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地方小都市の繁華街の近況



            戦後昭和の酒と村・街そして私(20)

            ☆ある地方小都市の繁華街の近況

 昨18年6月、一年前に亡くなられた網走在住の農経研究者WMさん(本稿に何度も登場してもらった)の弔問のために、さらに12月、かつて私の勤めていた東京農大生物産業学部の創立三十周年記念式典出席のために、なつかしい網走を訪ねた。網走を去ってから12年ぶり、最後に訪れてから10年ぶりのことだった。
 6月に見た田畑、山野、海等々は昔と変わらず、本当にきれいだった。12月の寒さは相変わらずだった。そしてあのころの友人たちは昔と変わらず温かく迎えてくれた。しかし、WMさんの明るい笑顔は見られなかった。そんなことはわかって行っているのに、やはり寂しかった。 
 街はかなり変わっていた。流氷観光船の発着する港が市街地のすぐ近くに移転し、そこに大きな道の駅ができていて、観光面での強化を見ることができ、これはうれしかった。でも、私が網走に行ったばかりの頃(99年)賑わっていた商店街・繁華街(四条通り)はシャッター通りと化していた。洋品店、瀬戸物屋、本屋、土産物屋、魚屋、飲食店、電気屋等々の多くは閉ざされ ミニデパートはなくなっていた。女子高生や家族連れが、たまには観光客がたくさん歩いていたのに、人通りはほとんどなかった。
 でも、同じく私の行ったばかりのころに街はずれのバイパス沿いにできつつあった新しい商店街(333通り)は、そのままだった。といっても、そのほとんどは全国チェーンのスーパー、ホームセンター、電気屋、洋服屋、靴屋等々の大型店舗である。それが旧商店街をシャッター通りにしてしまったらしい。全国的に起きている現象が網走でも進行したのである。
 ただし、その通りには食堂が少なかった。私のみるかぎり、ラーメン屋、回転すし屋と全国チェーンのとんかつ屋がそれぞれ一軒あるだけだった。車で買いに来てそのまま車で帰るものだから、道路を人はほとんど歩いていなかった。飲み屋はそこにはまったくなかった。
 そして飲み屋は、昔のように四条通りの商店街・繁華街(その上には「旧」がつくようになっていたが)のわきに集中していた。この近くには以前から官公庁や諸施設、民間の会社、駅、ホテル等々があり、勤め人や観光客が飲んだり食べたりするのに便利だからなのだろう。
 その飲み屋街を歩いてみた。なつかしかった。でもなくなっている店がけっこうあった。WMさんからその都度知らせてくれたので知ってはいたが、建物は空き家となってそのまま残っており、暖簾がなくなり、電気が消えているだけ、さびしい景色だった。それだけではなかった、「鮭児」の寿司を食べさせてくれた寿司屋(注1)がなくなっていた。学生とよく行ったおでん屋、コンパをさせてもらった小料理屋もなくなっていた。
 それでもなつかしい店は残っていた。豪快にカニや帆立などを炉端焼きしてくれる店、クジラ料理を食べさせてくれる店(場所が変わってちょっと小さくなっていたが)、そこにしばらくぶりで入った。炉端焼きのおかみさんは元気で、私のいたころの話をしてなつかしがってくれた。
 最後に、ゼミの学生諸君や同僚とよく飲みに行ったスナックに寄った。何とびっしり満員で入れない。客は中高年のおじさんおばさん、盛り上がっていて帰るようすもない。やむをえずママが外に出てきて挨拶しただけだったが、ともかく店は残っていた。
 二度目、つまり12月の行ったとき、旧同僚といっしょに二次会をしにもう一度そのスナックに行ってみた。やはり満員だった。しかも前回と同じようにみんな高齢者、定年を過ぎたおっさんとその奥さんか昔の同僚かわからないがやはり高齢の女性12~3人でいっぱいなのである。前のときのメンバーとは違うようである。私たちが来たのをみて、3~4人が立ち上がり、帰るのでどうぞと席を譲ってくれた。おかげさまでママさんとしばらくぶりで旧交を温めることができた。

 シャッター通り、聞いてはいたものの、まともに見るのはやはりショックだった。しかもその昔をよく知っているところのシャッター通り化は、私の胸を詰まらせた。昔ながらの小さな店の集まり=商店街は町から姿を消すことになるのだろうか。そして全国チェーンの大型店舗が支配し、車でそこに買い物に行く時代になるのだろうか。そのとき高齢者や車を持たない人々はどうしたらいいのだろうか。そんなことを改めて感じさせられた。

 網走などはまだいい。市内に国や道の官公庁の支所庁があり、観光地があり、漁港・水産加工場があり、大規模農業がともかくある。さらに東京農大の若者がいる(注2)。だからシャッター通りはあっても代わりの繁華街(中身はかなり変わっているが)が街の中に新しくできている。飲み屋街もともかくある。
 大都市近郊以外のしかも農山村に位置する一般的な中小都市はどうなっているのだろうか。

 話はまったく変わるが、今回の網走旅行でもう一つ考えさせられたことがあった。
 さきほど話したスナック、私のいるころはよく学生や同僚と飲みに行ったのだが、そこにはさまざまな職種の働き盛りの人々が帰り道にあるいは二次会で立ち寄っていた。
 ところが今回は二度とも高齢者の団体客だった。それも男女半々くらいだった。現役で働いていると思われる人はいなかった。このことは何を意味するのだろう。初めてその店に行ったのは20年前になるのだが、そうするとあのころ働き盛りでその店の客で来ていた人たちがそのまま齢を重ねて定年になり、今もそのなじみの店に通ってきている、こういうことなのだろうか。
 一方、若い人たちは一人もいない、このことは少子化、大都市への流出から来ていることを意味するのだろうか。
 そういえば、私の仙台での行きつけのスナック(かつてはバーと言ったものだが)、ここもかつとて違って若者の客が少なく、中高年層が多い。定年退職組とはっきりわかる人たちもいる(私もその一人なのだが)。そしてカラオケは演歌だ。若い人たちの最近よく歌う歌、メロディのあるかどうかもわからない早口の歌などはほとんど聞かない。これは私たちの通っているスナックの特徴なのか、それともそれが一般的なのか。これからスナックは昭和生まれの一時代遅れた客の行く場所となっていくのだろうか。それでは平成生まれの若い世代はどういう店に行くのだろう。
 今こうした若い世代を大学で教育しているST君、NK君(これまで本稿に何度も登場してもらった)に今度会ったときに聞いてみようかと思っている。

(注)
1.14年5月26日掲載・本稿第六部「☆鮭談義」(10~11段落)
2.12年9月14日掲載・本稿第四部「☆『費用対効果』と農山村地域」(1段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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