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「地ビール」、「地酒」と原料



              戦後昭和の酒と村・街そして私(22)

            ☆「地ビール」と原料ー「地酒」との対比ー

 ちょっと長くなりすぎてしまったが、もう少しだけ産地・原料とのかかわりで酒の話をさせていただきたい。

 酒は米からつくるもの、これは生家の濁酒(どぶろく)づくりから知っていた。 なお濁酒づくりは戦後始めたもの、したがってこのことを知ったのは小学校高学年になってからのことになる。
 でも、ビールは麦からつくるものということはもっと小さいころから知っていたのではないかと思う。と言っても生家の祖父や父がビールを飲んでいるのは見たことがないし、家であるいは友だちとの間でビールの話題など出るわけもなし、現物は見たこともない。新聞や大人の雑誌(当時は紙不足で子供向けの本は本当に少なかったのでそんなものでも読むしかなかった)に掲載されている広告欄やポスターでそのビンを見るだけだったのだが、その広告やホーロー看板のビールの宣伝の下の方に「麒麟麦酒株式会社」とか「大日本麦酒株式会社」とかの会社名が書いてあり、また昔は漢字にルビがついていたので、麦酒をビールと読むことを知っていた。そしてこの麦酒という漢字からビールは麦からつくるものだろうと小学校のころから考えていたのである。
 戦後かなり遅くなってから生家でもたまにビールを飲むようになったので、それが苦いものであることを知ったのだが、その色と泡についてはポスター等で幼いころから知っていた。

 こうした消費面からばかりでなく、原料面からもビールのことを知った。私の中学時代(1950年前後)だったと思うのだが、農作業の手伝いで田んぼに行ったとき、遠くに見える隣村(昭和の町村合併で山形市に合併されたが)の桑畑の中に高い緑の棚が見えた。これまで見たことのなかったもの、それであれは何かと父に聞いたら、ビールの苦味の原料となるホップというものだ、養蚕があまりうまくいかないので桑をホップに切り替えたようだという。そのとき初めてホップを見、またビールの原料に目が向いたのだが、やがてホップは山形内陸の特産になっていった(注1)。さらに宮城、岩手、秋田でも産地が形成されていった。東北・北海道には野生のホップが生育していることからして、そもそも日本の北部はホップの適地だったのである(注2)。

 しかし、ビール麦のことはまったく知らなかった。とくに関心も持たなかった。当時はまだ食料不足であり、食料としての麦、米にのみ私の関心は向けられていたからである。ビール麦をまともに知ったのは私が大学教員となって2年目の1964(昭39)年だった。当時『家の光』の東北駐在記者をしていたSYさん(前に何回か本稿に登場してもらった)からビール麦産地の取材に協力してくれと頼まれ、そのときに宮城県でも(というより日本でも)ビール麦がつくれるのだということを実感したのである。行ったところは、東北本線沿いの新田村(現・迫市)、何とその村の畑の四分の一に当たる50㌶でビール麦を栽培していた。それが病気にかかり、それをどう克服していったかの取材だったのだが、いろんな面から勉強になった。そしてビール麦も国産でやっていけるのだということを改めて実感したものだった。

 さて、ビールの消費者としての私の話になるが、最初はうまいとはまったく思わなかった。単に苦いだけ、こんなものが何でうまいのか、と酒の飲めない家内は今でもよく言うが、私も最初はそうだった。ただ、子どものときからのあこがれだった「ビヤホール」だけは一度は行ってビールをジョッキで飲んでみたいとは思っていた。大学二年のときだったろうか、すさまじく暑い夏の日に歩いていた時、ビールのジョッキから泡が吹きこぼれている看板が私の目をひき、すさまじく飲みたくなった。その夕方、瓶ビールだったが、たまりかねて飲んだ。うまかった、冷えた苦みが喉を通るとき何ともいえなかった。そのとき初めてビールのうまさを実感した。ただし、たくさん飲むとトイレに行きたくなるのとお腹いっぱいになって飲んだり食べたりできなくなるのが困るので、今は最初しか飲まないことにしているが。
 大学三年(1956年)、キリンビヤホールに初めて行き、ジョッキでビールを飲んだ。子どもの頃からのあこがれ、本当にうれしかった。うまかった(高かったが)。雰囲気でうまいのかと思っていたら、ジョッキのビールは生ビール、防腐剤の入っている瓶ビールとは味が違うのだなどという説明をいっしょに行った友だちから聞いて納得したものだった。

 ビールの消費は戦後復興とともに増えていった。かつては都市の文化だったビールは農山漁村でも飲まれるようになってきた。缶ビールは手軽で、どこでも、貧乏人でも、飲めるようになった。暑い夏の日、ビヤガーデンで勤め帰りのOL(そのころはBGと呼ばれていたが)たちがジョッキを持って乾杯をする、そんな光景がテレビなどで放映され、女性も手軽に飲むようになった。ビールは庶民の味ともなった。いい時代になったと思ったものだ。
 しかしそれは消費の面だけ、原料生産の面ではとんでもない事態が進行した。
 ビール麦についていえば、その需要は戦後激増し、作付面積も12万㌶にまで伸びたが、70年代から大量に輸入されるようになり、減少せざるを得なくなった(注3)のである。
 中山間地帯の希望の星としてその生産を増やしてきたホップも同様で、もはやその栽培面積を増やすわけにはいかなくなった。ホップの需要が減ったからではない。ビールの需要は大きく伸びており、それに対応してホップの需要も増えている。しかし、その需要は外国産ホップでまかなうことができる。というより国産の半値以下の輸入ホップに切り替えた方がいい。それでビール会社は契約栽培面積を増やそうとしなくなったのである。それどころか、とくに90年前後からの輸入の増大によって、作付面積は大幅に縮小させられた(注4)。
 少し時が経過してからだったが、私が一縷の望みを託したのは「地ビール」だった。

 1994(平成6)年の酒税法改正でビール製造免許に必要な年間最低製造量が2,000キロリットルから60キロリットルに引き下げられた。つまり多額の資本金なしでもビール醸造業への参入が可能になったのである。
 それで全国各地でビール醸造業に参入が相次ぎ、「地ビール」と総称されてブームになった。そしてそれは「地域おこし」の一つとしてもてはやされ、私も地元の麦やホップを使ったビールを生産して販売することを可能にし、生産を回復させるものとして大きな期待をもった。
 しかし、そのほとんどは「地ビール」とは言えないものだった。

 「地酒」という言葉がある。辞書で調べてみると「兵庫県の灘や京都府の伏見以外でつくられる日本酒」、「全国的に流通する大手メーカーでつくられる製品以外の日本酒」のことなのだそうだ。
 しかし、そうした酒であってもたとえば前に述べたような醸造アルコール+ぶどう糖を主原料としてつくられた戦後の酒のようなものを、たとえ地元で生産したとしても、地酒として地域の人たちが自慢するだろうか。
 ある辞書にはさきほど言った定義に加えて「その土地の材料で作られた、その土地の日本酒」と書いてあったが、それが本来の「地酒」ということができるのではなかろうか。

 もう40年も前になるが、今私が今晩酌用としている酒の酒蔵を訪ねたときのことである、そこの専務(当時)さんになぜこの地域に酒蔵をおいたのかとたずねた。そしたら彼はこう答えた、「昔から酒のうまさは『一水、二米、三杜氏』で決まると言われているが、この地域の水は非常に質がよく、しかも豊富に存在するのでここに決めたのだ」と。しかもこの地域は米の適地、それを利用できるのだからなおのことだとも言う。
 そのときふと思った、なるほど、地酒と言うのは単に地方にある小さな酒屋の酒というのではなく、水と米というその酒蔵の存在する地域の自然と産物を基礎にしてつくられた酒を意味するものなのではなかろうかと。
 そう考えると、本来の「地ビール」とは「全国的に流通する大手メーカーでつくられる製品以外のビールで、その製造場の存在する地域で生産される原材料が使われているビール」ということになろう。もちろん地域によってはその地域ですべての材料をそろえるわけにいかないところもあろうが、それは程度問題だろう。

 ところが、地ビールブームでつくられた工場のなかには、麦もホップも輸入、技術はドイツや日本の大メーカーの直輸入で地元産は何も使っていない、地元産は水と空気と労働力だけというようなところが多々あった。ビール麦もホップも日本でつくれるにもかかわらずである。これでは地ビールとはいえず、大メーカーと変わりない。工場がいわゆる地方にあれば「地方ビール」とはいえるが。だから、せめて日本ではあまりなじみのないピルスナー、ヴェイツェン、アルト、スタウトなどの製品で大メーカーと差別化するくらいしかできない。しかしそれも全国各地の「地方ビール」いずこも同じとなれば差別にもならない。
 これでは四大メーカーと太刀打ちできるわけはない。しかも地元の人たちは自分たちの地域のビールとして飲んで応援しようとも思わないし、愛着も持てない。こうしたところに大メーカーによる価格の安い発泡酒の攻勢を受けた。それで廃業せざるを得なくなった業者が数多く出たとのこと、それは当然のことだろう。
 やはり本来の「地ビール」ではなかったからなのである。日本は大麦も小麦も穫れる、ホップも穫れる(前にも書いたがその野生種すらあるのだ、もちろん北国だけだが)、それを活用してこその地ビールなのである。

 ちょっとここで私が1999年から7年間勤めた東京農業大学生物産業学部と地ビールについて宣伝をさせていただきたい。
 北海道網走市のオホーツクキャンパスにあるこの学部は89年に創設されたのだが、その開設のときに大学として日本で初めてのビール試験製造免許を取得し、食品加工技術センターを設置してビールに関わる教育研究を開始した。
 同時に地元の要望を受けて地ビールの研究も進め、その成果を基礎にして98年網走ビール株式会社が設立され、地ビールの生産販売を開始した。そして原材料に地元網走産の麦芽を100%使用した「ABASHIRIプレミアム」、冬の網走を代表する流氷を仕込み水にしたオホーツクブルー色の発泡酒「流氷DRAFT」などを開発し、また網走産のジャガイモ、ナガイモ、トウモロコシ、ニンジンなどの農産物、コンブやホタテなどの海産物を副原料とする発泡酒を製造して好評を博してきた。
 さらに最近では、農大の学生が地域の方から土地と重機の提供を得て畑を開墾し、そこでビール麦を育て、昨18年春にそのビール麦と付属寒冷地農場で栽培したホップを用いたビールの醸造を網走ビール株式会社の協力を得ながら学生が行い、ビールを完成させた。そして「学生ビール」と名づけて販売するに至った(注5)が、このオール網走産のビールこそまさに『地ビール』の名に値するといえよう。
 昨年末、学部創設30周年記念で網走に行ったとき、この「学生ビール」をごちそうになったが、大メーカーのビールに負けない味、本当にうれしかった。
 もちろん他のビールや発泡酒もおいしいのだが、たった一つ誉めなかったものがあった。干したホタテの味をつけたビールを試飲をしたときだ。こう評したのである、「とってもいい味だけれども、ホタテはつまみにしてビールはビールで飲んだ方がもっとうまい」と。
 なお、こうした各種ビールと網走名物の料理を提供する「網走ビール館」が市内で営業しているが、道東の旅行のさいにはぜひお立ち寄り願いたい。そして緑なす麦畑をはじめとする広大な畑、オホーツクブルーの海の味を堪能しながら、本物の「地ビール」を味わっていただきたいものである。そのときにはホタテを副原料にした発泡酒もぜひ飲んでみてもらいたい。

 この学生ビールをきっかけに網走地方でのビール麦・ホップの生産がさかんになり、「網走ビール」が本来の地ビールとして評価され、それを契機に全国各地の「地ビール」もその存在する地域の農業と結びついた本来の地ビールに発展していくようになれば、同時に農大の食品加工技術センターや農場でのビールに関する研究教育がさらに発展してそれに寄与できるようになれば、と私は願っているのだが……………。

(注)
1.私の後輩研究者で農大時代の同僚だったMTさんによれば、「私の小学校時代(1960年代)の地理の授業で山形の農産物にホップが上げられていた記憶がある」とのことである。驚いた。当時こうした作物まで東京の小学校の教科書に取り上げられていたのである。農業がいかに重視されていたかがよくわかる。今の農業無視時代とのあまりの違い、まさに隔世の感である。
2.11年7月11日掲載・本稿第二部「☆葉たばこ・ホップの技術革新と規模拡大」(5段落以降)参照
3.13年2月21日掲載・本稿第五部「☆麦どぶろく、大麦、麦わら細工」(2段落)参照
4.12年1月16日掲載・本稿第三部「☆つくるもののない苦しみ」(1段落)参照
5.このへんの事情についてはさきほどの(注)1にご登場いただいたMTさん(現在も網走に住んでおられる)からご教示をいただいたものである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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