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昭和高齢者と「令和」の時代



            「改元」の年に思うこと(5)

         ☆昭和高齢者の迎える「令和」の時代は?

 私の家のお向かいさんに大正生まれの奥さんがいる。今から10年くらい前のこと、その奥さんと家内が私の家の庭で立ち話をしていた。何かの話の合間に家内が「お元気でけっこうですね」と言ったらその奥さんがこう答えた、「いえいえ、80過ぎたらとたんに駄目になりました、とくに足に来ます、歩くのも大変になるんですよ」と。
 なぜかそのときその言葉がひっかかり、いまだに忘れられないでいる。もう90を越したその奥さんは毎朝介護施設に行き、夕方帰ってくるという生活をしていて、話をする機会もなくなってしまったが、やがて私たちも80歳を過ぎてしまった。とたんに歩けなくなった。足が上がらなくなっているのである。まさに言われた通りだった。しかも疲れる。当然走ることなどできない。数歩走れば息が切れてしまう。何かといえばすぐつまづく。転びそうになる。
 家内は、一昨年の暮れには二階の階段で転び、肩の骨にひびが入って大騒ぎになった。それは何とか病院通いで治ったものの、それをきっかけに体調が急に優れなくなり、膝痛も発症して外出も思うままにできなくなってきた。とたんに物忘れが多くなった。それには本当に困っている。
 私もこの四年間で三回も入院、家内ほどではないが物忘れが激しくなってきた。
 年は取りたくないものだ。

 本稿を書き始めたころは70を過ぎたばかりのころだった。そのときは自分でも年をとったものだと思っていたのだが、それでもそのころは先輩諸氏が80をこすと、私もそんな老人と付き合うような年齢になったのかなどと言って笑い、先輩を冷やかしていたのだが、もうそんな年齢を越してしまった。
 それに対応するかのごとく物忘れはどんどん激しくなる。幼かったころの友だちの名前も忘れてしまった。本稿を書きはじめたころのメモにその名前が書いてあり、そういえばそうだったと思い出したのだから、この10年の間にいかに頭の老化が進んでしまったか、悲しくなってしまう。これからは加速度的にそうなっていくだろう。そうなる前に、その昔のことをいろいろ書き残しておきたい。と思っても思い出せなくなり、筆力も落ちている。以前本稿に書いたことがあるのかどうか、書いたとすればどこにいつごろ書いたのか、これもなかなか思い出せなくなった。だから同じことを重複して書いていないかいつも不安である。文章も荒れてきている感じだ。ボケが深まりつつあるよう、自分で自分がいやになる。
 家内の車運転も不安になってきた。私は免許を持っていないからその問題はないが。

 話はまた前に戻るが、大震災の翌年、今からちょうど7年前の春、福島復興の応援も兼ねてバスツァーに家内と参加した時(注2)の話である。
 旅行2日目の朝、前日に引き続き観光バスに乗って南会津の宿を出発した。震災を忘れさせるかのようなうららかな日の光を浴びた山々・田畑の間を走る道路、車はほとんど通らない、バスは順調に走った。30分くらいしてだろうか、バスが突然のろくなった。どうしてなのかと前方を見ると、小型の乗用車が1台走っている。それがのろのろ運転なのである。それなら追い越せばいい。ところが追い越すわけにはいかない。二車線の道路のまんまんなかを走っているからだ。
 どんな人が乗っているのだろう、最前列に座っていた私と家内がのぞいてみると、男性でかなりの高齢者のようだ。後ろにバスがいるのに気が付かないのか、気が付いていても何も感じないのかわからない。それでも対向車が来ればいくら何でもそれに気が付いて左側に避けるだろう。そうしたらそのすきに追い越せばいいかもしれないのだが,その対向車もこない。だからだろう、泰然自若、のんびりゆっくり走る。時速は間違いなく20㌔を割っている。
 後方に座っている乗客も異常な遅さに気が付き始めた。そしてその原因もわかったようだ。失笑するしかない。運転手さんもじっと我慢している。
 10分くらいしたろうか、前の小型車は農道との四つ角でゆっくり左に曲がり、その奥に見える集落の方に向かって走り去った。「走り去った」、と言えるかどうか疑問だが、ともかく前方に邪魔者はいなくなった。バスはまたもとの速度に戻り、目的地に向かって走り出した。ほっとした軽い笑いがバスのなかにひろがり、またもとの静かな雰囲気に戻った。
 誰も怒らなかった、イライラもしなかった。
 私もそうだった。最初は一体何をしているんだろうと思ったのだが、考えてみたら交通事情の不便な農山村部では自家用車なしでは生きていけず、のろのろ運転で迷惑をかけることがわかっていても高齢者は運転せざるを得ないのである。これもしかたがないこと、まあ気を付けて運転してくださいと苦笑いするしかなかった。他の乗客もそうだったのだろう。とは言いながらも、本当にそれでいいのかと考えてしまう。この程度の迷惑ならいいが、大きな迷惑・事故につながる危険もあるからだ。

 ご存知のように高齢者は70歳を過ぎると3年に一度免許更新のときに講習を受けなければならないことになっている。北海道で64歳を過ぎてから運転免許をとった私の家内(注3)も仙台に帰ってから講習を受けなければならなくなったが、講習から帰ってくるといつもこう言う 年寄りの自分が言うのも何だが身体がよぼよぼ、認知症かと思われるような年寄りも講習に来ている、本当に免許を更新していいのかどうか疑問になると。
 あるときそのような人のうちの一人が隣に座っていた家内に遠慮がちにこう話しかけたという、
 「私のようなものが免許更新なんてと思うかもしれないが、実は病気持ちの家内が通院するときバスでは不便、タクシーでは経済的に無理、自家用車で連れて行くしかないので免許証がどうしても必要なんですよ」
 家内はこういうしかなかった、
 「そうですよねえ、事情はよくわかります、気をつけてがんばってください」

 しかし、やはり高齢運転は危ない。高速道で逆走して大事故を起こすなどのニュースを見るとそれをしみじみ感じる。家内もいつかは免許を返上しなればと言うが、決心がつかなかった。前にも述べたが都市部でも高齢者こそ自動車が必要な時代になってきているからだ(注4)。
 かつては年寄りでも歩いていけるほどの近くに八百屋、魚屋、肉屋、菓子屋、雑貨屋、洋服屋、自転車屋、金物屋、靴屋、下駄屋等々があったので、車なしでも日常の生活には差支えがなかった。近くの医者は自転車で往診にも来てくれたので歩けない場合など通院しなくともよかった。緊急事態になると夜も起きて診てくれた。ところが、昭和の後半から徐々に変わってきた。自動車なしでは生活が難しくなり、年寄りには住みにくい時代になったのである。

 それでも、昨年の秋、家内はとうとう自家用車を手放すことにした。無事故無違反だった運転免許証も先日返上した。
 高齢者運転の危険性が騒がれており、やはり家内も年齢、しかも体力も衰えて病気やけがをしがち、何かあってからでは遅い、不便にはなるけれど拙宅などは相対的に交通の便のいいところ、しかも高齢者のバス賃は割引き、何とかがんばろうということになった。かくして、ちょうど満20年、10万㌔、北海道と東北を走り回った北見ナンバーの車と免許証を手放すことにしたのである。
 そのとき心配したのは、ペットロス症候群ならぬ「カーロス症候群」に家内がならないかだった。家内は言う、やはりぽっかりと何かが抜け落ちた感じで寂しい、慣れ親しんだ北見ナンバーの車が駐車場にないのを見ると胸がしめつけられるときもある、でも思ったより感じない、一昨年末の肩の怪我以来あまり運転しなかったせいではないかと。それで一安心したが、やはり買い物は不便である。たとえばホームセンターだ。これは中心街にはなくて郊外にあり、バス路線からも外れており、荷物の持ち帰りも大変、タクシーならべらぼうな金がかかる。そういうことは我慢するしかない。病院はタクシー、最終的には救急車で何とかしよう。
 ともかく夫婦二人協力してがんばるよりほかない。少なくとも後7年、90歳までは、どちらかが倒れたりおかしくなったりしたらそうならない方が面倒を見、介護サービスや子ども・孫の厄介にはならないようにしよう。その後は、子どもや孫たちの意見を聞きながら申し訳ないけれど介護センター等々世間様のごやっかいになって、まあ、百歳までは生きないだろうが、いずれにせよ二人いっしょにあの世にひっそりと旅立とう。こんな夢想とも妄想ともつかないことを考えている今日このごろである。

 こうした私たちのような戦前昭和の産めよ増やせよ時代生まれの世代は、すでに「高齢者」として社会のご厄介になっている。戦後昭和のベビーブーム以降の世代も今そうなりつつある。昭和末期の世代もやがて社会のご厄介になることになる。
 大正世代はもうかなりの年齢で少なくなりつつあるので、やがて高齢者は昭和の世代で占められることになろう。
 この増え続ける昭和高齢者、そのおかげで平成や令和生まれの働き盛りの世代は高い税金や社会保険料を払わされ、生活が苦しくさせられているのだ、政治経済のあり方の問題からではないのだ、「昭和世代の長寿」が国を亡ぼすのだ、こんな宣伝によって昭和厄介者世代対平成現役世代(やがてはそれに令和世代も加わることになる)の対立構図がつくられる。そしてお互いに足の引っ張り合いをさせられながら、富裕層・多国籍巨大企業はますます豊かに、一般庶民はますます貧しくなり、田畑や村々は荒廃し、地球環境はますます悪化していく。さらに、お祭り好きの日本人が改元、皇位継承で大はしゃぎしているうちに昔の「天皇崇拝」「皇威発揚」の世の中にさせられていく。そして、戦争を知っている昭和前半世代がやがていなくなることを利用して憲法を改悪し、軍事力をますます強化して平成や令和生まれの若者たちがアメリカの指揮のもと国外で戦わせられるようになる。

 そんな世の中を見たくない。といってももうすぐ私はこの世にいなくなるのだから見なくともすむかもしれないのだが。

 いや、そんな世の中にはならないだろう。平成生まれも、やがてその次の時代をになう令和生まれも、きっとみんな豊かに平和に生きていける世の中にするために大きな力を発揮してくれることだろう。
 心からそう期待したい。

(注)
1.10年12月23日掲載・本稿第一部「女性参政権を行使できなかった母」参照
2.13年7月25日掲載・本稿第六部「バスツァー、福島の花見」(4段落)参照
3.このへんの事情については本稿の下記掲載記事で詳しく述べている。
  12年5月25日掲載・本稿第四部「自家用車不可欠の時代へ」
4.12年5月28日掲載・本稿第四部「車社会と地域格差、年齢格差の拡大」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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