い(注1)、芸者独特の着物姿、一人は袋に入れた三味線を持っている。入り口で正座をして挨拶をした後私たちの前に座り、お酌をしたり、話をしたりして少したった頃、私と同年代(40代」と思われる一人が三味線を弾き、一人が唄い、若い一人が踊り始めた。これまた見事である。まともな芸妓の藝を生まれて初めて目の前で見た。礼儀作法は本当にきちんとしており、凛としているという言葉が当てはまる。お酌をしてくれながらの会話も言葉遣いがきれいで一歩控えめ、退屈もさせない。
 一流料理人の腕、芸者等の洗練されたおもてなし、風格のある座敷等々、何もかも初めて、D君も聞いてはいたがと目を丸くするだけだったが、まともに支払ったらどれくらいになるのだろうか。
 やはりこういうところは企業のご接待や商談(談合)、政財官界などのお偉方の密談、芸者を侍らせての遊興、飲食をするところ、「一見さんは入れない」というような庶民の手の届かないところもあるというが、私などはおこぼれにも預かれないところ(だったのだが、私は留学生のおこぼれにたかったことになる)のようである。

 そのときこんなことを考えたものだった、こうした料理や座敷、芸者の芸を一部のお金持ちや政治家、お役人の独占物ではなく、一般庶民もちょっと気張れば味わえるところにしてもらいたいものだと。

 もちろん、そんなことは私が考えなくとも料亭も考えてきていたようだ。そしてたとえばご婦人の来やすいお昼の時間に安い値段で料理を楽しめるようにするなどの努力をするところもでてきた。そんなこともあって、私たちもその後料亭に足を運ぶ機会ができた(もちろんめったになかったが)。
 しかし、1986年からはじまったバブル景気によるお金持ちや企業の料亭利用の増加は、料亭の時代に合わせた変革意識を弱め、さらなる努力を怠らせたような気がするのだが、どうだろうか。

 1991年、狂乱とまで感じさせたあのバブル景気は崩壊した。それは企業の接待、宴会や商談、談合、成金の遊興を激減、つまり料亭の利用を減少させた。
 宮城県の場合それに追い打ちをかけたのが93年の県知事と仙台市長のからむゼネコン汚職事件摘発だった。これは土建などの企業の料亭利用を激減させた(註2)。
 その復活の声もまだ聞こえない95年、今度は官官接待問題が騒がれるようになった。地方自治体が公費を用いて中央省庁の官僚に酒食等のもてなしを行うことに対する国民の反発が高まり、官による料亭利用が激減したのである。これは料亭の客足を急減させ、その経営に大きな打撃を与えた。

 官官接待、自治体からの公費によるもてなしは私も受けた。私は官だとは思っていないが、当時は国立大学の公務員だったことからすると私も官、官官接待を受けたということになるのだろう。ただし私に飲ませても、予算を取ってくれるわけでもなし、便宜を図れる権限をもっているわけでもなし、何のメリットもない。だから高級料亭でのご接待はなかった。県や市町村から依頼されていた仕事の打ち上げやせっかく遠方から来たのだからと日本流の「おもてなし」、「歓迎」、「親睦」の意を示すためのもので、料理屋や旅館の小座敷でこじんまりとごちそうしてもらった程度だった。

 ちょうど官官接待問題が新聞テレビで大きく取り上げられたころである。秋田県庁に用事があって行ったとき、大学で私の教え子だった県職員が何人か集まってくれ、駅前の小さな居酒屋でいっしょに飲んだ時のことである。気分がよくなってみんなの声が大きくなったころ、一人がこう注意した、おれたちが県職員だとわかるような話をするなと。会費制で飲んでいても官官接待と間違われて新聞沙汰にされると困るからだというのである。ここまで神経質になっているのかと驚いたものだが、これでは秋田の高級料亭の利用は激減だろうと推測させるものだった。

 それから一ヶ月くらいして別の用事で秋田に行ったときのことである。駅から宿まで乗ったタクシーの運転手さんに聞いてみた、秋田でもっとも高名な料亭○○は今どうなっているかと。するとこう言う、以前は毎晩1~2回は客を乗せて行ったり、料亭に呼ばれて乗せに行ったりしたものだった、ところが官官接待問題以降ほとんど声がかからない、週に一度がせいいっぱい、高級料亭は閑散としているらしい、官官接待と関係のない飲み会も利用をついつい控えるということもあるのだろうが、われわれも水揚げが落ちて困っていると。
 その話を聞いた後、私は冗談交じりに秋田の人にこう言って冷やかしたものだった、「秋田は民間大企業がないので高級料亭等は官官接待で支えられてきた、その官官接待がなくなったら、秋田の料亭文化、食文化はすたれてしまうだろう」と。

 仙台の料亭もバブル崩壊から官官接待問題までの一連の世紀末的な混乱を引き金にして相次いで閉店した。ちょうどその時期は私が農大の網走キャンパスにいたころ、仙台に帰ってきた06年ころには十数軒あった料亭でそのままの場所で何とか残っていたのは2軒くらいではなかったろうか。D君といっしょに招待されて私が初めて行った料亭もなくなり、仙台一大きいと言われていた料亭もなくなっていた。
 赤坂や神楽坂等々、東京でも料亭の数が激減しているとのことだが、全国的にそうなりつつあるようである。

 話はさかのぼるが、80年代末に山形の私の生家で生母の50回忌と妹の52回忌(注3)の合同法要をしたときのお斎(とき)(=法要の後にふるまう食事)は街の中の料亭だった。その料亭は山形では高名だが、私が入るのは初めて、座敷、庭、料理、接客すべて品を感じさせるものだった。その後の生家の法要のお斎(とき)はすべて料亭(同じところとは限らなかったが)だった。
 私の家ばかりでなかった。かつてお斎(とき)は法要を営むそれぞれの自宅の座敷でするのが普通だったのだが、そのころは外でやるようになっていたようであり、その外の一つが料亭だったのである。それ以外にも祝い事や客のご接待に料亭を利用するようになった。一般庶民もお金を少し奮発して料亭を利用するようになってきたのである。料金は料亭の側との相談で決めているのだろうが、それにあわせて料理等を加減しているのだろう。でも質はまったく落としていない。新しい工夫もなされており、たとえば法事専用の器などをつくったり、椅子テーブルにしたりしているところもあった。いずれにせよ座敷は立派、古いままのところはその風格を誇り、新改築したところは近代風の洋式も取り入れており、接待にあたる人の動作も洗練されており、ともかく料亭に来たと言う雰囲気を十分に味わわせてくれる。料亭は庶民の行けるところ、行くところになりつつある、そんな感じをさせた。ここに仙台をはじめとするほかの都市との違いがあるような気がするのだが、どうだろうか。
しかし、先日山形の生家に行ったとき末弟に聞いたら、私が高校のころから知っている老舗の料亭は一昨年とうとうやめたという。かなり古くなった建物の新改築の費用が出せないからだろうか。新改築した別の料亭もやめたところがあるらしい。全国チェーンの料亭や冠婚葬祭業の進出、拡張に耐えられなくなってきたからだろうか。まだ残っているところはあるとのことだが、やはりどこもみんななくなってしまうのだろうか。

 かつて山形に150人もいたといわれている芸者は、全国的な傾向と同様に、20世紀末にはほぼ絶滅したという。
 芸者というと私の頭に浮かぶのは、身売り、前借金、売春だった。それは小説や人の話で知ったのだが、外国でもゲイシャガール=売春婦とみられていたとのことである。前にも書いたように私の中学時代の同級生が二年生のときに身売りで半玉にさせられ、学校に来られなくなったことでそのことを実感した(注4)のだが、芸者には暗いイメージがあった。
 しかしもう一方で、芸者は舞いや唄、三味線などの歌舞音曲の芸、接客や礼儀作法、茶道、華道まで教え込まれ、その見事な芸や接客、礼儀作法で客を楽しませ、宴席を盛り上げてくれる今で言う「おもてなし」のプロでもあった。また、こうした芸者の中から小唄勝太郎、市丸、美ち奴、赤坂小梅、神楽坂はん子などの歌手が生まれ、戦前戦後にかけて人気を博したものだった。
 そうなると、芸者の暗い側面をなくし、もしも名前が悪ければ芸妓とか舞妓とかに変えて、その存続を図ってもいいのではなかろうか。

 しかしそうはならなかった。身売りや売春は戦後の民主憲法のもとで厳しく取り締まられるようになり、さらに女性の就業機会も増えるなかで、暗い厳しいイメージの芸者の成り手はいなくなった。私たち戦前生まれの世代でほぼ絶滅してしまったようだ。
 何とか生き延びているのは京都の舞妓・芸妓のみ、なりたいという若い女性が全国から集まってくるというテレビ番組を見たことがあったが、これはイメージ転換すれば新たな形で存続することも可能だということを示すものなのかもしれない。私のように考える人もいるのだろう、たとえば山形県の酒田市では80年代半ばから舞妓の伝統の復活に取り組んだ。私も90年代半ばに宴会でその舞妓さんに会ったことがあるのだが、酒田の料亭が壊滅状態になっているらしい今、どうなっているだろうか。さきほど述べた山形市でも「やまがた舞妓」「芸者」の復活に取り組み、秋田でもやられているとのことだが、これからどうなるのだろうか。

   「銀杏返しに 黒繻子(くろじゅす)かけて
   泣いて別れた すみだ川
   思い出します 観音さまの
   秋の日暮れの 鐘の声」
 17歳の娘が芸者に出され、隅田川のほとりで好きな人と泣いて別れるしかなかった儚い恋の歌『すみだ川』(注5)の一番の歌詞である。一、二,三番の歌詞の合間に入る台詞が印象に残るのだが、私の生まれた翌年につくられ、戦中は事実上禁止、戦後復活したこの歌を子どもだった私は悲しく聞き、後には芸者にならされた中学の同級生のことを考えながら辛い思いで歌ったものだったが、私としてはこれをその昔の芸者の悲恋の歌として残しておきたい。でもやがて忘れ去られていくのだろう。それでいいのかもしれないが、やはりさびしい。

(注)
1.「島田に結い」と書いたが、それでいいのかどうか、ともかく芸者と一目でわかるような髷の結い方であり、正式にはどう呼ぶのか私にはわからない。
2.このころの談合と料理屋のことについては本稿の下記掲載記事で振れているので参照されたい。
  12年9月14日掲載・本稿第四部☆「『費用対効果』と農山村地域」(3段落)参照
3 .生母と妹の死については、本稿の下記掲載記事で述べているので、参照されたい。
  10年12月14日掲載・本稿第一部「☆子守り―幼い妹の死―」頁、
  10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」頁
4.11年3月1日掲載・本稿第一部「☆半玉の中学生」参照
5 .唄:東海林太郎、台詞:田中絹代、作詞:佐藤惣之助、作曲:山田栄一、1937(昭12)年。



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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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