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20世紀後半の農村部の繁華街の変化



            戦後昭和の酒と村・街そして私(18)

           ☆20世紀後半の農村部の繁華街の変化

 その形成のされ方はさまざまだが、農村部にも繁華街があった。その昔は周辺の農林漁家がその生産物や加工品を持ってそこに集まり、売ったり買ったりする市を開いていたところなのだろう。もちろん街と言っても小さく、農林家も住み、周囲は田畑や林野に囲まれてはいたが。
 私の子どものころ(戦前から戦後初期)、この繁華街には荒物屋(雑貨屋)、金物屋、肥料屋、鍛冶屋(蹄鉄屋)、呉服屋、履物屋、桶屋、魚屋、電気屋(これは戦後だが)等々の農作業や日常生活に必要な品物を売る店、米穀業者(多くは肥料・飼料業者を兼ねていたが)、造り酒屋など農畜産物を買ったり加工したりする店が集中していた。
 またそこには町村役場や郵便局があり、戦後は農協があった。
 そして、役場や農協、商店に用事のある人々が立ち寄るお茶屋や食堂などの飲食店があった。その昔、年に一度くらい用事で街に行くことを命じられた嫁さんはもらった小遣いで子どもといっしょにライスカレーか支那そばをこうした食堂で食べるのが何よりの楽しみだったと言う。
 酒を飲ませる食堂もあった。牛馬車が主要な輸送手段であった時代、荷物を運び終わっての帰り道、食堂からいいにおいがしてくる。懐には運んできた生産物の代金あるいは荷駄賃もある。そこで馬を食堂の裏にある杭につなぎ(そういう場所があった)、水と餌を与えて、食堂の椅子に座る。懐が温かいのでついつい酒も頼んでしまう。いい気持ちになったところで勘定を払って出発、疲れも出てきたので空になった荷車に乗って後ろから手綱をあやつる。しかし途中で眠くなってついつい寝てしまう。でも心配はない。馬は来た道の通りに戻って家まで連れて行ってくれる。馬は賢いものだ。研究室の教務職員だったTKさんは子どもの頃のそうした話をよく笑いながらしてくれたものだった。
 小さな宿屋もあった。徒歩・牛馬車が中心の時代、何時間もかけて往来しなければならないので、ちょっと長くなれば帰れなくなり、どうしても泊まることが必要となる場合があったからである。私も若いころ農村調査のときこうした宿屋に何度か泊まったことがあるが、愛想も何もなかったけれども気が置けず、泊まりやすかった。

 その宿屋や飲食店が地域の宴会の会場にもなっていた。
 あるとき、私たちの泊まる宿屋の広間でどこかの宴会があり、うるさくて困ったことがあるが、早い時間で終わったのでうるさくて眠れないなどということはなかった。次の日役場でその話をしたら、役場の職員の飲み会だったとのこと、うるさくしてごめんなさいということでいっしょに大笑いしたことなどもあった。
 飲食店の場合、店に続く住居の奥にある広い座敷が宴会場で、家族と客の出入口が兼用になっていた。もしかするとその座敷は宴会が終ると家族の寝所になったのかもしれない、そんな雰囲気だった。
 これが昭和初期から1960年代までの農村部の中心街=繁華街の姿だった。

 それを大きく変えたのは自家用車の普及と道路の整備だった。
 60年代から70年代にかけてのいわゆる企業誘致による弱電・繊維等の中小零細工場の進出や地方のインフラ整備のための土建業の拡大による就業機会の増加、それにともなう農家の兼業化の進展、米価をはじめとする農産物価格の上昇(十分不十分は別にして)による農家所得の向上は、自家用車を必要とすると同時にその購入を可能にしたものだった。
 そして車で簡単に買い物ができ、飲み食いもできるようになった1970年代、前に書いたように小料理屋やバーをはじめとするいろんな店が町の繁華街にでき、ネオンも輝くようになった(注1)。
 またガソリンスタンドもでき、農機具屋もできた。これは車社会化からばかりでなく、農業の機械化・化学化にもよるものだが、かわりに鍛冶屋(蹄鉄屋)、桶屋などが繁華街から姿を消した。また、造り酒屋が姿を消すところもあった(注2)。

 80年代、車社会が定着する中で、農村部のバスや列車の減便、廃線が続き、それに対応して村の住民は個人用の車を持たないわけにいかなくなり、家に2~3台あるのが普通になった。そして車に依存しなければ生活できない時代になった。
 金はかかるけれど便利にはなった。たとえば役場に行くのに今までは徒歩で1時間もかかったところが10分で行けるようになった。また車社会は都市部と農村部の距離を縮めた。
 そうなると、たとえば今までなら一泊しなければならなかったのに、泊まらずに往復することができる。あるいはより便利な大きな町のホテルや近くの温泉などの旅館から車で往来できる。つまり、農村部の繁華街にある宿屋に泊まらなくともよくなったのである。当然宿泊客は少なくなった。また結婚式場としても利用してくれない。都市部ののホテル・結婚式場を利用するようになったからである。そうした方が遠方からくる招待客には交通の便がよくて喜ばれるし、近隣の人などはマイクロバス等で送迎すればいい。
 かくして昔からあった宿屋は利用客が少なくなり(地元に工事現場などあって長期間滞在する客があれば別だが)、廃業となる。つまり車社会が村の繁華街の宿屋を消滅させたのである。
 さらに車社会は繁華街の商店街の利用も減らした。車で都市部の商店街に買い物にいけるようになったからである。本来賑わうべき土日などはかえって客が減るなどと嘆く店も出てきて廃業する店もぽつりぽつりみられるようになってきた。

 しかし車社会は農村部に新しい店も作り出した。大きなパチンコ屋である。車で簡単に往来できるようになったからである。
 ただしそれは旧来の繁華街にでなく村はずれだった。駐車場の確保ができるからである。そこに近隣から車が集まってきた。土日や農閑期には満杯になった。農作業の暇な冬場には近隣の農家の男が毎日のように車で通ってきた。
 ある農家の方がこんなことを言って笑っていた、「パチンコ屋に行くとさまざまな職種の人が休みの時に来て遊んでいる、そのうち仲良くなった大工さんがハウスつくりを手伝ってくれたり、電気屋に勤めている人が半値で電気製品を譲ってくれたりする、パチンコも役に立つもんだ」と。それにしてもパチンコ屋で農閑期の冬期間金と時間を注ぎ込むのはもったいない。それで農協が冬場のチューリップの施設栽培を導入し、パチンコ通いをやめさせて産地形成をしたという笑い話のような実話もあった。
 それはそれとして、村はずれのパチンコ屋は村の中心街・繁華街に一切金を落とさなかった。パチンコの帰りに繁華街で一杯あるいは何か買い物などということなしに、負けてそそくさと帰るだけの人が多かったからである。

 ところで80年代は農村部に林立していた縫製、弱電などの零細下請け企業が親企業=大企業によって切り捨てられて途上国に立地するようになった年代だった。それで誘致企業で働く女性がその帰りに車で繁華街の商店で買い物をして帰るという姿も見られなくなった。こうした女性の就業機会の減少はその大都市への流出を促進させ、それも小さな町の商店を衰退させることになった。
 こうしたさびれていくだけの繁華街を見ている商店の子どもたちは将来に見切りをつけて家を継がず、親もそれを黙認して細々と営業を続けるしかなかった。

 それでも80年代はバブル期であり、リゾート法の施行もあって農山村でのスキー場、ゴルフ場、リゾート施設、別荘地の新設、温泉の掘削等々が大企業系列のデベロッパーのリードのもとに各地で進められた。そしてこれを狙って国道沿いに食堂や直売店ができた。
 また、定年後農山村で暮らしたいと、退職金と宅地売却代金とで農山村の景色のいい道路沿いに建てた洋風のしゃれた喫茶店や菓子屋、ペンションも見られるようになった。
 さらにカラオケボックスや結婚式場までできた(注3)。
 しかし、やはりこれらはみんな村はずれ、昔からの村の繁華街とは関係がなかった。ましてやそうした諸施設がつくられた道路は繁華街の狭い道路を避けてつくられたバイパスであり、繁華街を通る道路は車が通り過ぎさえせず、閑散としていた。

 こうして寂れつつあった繁華街に決定的な打撃を与えたのが、1991年の日米構造協議にもとづく大規模小売店舗規制の緩和だった。それを契機に国道沿いの田んぼの真ん中にスーパーの大型店舗があちこちに建ち、そこにいけば村々から車で簡単に買い物に行けるようになり(注4)、バブル崩壊による不景気とあいまって、農村部の小さな町の繁華街の商店は廃業を余儀なくされた。さらに車で簡単に行ける道路の要衝などに夜中でも利用できるコンビニがぽつりぽつりでき始めたこともそれに拍車をかけた。
 ただし、役場や農協の前の食堂はなくならなかった。役場や農協には人が集まるので、それなりの利用があったからなのだろう。

 さらに大きかったのは1994年のガットウルグァイラウンド締結と95年の食糧管理制度の廃止をはじめとする農業保護政策の決定的な後退だった。これはほとんどの若者たちを農業から村から離れさせ、農村部の高齢化を決定的なものにし、繁華街の利用を減少させた。
 それでも90年代後半はまだ活気があった。ガットウルグァイラウンド対策費が出されたのを契機に一村一品運動、各種イベントの開催による都市との交流、地域の景観や食材を活かした直売所、観光・展示・研修施設やコミュニティ施設の開設などに取り組もうとした。また94年の酒税法改正を契機に地ビールの製造・販売に取り組むところも出てきた(このことについては後に触れたいと思っている)。
 こうしたなかで一種異常な興奮状況にあった自治体や農協、農家組織の相談相手として私をはじめ研究室のメンバーは何度も役場や農協、農家、集落の集会所等々に足を運んだ。そして夕方それが終ってから、役場の前にある食堂の裏の座敷で職員や農家の方と一杯飲みながら話の続きをしたり、お互いに慰労しあってから帰途につくときもあった。
 こうしたさなかの99年、私は東北大定年を契機に北海道に移住した。それで21世紀以降の東北の農村の変化を見る機会がなくなってしまった。

(注)
1.18年12月10日掲載・本稿第十部「☆車社会初期の農村部の飲み屋2段落」(2段落)参照
2.18年12月17日掲載・本稿第十部「☆酒の種類・飲み方の多様化」(3段落)参照
3.実はもう一つあった。ラブホテルの建設である。客はもちろん都市部の人間、都会から車で来るのは容易になっているし、農村部に来れば人目を割けることができ、知っている人もいない、ましてや村はずれであれば誰にも見られない等々から、けっこうつくられ、客が入ったとのことである。山間部の国道沿いに数軒まとまってつくられたところもあった。ここのシーツ替えが周辺の農家の中年女性のアルバイト先にもなっていた。今はどうなっているかわからないが。こんなことを書くのもどうかと思われるので本文には書かなかったが、事実は事実なので、注としてここに記述しておくことにした。
4.12年5月28日掲載・本稿第四部「☆車社会と地域格差、年齢格差の拡大」(3段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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