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新元号から連想したこと


 
            「改元」の年に思うこと(4)

           ☆新元号から連想したこと

 大震災から2年たったころのことである。近くの整形外科の医院で腰のリハビリを受けていた時、隣でリハビリしている女性と看護婦さんが震災の被害の話をしていた。私より数歳年上と思われるその女性が看護婦さんにこう口説く、
 「政府も県も支援をろくにしてくれない、被災者のことなど考えてくれない、困ったもんです」。
 看護婦さんが相槌を打つ、続けてそのお年寄りはこう言う、
 「私たちのことを本当に考えてくれるのは、天皇さまと皇后さまだけだ」。
 テレビで被災地訪問をしている天皇夫妻の姿を見てこう言うのだろう、戦前天皇崇拝を叩き込まれた年代としてこう語るのはやむを得ないのだが、天皇に対するこういう素朴な崇拝が庶民のなかに強くあるようである。
 だからだろう、今回の退位に対する関心も強い。元号が変わるからなおのことだ。元号は一般庶民になじんでおり、日常生活で用いられてもいるからだ。しかもお祭り好き・新しいもの好きの(でありながら懐古趣味も持つ)日本人、こうした改元・即位式典等々の騒ぎにも興味津々、何となく心浮き立ち、それをまたマスコミ、商魂があおる。
 政府は政府で、こうした状況を利用して消費税引き上げや暴言・失言、もりかけ問題等を忘れさせ、天皇の神格化をさらに進め、安倍首相は自分の人気を高めるべく元号の命名に介入し(新聞情報によると実際にしたらしいが)、即位の神事・式典を執り行なおうとする。

 そのさなかの4月1日(新元号発表日)、用事があってしばらくぶりに家内と東京に行き、昼ちょっと前に孫二人と道路を歩いていた時、孫がスマホを見てこう言った。発表が遅れていたけど今新しい元号が公表された、「レイワ、命令の令と昭和の和だって」と。
 「令和」、何かぴったり来ないなあ、冷たい感じがする、言いにくい等々、三人異口同音に言う。
 それは慣れないからだろう、平成が決まった時も最初は何かなじまなかったが、そのうち特に何も感じなくなったから、と私は言ったものの、私も何か違和感を覚えた。
 何しろ「令」から浮かんだのが号令、命令、指令、司令、伝令、勅令、法令、政令、訓令、県令、辞令、令旨、令状等々、すべて上から目線の言葉なのである。令嬢とか令息とか言う言葉もあるが、これもそもそもは貴人の娘、息子という意味、上流階級に用いられる言葉だ。「和」というなごやかな平和な字が入っているからいいではないかとも考えられるが、その二つを結びつけると、令和とは上流階級が和やかに暮らせる世の中、年代と言うことになってしまう。あるいは、一般民衆がおかみのいうことには逆らわずに命令一下動くようなおかみにとって都合の良い和の年代、武力と権力を背景にした政府のお達しで一億の民が抗うことなしにおとなしく政府の言うことをきくような年代にしたい、こういう願いが込められているのではなかろうか。
 これは下層階級に属する私のひがみからくる見方なのだろうか。それとも、安倍首相のもとでの改元だからついついそう考えてしまうのだろうか。
 まあ、これは考え過ぎ、現内閣がそうしたくとも国民がさせなければいいだけなのかもしれない。今は民主主義の世の中である。また、元号を使わなければ不忠、国賊などと言われて捕まるなどとくに強制されるわけでもなし(この改元を契機に皇室崇拝をあおり、昔の世の中に戻そうという動きもあるので、それは何としても阻止しなければならないが)、使いたくなければ使わなくともいいだけ(といってもみんないろんなところで使うので一人だけ知らない、使わないですますわけにはいかないが)である。まあ、黙って受け止めておくことにしよう、などと私たちが言っているうちに、政府の好きな言葉の「粛々と」、少しずつ少しずつ、がんじがらめに縛られてものが言えなくなっては困る。そして「令和」の実質が「冷和」、「隷和」、「冷覇」などになってはならない。やはり黙らないで言いたいことは言っていくことにしよう。

 それはそれとして、私はこれで昭和・平成・令和の三時代を経験することになるわけだ。祖父母は明治・大正・昭和、両親は大正・昭和・平成の三時代にわたって生きたが、おかげさまで私もそうなることになる。といっても、生母は大正・昭和の二時代のみだった。その昭和も3分の1の戦前戦中期のみ、戦後昭和の平和で豊かな時期を知らないで死んだ生母(注1)に申し訳ないのだが。
 もちろん生母に対してだけではない、大正生まれの叔父二人、つまり父の兄弟四人のうち半分が戦後昭和から平成を知らないで戦死している(注2)のだが、幼いころの私を本当にかわいがってくれたこの二人にも申し訳ない。
 大正生まれで戦中戦後を生き抜いてきた人たちにも、戦争で亡くなられた人たちに対する負い目が強くあるようだ。

 話はちょっと飛ぶが、1943(昭18)年、政府は理科系を除く学生を在学途中で徴兵し、戦争に向かわせた。いわゆる「学徒動員」である。農学部の学生は理系なので徴兵は猶予されたが、私の教育研究分野である農業経済学分野の学生だけは文系であるということで出征させられた。
 大正末期に生まれ、ちょうど東大の農経学科に在学していたKT先生(前にも本稿に登場してもらったが、大学での私の恩師で、私の所属する研究室の教授を勤められた)も招集され、千葉にあった毒ガス部隊に配属された。
 そうした学生たち、つまり出陣学徒の壮行会が神宮外苑競技場で政府主催で実施され、雨の中を学生が学生帽・学生服・巻脚絆姿で整然と行進するその模様はニュース映画として全国で上映され、軍国少年だった私などはそれを感激して涙して見たものだった。
 その学生たちの大半は還らぬ身となったが、国内にいたKT先生は戦後無事復員した。それで、その壮行会にKT先生が出たかどうか、そのときどんなことを考えていたのか等々いつか聞いてみようと思っていたが、そのままになっていた。そんなある時、KT先生と東大の同級で親友だったKN先生(東大教授)が来仙して私と三人で飲む機会があったので、お二人に聞いてみた。そしたら壮行会の記憶はない、行かなかったのではないかという。そんな話から当時の話になった。
 そのうちIさんという同級生の名前が出てきた。戦後財界の大物でほとんどの人が名前を知っている人(私ももちろん知っている)の息子なのだという。そして三人は大の親友だった。当然、出征に当たって三人で集まり、お別れの飲み会を開いた。宴たけなわになってきたころ、誰言うともなく冗談話で、この三人の中で誰が一番最初に戦死するか、ジャンケンしてみようということになった。飲んだ勢い、ジャンケンしたところ、何とIさんが負けてしまった。結果が出てからはっとしたが、いずれにせよ三人とも戦死は覚悟、順序が違うだけ、最後は同じ、気を取り直してまた飲み始めた。
 ところが、その通りになってしまった。Iさんは還ってこなかった。KT、KN両先生は内地で兵役に就くことになったのだが、Iさんは外地の部隊に配属となり、輸送船で移動中に米軍機の爆撃に会い、船は沈没、戦死してしまったというのである。
 二人は無事、Iさんは戦死、まさにジャンケンの言う通りになってしまった。
 その話をしながら二人は涙をこぼす。
 「あのときジャンケンさえしなけりゃよかったのに、悪いことをしたなあ」
 「冗談だったにしても、なぜあんなことしてしまったんだろう」
 「あいつは三人の中で一番頭がよかったのになあ」
 「一生その負い目を背負っていくしかないな」
 あの敗戦から40年も過ぎているのに、二人とも60歳にもなっているのに、涙をこぼしながら酒をすすっている姿を見て、私も思わず目に涙してしまった。

 KT、KN両先生は農経学会の大御所として長生きをし、やがて平成の年号の時代を迎え、大正・昭和・平成を体験することになった。しかし、平成の中途でKT先生が亡くなり、さらにその3、4年後KN先生が亡くなられた。しばらくぶりで天国で会った三人はどんな話をしただろうか。ジャンケンの件を二人は謝っただろうか。
 そして今、昭和どころか平成の世も終わり、令和を迎えることになったが、大正生まれとしてどんなことを考えているのか、何を令和の時代に望むのかなど話しているだろうか。もし話しているならぜひ聞いてみたいものだ。

 平成は30年、大正の2倍になるのだが、平成生まれの若者たちには令和の時代に戦乱で命を失ったりしてもらいたくない。令和は平和の年代であってほしい。そして私たちのように三つの元号の時代を生きてもらいたい。
 改元の年に改めてみんなでこうしたことを考える、そうであればこの年は意義のある年になると思うのだが。少々騒がしくとも、10連休で迷惑をこうむる人たちにとっても。

(注)
1.10年12月23日掲載・本稿第一部「女性参政権を行使できなかった母」(1段落)参照
2.10年12月26日掲載・本稿第一部「北海道へ、満州へ」(2段落)、
  10年12月27日掲載・本稿第一部「身売り、だめ叔父、貧富格差」(3段落)、
  11年2月23日掲載・本稿第一部「新制中学への通学と叩き売り」(5段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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