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農村部の繁華街の近況



            戦後昭和の酒と村・街そして私(21)

              ☆農村部の繁華街の近況

 99年に東北大を定年、同時に東北を離れたので、それ以降東北の農村を歩く機会はなくなった。06年東北に戻ってきたものの、それを契機に研究教育をやめることにしたので、やはりその後も東北の農村部に行く機会はほとんどなくなった。たまに家内の車で近くの村の直売所に行ったり、かつてお付き合いをいただいた農家の方に招かれて行ったり、旅行などのついでに眺めたりするだけ、21世紀になって村々がどう変わったのかなど直接見ることはほとんどなかった。

 今から数年前ではなかったろうか、仙台から車で一時間半ほどかかる西北部のある町の中心部の通りを家内の車で通った。かつて何度も足を運んだことのある町だったが、十数年ぶりだった。
 中心部の集落の入り口の四つ角にあったコンビニはそのままあった。二つの街道の交差点なので客の入りがあるのだろう。もう少し行くと二軒の旅館があったはずだ。一軒は前に来た時なくなっていたが、もう一軒はどうだろうか。看板はあった。でもやっているのかどうかはわからない。雰囲気としては廃業している感じだ。
 さらに数十メートルいくと町役場、農協、そして商店街があり、ここは町の中心部、繁華街となっているところである。かつて十数軒の店があったと言われていたが、私が最後におとずれたときは数軒が細々とという感じでやっていた。
 お昼近くだったが、その中心街ではまったく人を見かけなかった。役場や農協にも人はいない。そういえば、「平成の合併」と言われる町村合併、農協の大型合併で役場や農協は移転しているはずだ。そしてかつての役場・農協の建物はその支所になっていて、窓からのぞくと職員はほとんどいない。用事で来る人などいないのだろう、出入りをする人はまったく見られない。その近くの郵便局も閉じている、なくなったようだ。
 かつて開いていた店も戸口は閉まっている。中は見えない。閉店したようである。シャッターはそもそも少なかったのでシャッター通りにはなっていないが、もう何年も開けられていないような曇りガラスの戸がちょっと歪んで閉まって並んでいる。
 役場の前の食堂も閉まっていた。裏の座敷も宴会場として使われていないようだ。当然だろう、会合や宴会は役場や農協の本所のある地域の中心街の飲食店でということになり、ここはお役御免となっただろうからだ。
 まさにここは「旧繁華街」となってしまっていた。

 この旧繁華街を外れると、その道路わきに並んであったカラオケボックスとパチンコ屋が廃業しており、その駐車場のアスファルトを打ち破って雑草が生えていた。
 結婚式場は何と全国チェーンの葬儀場に変わって、建物だけは利用されていた。高齢化にふさわしい変化で、思わず苦笑いしてしまった(注)。

 そのまた先にある第三セクター営の直売所、この駐車場には車が十数台止まっている。そしてなかには野菜、山菜、花木、加工食品等々、地域の魅力ある産物がたくさん並んでいる。小さな食堂もある。都市部から来た人、通りすがりの人、十数人の人が買い物をしている。また、自分の家の生産物を運んできている農家の女性もいる。そのなかに十数年ぶりに会う方がいた。農協婦人部長で活躍していた方だ。しばらくとあいさつを交わし、近況を話し合う。若かった彼女もそれなりに年になっていた(私の高齢化はさておいて)。彼女は笑いながら言う、年をとったでしょうと。あのころの仲間はみんなまだ元気だけど、若い人たちは入ってこない、そもそもいない、このまま行ったら婦人部は老婦人部になってしまう、困ったもんだと苦笑いする。でも、販売している野菜、山菜、漬物等々、みんな新鮮でおいしそうだ。なんでも買いたくなってしまう。買い物かごいっぱいになったところに、先ほどの彼女が私の家の裏庭で穫れたものだ、持って行けとタケノコをもってきてくれる。恐縮はしたものの、あまりの新鮮なタケノコに惹かれて、ちょうだいしてしまう。帰る途中で食べるおにぎりとおかずを最後に買って、また来るから、今度は家においでとあいさつしあって別れる。

 また車に乗り込み、さらに国道を走ってバブル期・リゾート法施行期にリゾート開発に取り組んだ地域に行ってみる。まず当時開発された別荘地に着いた。そのかなりは売れ残って草木が生い茂っており、建てられた別荘のいくつかは住む人もなく荒れ果てている。洒落た喫茶店やペンションも、木のテーブルやいすが外に出たまま、閉じられていた。
 ゴルフ場の近くまで行ってみた。車が数台あったが、プレーヤーは見えなかった。休日でなかったからかもしれないが、何か閑散としていた(後で聞いたら土日はそれなりに客がいるとのことだったが)。
 こうしたリゾート施設に行く人々をねらって国道沿いに建てられた食堂やそば屋、喫茶店、小さな直売所の多くは閉じられていて、人も住んでいないようだった。

 ふたたびさきほどの旧繁華街の道路に戻った。それにしても寂しい。もう地域の中心街・繁華街とはいえない。
 かつて見たあの繁華街は、夢のなかのことだったのか、現実に私の見た光景だったのか、いやあれは幻だったのだろうか。そうなるかもしれないと予測はして十数年前に東北を去ったのだが、それにしても高齢化、過疎化かここまで進んでしまったのか、改めて呆然とした。
 こんな村の姿はみたくなかった。一体私は農業経済研究者として何をしてきたのか、涙が頬をつたわってきた。旧役場の前のかつての食堂の裏座敷・宴会場で、昔のことを思いながら一人で思いっきり酒をあおり、声をあげて泣きたい、そんな気持ちで、運転している家内の隣に座って帰路についた。その両脇の田んぼが見事な緑をなしていたことと直売所から買ってきたワラビやタケノコなどの山菜のさわやかな匂いの充満が救いだったが、何とも気分の落ち込んだドライブの一日だった。

 他の農村地域もそのような感じのようだ。もちろん、町村合併で町役場や市役所がおかれることになった地域はまだいい。といってもかつてのようではない。少子化・人口流出・高齢化は客の数を大幅に減らしている。さらに前に述べたようなスーパーの郊外進出、宮城県の場合は車社会化と新幹線による買い物等の仙台一極集中がある。かつての繁華街の完全消滅は時間の問題だろう。

 それでも、こうした状況はこれまでの政治経済の変革、それぞれの地域の取り組みによって発展の方向に変えられる可能性がある。しかしそうはいかないのが、原発事故の被災地だ。
 80年代に何度も通った福島県の浜通り、阿武隈山地の村々、もう四半世紀近く行っていない。原発で栄えていた村々の繁華街、過疎化で悩んでいたあるいは農業振興で大きな成果をあげていた村々の集落、テレビなどでその近況を見るとかつての面影はない。駅周辺のかつての繁華街は震災と原発事故で人々の影がまったくなくてイノシシなど鳥獣の住処になっていたりする。田畑は草木が生い茂っている。原発の廃炉は遅々として進まず、放射能汚染物質を入れた黒いビニール袋とタンクが蓄積されていく。こんな姿をテレビで見せられることになるなどとは思いもしなかった。
 かつて原発誘致に反対して地域農業振興をどうするかを語り合っていた方々、今はどうしているのだろうか。いっしょに酒を飲みながら、あのころを思い出しながら、その後のことを聞きながら語り合いたい。もしかしてこうした事態からの脱却の運動を、そしてこれからの展望を熱く語ってくれるかもしれない。そして私の気持ちを明るくさせ、老化を防止してもらえるかもしれない。
 もちろん私とそんなことをしたからといってみなさんには何の役にもたたない、かえってじゃまになるだけなのだが。
 やはり一人酒でも飲んでこの鬱を一瞬でもはらすしかないのだろう。

(注) なお、前に書いた農村部のラブホテル(19年2月4日掲載・本稿第10部「☆20世紀後半の農村部の繁華街の変化」・注3)だが、そもそもこの地域にこれはなかった。仙台などの都市部からかなり距離があるところなのでつくられなかったのだろう。だから、前に述べた農村部に建てられたラブホテルがその後どうなっているのかわからない。仙台市の近郊農村部にあるのは見ているが。


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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