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私の酒と仙台の飲み屋街の変化



            戦後昭和の酒と村・街そして私(19)

            ☆私の酒と仙台の飲み屋街の変化

 本稿のどこかでいつか書いたと思うのだが、私は毎晩いわゆる晩酌をする(さすがに二日酔いの日だけは休肝日とするが)。そしてそれは日本酒・1合・熱燗(真夏も)と決まっていた。飲む銘柄も決まっていた。前に述べた酒造業構造改善事業を乗り切るべく宮城県内の四つの小さな酒造業者が合併してつくった酒屋の酒、それも政府の決めた一級二級三級という酒の等級制度・税制に抵抗してつくった銘柄の酒1合である。それは99年の春に北海道網走に移住してからも変わらなかった。問題は銘柄だが、たまたま隣の研究室の院生が酒屋の息子だったので、お願いして取り寄せてもらい、その晩酌を続けた。
 それから1年くらい過ぎてからではなかったろうか、ふと気が付いたら私の晩酌は缶ビール1本に完全に変わっていた。なぜなのか、考えた、そうだ、網走は喉が渇くからだと。夏は本州のように蒸し暑くなくきわめてさわやかな暑さ、ビールがぴったりなのである。北海道の真冬、部屋のなかは汗をかくほど熱くて薄着にしているほど、やはりビールが飲みたくなる。そしてうまい(ついでにいえば夏はもちろん冬のアイスクリームもうまい)。ということで知らず知らずのうちにビールに変わっていたのである。
 こうした習慣がついて時が経過し、06年の春からふたたび仙台で暮らすことになった。もうビール晩酌が身についていたのでそのまま続いた。しかしこれまた1~2年過ぎたら日本酒に戻っていた。やはり日本酒が東北の風土にはあうのである。それでも喉が渇いているときや猛暑の夜はビールが欲しくなる。だから冷蔵庫には必ず1~2本の缶ビールを入れておくことにしているが。
 このように晩酌には変化があったが、外で飲むときはまずビールで乾杯、後は日本酒の熱燗だけ、この順序には仙台でも網走でも変わりなかった。最近は銘酒を冷やで飲む人が増えているが、私は真夏でも熱燗だ。腹の底からしかも早く酔いがまわるという感じがするからだ。冷酒は抵抗感がないのでついつい飲み過ぎてしまう危険性もある。若い人たちのなかにはチューハイとかハイボールとか頼むものもいるが、私は頼んだことがない。私にとってそんなものは酔い覚ましの酒のように思えるからだ。そんなの飲んだら相手に失礼になるなどと考えてしまう(時代の違いでしかないのだろうが)。もちろん沖縄料理のときには日本酒ではなくて泡盛、鹿児島で飲む時には芋焼酎である。
 二次会のスナックに行ったらウイスキーの水割りである(前に書いたようにかつてはハイボールだったが)。酔いの程度で割合を変えてもらい、酔いを維持し、喉を湿らせてカラオケである。このパターンはずっと変わっていない。
 といっても、外で飲む機会は減った。仙台にいるときよりは網走で飲む機会は減り、仙台に戻ってきてからは激減した。仕事から一切手をひいたこと、それにともなう付き合いの減少、そして加齢のせいだから当然のことなのだが。

 網走から仙台に戻ってきて2~3年したころではなかったろうか、一次会が終って飲み屋の繁華街・国分町の細い通りを通っていた時、タクシーがびっしり並んでいることにふと気が付いた。その道路は客待ちの停車ができないはずだから、渋滞で動けないのだろう。後2~3時間もすれば帰宅の客の乗車でタクシーは少なくなるのだろうが、何で渋滞しているのだろうか、こんな状況はあまり見たことがない、そう思いながら二次会会場のスナックに入った。やがて10時過ぎ、私も寄る年波、もう引き上げようと外に出た。後輩が私の年齢を気にして道路まで送ってくれたが、すぐにタクシーが拾えた。驚いた、かつてならタクシーを求める客がひしめいていたのに、逆にタクシーが道路にひしめいているのである。そして歩いている人は少ない。乗車してから運転手さんにその話をしたら、まったくその通りだ、バブルのころなど10時過ぎにはタクシー待ちの人であふれていた。会社のタクシーチケットを客や自分たちが使うどころか店のホステスにまでくれたもので、11時ころなどこの通りには1台もおらず、1時過ぎまで争って乗ってくれたものだった、ところがその後バブルははじけるやらリーマンショックやら、それに加えてタクシー規制緩和て台数は増える、乗る人がいなくなって私たちは食っていけない、とぼやく。話はさらに国分町の飲み屋の景気へと進み、客の減少でスナックや小料理屋の廃業が増えている、飲み屋ビルの壁面・突き出し看板などにずらっと書いてあるたくさんの店の名前、あのうちの3分の1くらいはやっていないのではないかともいう。これには驚いた。

 私のなじみの小料理屋やスナック、これはそういうなかでも生き延びていた。しかしその亭主や女将、ママさんたちはほぼ私と同年代、盛大な記念パーティをやって、あるいはひっそりと閉じる店も出てきていた。
 でも飲み屋の減少はやはり不況が主な原因だったようである。
 そこに11年3月の大震災である。当初の1~2ヶ月の飲み屋街は、どこの店も開いていない、人っ子一人通らない、大通りは車も通らない(ガソリンがない)、何とも異常な雰囲気だった。このままでは仙台の繁華街はなくなってしまうのではなかろうか、そんなことを感じさせるくらいだった。これを機会にとやめる店も出てきたとのことだった。

 震災から一年くらい過ぎてからだったろうか、国分町での飲み会に出席したら、通りが非常ににぎやかだった。バブルの時代に近いほどだ。驚いて飲み屋のご主人に聞いたら「復興特需」だという。震災からの復興のために全国各地から来て泊まり込んで仕事をしている人たちが飲んでいるのだと。とくに木曜の夜が混む、金曜の夜はみんな家に帰るからすいているとのことだった。
 行きつけの居酒屋の亭主Aさんはあのころのことを思い出してこういう、
  「震災前の国分町は空き店舗でがらがらだった。ところが震災から一年くらい過ぎたらほとんど満杯になった。沿岸部の被災地で被害を受けてやめざるを得なくなった料理屋や飲み屋さんが移ってきて国分町の空き店舗を借り、営業を再開したからだ、今はもう空きはないのではないか、といってもかつてのような賑わいはないけれど」
 なるほど、そういわれてみればそうかもしれない。被災地の不幸がよその街の復活となる(注)、何とも複雑な気持ちだ。被災地の整備が進んだらそういう方たちが故郷kの被災地に帰って営業を再開するのであればそれでいいのだが、もしも帰らないで仙台にいるということになれば故郷の繁華街は縮小する、地域格差はひろがるだけとなる、困ったものである。

 栄枯盛衰、有為転変は世の習い、ましてや飲み屋のそして飲み屋街の習い、それもしかたのないことなのだろう。それにしても、私の見た仙台の飲み屋街の戦後、高度成長、バブル、その崩壊、震災、復興、そして現在、この信じられないような激変、飲み屋街の常とはいうものの驚くばかりである。評価して喜んでいいのか、昔をなつかしんで悲しんでいいのか、悪口をいうべきなのか、わからない。

 一方、商店の立ち並ぶ古くからの繁華街の一番町の通りも変わった。昔からの商店・飲食店はほとんどなくなり、全国チェーンの商店・飲食店がひしめくようになっている。たまに街に出てここを歩くと、ここの街はどこの街なのか、わからなくなってしまう。東北らしさ、仙台らしさがないからだ。いや、単に私がぼけたからそう思うだけなのかもしれないのだが。

 私の行きつけの居酒屋やスナックはさっき言ったご主人やママさんの年齢等の関係でほとんどなくなって寂しくなった。しかし、まだ若干残っており、また新しく行きつけとなった居酒屋などもある。月に一、二度、昔の仲間や後輩といっしょにそこに行って飲む。そして昔のこと、今のことを語り合い、たまにはカラオケで歌う、これは楽しい。みんなから付き合ってもらえるうち、そして私の心身の許す残り少ない期間、楽しませてもらえればこんなにうれしいことはない。でもこちらはこんな年寄り、つきあってもらうみんなには迷惑なのかもしれないのだが。

(注) ST君によると、岩手県でも沿岸部被災地から内陸部への飲食店の移転が見られるとのことである。


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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